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新旧仕事のふり返り

社長との面談。期末なので1年分の振り返り。いつものように資料を作っておいて、プレゼンのようにそれを二人で眺めながら。

他のメンバーはけっこう早くて15分ぐらいで終わってしまう人もいるんだけど、自分はいつも1時間ぐらいかかる。雑談が多いのもあるかもしれないが、基本的にリラックスして喋れるからだろう。月の後半にもう一度、今度は評価面談のようなもの。

年明けから新しい社員さんが入る。うちのチームに所属する人。その話も少しした。楽しみがある。

少し前にcommmonsから連絡があって、scholaを作っていたときのデータというか素材で、commmons側にないものがこちらにあったら提供してほしいみたいな話。もちろんというか、それはあった。整理して送りますよと返事をした。

貴重なデータが多いから、自分ひとりでこのまま持っていても仕方がない。commmonsの方で一括管理してくれるなら、それは自分よりも長生きするかもしれないし。

しかし「整理して送る」とは言ったものの、とりあえず残しておくだけで精一杯だったようなところもあって、どれが何のデータなのか、まあ大体はわかるが具体的なところまではすぐわからないものが結構ある。ということで、そういうのは別々のデータ(日々の記録をしておいたメモとか、メールのログとか)をあちこち突き合わせて「これは何月何日のあれか」とか同定していく。それ、一見面白そうだが結構つらい。当時の自分は本当に勢いだけで仕事をしていて、ピンボールマシンのようにあっちこっちにぶつかりながら突き進んでいた。そのぶつかり(というか失敗)を追体験し続けるのでそれがつらい。

scholaの仕事は承認欲求満たされまくりだから、良いことばかりだったように思っていたが、ぜんぜんそうではなく、ひたすら毎日失敗したり恥ずかしかったりしていたのだなとちょっと思い出した。背伸びをしない日はなかった。それが嫌だったという話ではなく、当時は「そういうものだ」と思ってぜんぜん気にしていなかったが、後になってみたらあれって超恥ずかしかったじゃん、みたいな感じのこと。まあ、当時周りにいた人たちはみんな完全に忘れているだろうけど、ようは自分が今この時点においてもまだそういうことを気にしている中途半端な人間だということだろう。成長がない。

今日は全17巻のうち5巻までを簡単にだが整理した。あと12巻分もある。

前にも書いたかもしれないが、15巻ぐらいまで作った頃に、「そろそろ半分だから*1制作側から見たscholaのことを本にでも書いたら」みたいな話が挙がって、あれは小沼さんが言ってくれたのだったか、それを坂本さんも「そうそう」という感じで聞いてくれていた気がするんだけど、ぼくはそれを光栄な話だと素直に喜びつつ、現実的にはむずかしそう〜とも思っていた。もちろんそんなことができたら素敵だし、やる気がぜんぜんないというわけでもなかったが、基本的にscholaの制作って地味だし、上手くいかないことばかりだし、自室では常に呪詛を撒き散らしながら作っていた感じだったので、そんなドキュメンタリーを書いても誰も夢を持てないし、敵を作るだけではと思っていた(そんな正直に書かなくたっていいのだが)。

しかし今にして当時の様子を振り返ってみると、まあ大失敗・大失態ばかりではあるけれど、それでもキラキラした瞬間はあったというか、30代前半から40代前半までの10年間、自分自身ではないような、しかし他の誰でもないような誰かとして、ハイテンションであちこち破壊しまくりながらあれを作っていた日々というのは、それはそれで興味深いというか、他人が見てもそれなりに面白いものではあるのかなという気もしてきた。

*1:当初は30巻予定だったのでそういう話になった。

福田村事件を見た

面白かったんだけど、とりあえず「なにこれ」と思ったのが柄本明が死んだときにその息子の嫁役の女性が半裸になって、義父であるところの死者(柄本明)に覆いかぶさって泣くところで、「このシーン、要るか?」と思った。後から「そういえば」みたいにそう思ったのではなく、見ながら「は?」と思って一気に現実に引き戻された。これ、息子が戦争に行っている間に嫁と義父が姦通し、嫁の方も義父を慕ってましたみたいなことを示しているシーンなのだけど、夫が戦争に行っている間の嫁といえばその「家」から出るに出られない立場なわけで、ということは、それを良いことに義父が嫁に性暴力を振るっていたという状況だろう。にもかかわらず、それを肯定的に描くって何?こんなん見て喜ぶのって馬鹿で幼稚な老人以外にいるの?という感じだった。世の中のフェミニズムや性暴力に関わる潮流を一切踏まえていない、何十周遅れの表現なのだろうと思ってしまった。仮に当時そのようなことが実際にあったとして、それをこのように「美しい出来事」のように描けるのって何なのだろう?おぞましい・・。後にも先にも全然繋がらないシーンだし、突然映画全体に不信感を抱かざるを得ない感じになってだいぶ戸惑った。

そういえば、この映画の企画・脚本チームには荒井晴彦氏が加わっているはずで、荒井氏の好みなのだとしたら辻褄が合うなと思っていたら、パンフの監督インタビューによればこの辺のシーンはやはり脚本チームの発案だったようで、荒井氏の案かどうかはともかく、少なくとも森さんの意向ではなかったようで軽くホッとした。森さんだってもちろん世代としては荒井氏に近い方だが、社会問題や弱者への視点は強く持っているはずで、観る側もそんな森さんの映画だからと思って見ているところにこんなシーンが出てきて、そのときは本当にただ混乱したし、図式的には「裏切られた」みたいな感じですらあった。なんというか、今どきの老年男性が女性に対して抱くファム・ファタール幻想というか、「女性にはこうあってほしい」みたいに思う勝手なイメージをそのまま塗り込めてしまったかのような。これとは別の映画でそういう妄想全開でやるとかなら良いのかもしれないが、この映画の中では足を引っ張ってるだけだった。何より、ベテランの脚本チームがそれに気づけていないというのがつらい。何かのインタビューで、森さんが「今回、脚本チームと組んでやったことによって得られたものと、失ったものをプラマイで言ったら、マイナスの方が大きいかな」というようなことを言っていて、もちろん上記のようなシーンのことばかりではないだろうけど、なんかその話もちょっと思い出した。

映画全体としては、とにかく始まってから全体の70%ぐらいまではひたすら苦しいというか、別に面白くないわけではなく、不愉快なのでもなかったが、ただもう「早く終わってくれ〜・・」という感じだった。何度も時計を見て「あと何分我慢すればいいのか」と思っていた。だったらそもそもなんで観に行ったんだよ、という感じだが、持っていた劇場共通の前売券が今月いっぱいまでで、作品はその劇場でやっているものなら何でも良かったんだけど、この時期に公開中の選択肢の中ではこれしかなかったというか、いや、この映画は絶対見るべきものだということはわかっていたんだけど、相当つらい思いをするのもわかりきっていたので、普通ならわざわざ金を払ってそんなものを見るわけがないのだけど、何しろその前売券が無駄になってしまうし、他の公開作はどれもこれに比べたら「見る必要」を感じられないものだったので、「これも巡り合わせか・・」と思って覚悟を決めて行ったということ。配信だったらまず見ないし、仮に再生しても大半は早送りで飛ばしてクライマックスだけ見るとかだったと思う。劇場なら強制的に頭から最後まで付き合うことになるはずで、その意味でも見るなら劇場しかないとは思ってた。

行商団や福田村の村民の描写はなかなか良くて、とくに行商団はすぐに愛着を抱けるようなシーンが多いので、はあでも最後はこの人たちが惨殺されるんでしょ・・と思うともうその愛着を感じさせるシーンからひたすらつらかった。すべての微笑ましいシーンが「でも結局最後は虐殺でしょ・・」という暗さを帯びていて、豊原功補演じるリベラルな村長が幾度となく醸し出す希望を感じさせるシーンですら、常に反転して重苦しさが漂ってくる。だから始まってからその殺戮シーンに入るまでのすべてが何をやっていてもとりあえずつらく、重く感じられた。むしろ殺人のシーンに入ってからはそういう反転感がなくなるから、シンプルに鑑賞できてまだラクだったかもしれない。まあ実際には、その殺戮シーンに入ってしばらくして手元のApple Watchがブンブン震え始めて、心拍数が異常に高いですみたいな表示が出たので全然落ち着いてはいなかったんだけど。

その殺戮シーンもそうだけど、とにかく音楽はどれも良かったと思う。後から知ったが鈴木慶一さんらしい。最近の北野映画も鈴木さんだったか。これならたしかに北野映画にも合いそうだな・・とエンドロールを見ながら少し思った。

役者はやはり何と言っても水道橋博士と田中麗奈。水道橋博士は当初はぎこちなかった、と森監督が何かのインタビューで言っていたけど(ほぼ順撮りだったらしい)、自分には初めの方の登場シーンから良い感じだった。常に自分に自信がなく、それゆえに自らを奮い立たせるように威張り散らしている感じ。とくに虐殺シーンの前後ぐらいの声を張って喋るところ、本当に良かった。いくつか感想で、戦場のメリークリスマスにおけるビートたけしのような位置づけと言っている人もいたけど、さてどうだろ。水道橋博士が演じたこの役は、もっと肉体をフル稼働するような動的な存在で、役者としてのビートたけしが言われるような「上手い」とか「味がある」みたいなものではないように思ったけど。また、博士本人はこの役柄の人物とはほとんど真逆と言える政治指向なわけで、だからこその説得力というか、演技でここまでできるのか〜・・という驚きがあった。

田中麗奈の演技ってあまり見たことがなかったが、全編を通してなんともまったく違和感のない存在で、ひたすら「すげー」と思っていた。その夫役の井浦新もよかった。ちょっと前までは、「モデルの人がなんかそれっぽくボソボソ喋ってるだけ」などと意地悪く見ていたが、映画の世界にすっぽり溶け込んでいて、不自然な雰囲気はなかった。ピエール瀧も今まで役者として上手いとかはあんまり思ったことがなかったが、今回のは「本当にこういう人いそうだ」と思って見ていた。もちろん「ああ、ピエール瀧が演技をしているな」と思って見ているが、映画の世界はまったく壊していないというか。

新聞記者の女性について、ちょっと描写が薄っぺらいのではという(優等生すぎる、とか)感想を見たが、たしかにそうなのだけど、映画としてはやはり当時の新聞の役割をある程度大きく扱う必要はあり、その流れの中でこういう役柄があるというのは、まあいいのではないかと思った。難があるとしたら、そういう役や映画上の描写不足ではなく、ただ真面目なだけの人のように演じられてしまったその演技の問題というか、単調さというか、そういうところだったのではないか。

終盤で、行商団のリーダーが「あるセリフ」を言う、ということがこの作品に関する感想とか、批評とか、関係者のインタビューなどでもよく言われるんだけど、正直、見ているときはそのセリフを聞いても「まあ、そうだよね」ぐらいのことしか思わず、そこまで重要な、この映画の核になるようなメッセージだとは思わなかった。後から誰も彼もがネタバレを避けるかのように、そのセリフのことを「あるセリフ」とか言っているのでここでもわざわざそれを書きはしないが、まだ見ていなくてそういう話だけを聞いて、さぞかしすごいセリフが出てくるだろうと思っていると、「ん?今の?」という感じになる人もいるかもしれない。

それよりは、個人的には虐殺があらかた終わって、じつは行商団は朝鮮人ではなく日本人でした〜ということがわかり、殺人者たちが呆然とするシーンで水道橋博士が放った絞り出すような叫び。あれの方がよっぽど「そうきたか・・」という感じだった。実際には、その加害者たちがその後の裁判で滔々と述べた内容などの方がよっぽどすごい(想像を絶するような)話だったりもするようだが、この辺もあまり詳しく書いてもこれから見る人に悪いかもしれないのでこの程度までにしておく。

全部見終わって、はあ見てよかった、もう1回見ようかなという気になるぐらいの充実感を得た。これを見る前の自分と見た後の自分は明らかに違う。今後歩んでいく人生も確実に変わっただろう。もちろん、良い方向に。いろいろ否定的なことも書いたが、この映画を実現してくれたすべての人に感謝したい。

ワクチン集団接種

昼前に起床。最近、休日はいつもそんな感じ。前日に作っておいたプロテインを飲む。ヨーグルト味、30gぐらいを水と牛乳で。プロテインはシェイクしてすぐ飲むとダマが多く、何時間か冷蔵庫に入れておくとそれが落ち着く感じがする。朝イチで作るのは面倒なので、前日夜の寝る前に作っておくパターンがここ何週間か続いている。ダマも消えるし、一石二鳥。

プログラミングの課題に関わる参考書籍を蔵書からいくつか引っ張り出す。2015年とか、もう7〜8年前にそういうのをいくつも買っていた。そのまま捨てていなかったので、まだ使える。プログラミングの本というのは通常、流行の移り変わりが激しいので古いものは使えないケースが多いが、今やっているSQLはそういった違いが少ないので幸い再利用しやすい。

そんなに昔、そういう仕事をしていたわけでもなかったのに(現職ではなく、フリーランスの編集者ですらあったのに)なぜそんな本を一生懸命買い揃えていたのか、その情熱に他人事のような興味がある。買ったからと言って、特段よく勉強したわけでもなく、買って満足しただけというケースが大半だったわけだけど、それでも。

それでも、そのとき買ったそれらを今になってようやく有効に使えそうなので、それはありがたいというか、不思議というか、これもまた自分のことではないような興味深さがある。

夕方、新型コロナウイルスのワクチン接種。5回目。ようやくこの日が来たという感じ。自分の周りでは職場でもプライベートな知り合いでも、今まで罹患せずにいた人がどんどん「初めて感染」していっている。自分は今なお「そこまでせんでも・・」と思われるような対策を取っているとは思うけど(外から持ち入れたものは食べ物にかぎらず基本消毒するとか)、それでも不安は大きい。とくには、家族への感染だけはぜったいに避けなくてはいけない。

周りの人たちが次々「初めて感染」しているのは、もちろん気が抜けたとか、以前ほど対策をしていないとかもあるかもしれないが、それ以上に、というか単純にワクチンの効果が落ちているからではと思っていた。ワクチンはもちろん感染自体を防ぐものではなく、重症化を抑えるものだと思ってもいるが、それでも感染自体を抑える効果がないとも思えない。昨年終盤の第4回から、そろそろ1年が経とうとしていて、以前の分の効果が消え始めて感染者が増えているのでは?もしそうなのであれば、とりあえずさっさと次を打ったほうがいいだろうということ。

今回は週末の休日に接種する必要があり、そうなるとこれまでやっていた通常の病院ではできなかったので、初めて集団接種の会場で接種したが、これが驚くほど良い環境で驚いた。段取りが素晴らしく整っていて、その場その場での担当さんの丁寧さや要領の良さにただ感嘆するばかりだった。病院での接種もそれなりに段取りが整っていて、流れに身を任せるだけという感じでとくに不満はなかったが、集団接種の準備の良さは比較にならないほどのもので、受けに来た人が飽きないような工夫もされている。何かあればすぐに対応できるように専門の医師も一緒に待機していた。こんなに環境が良いなら最初からずっと集団接種でも良かったと思うほどだった。次回以降は自費になるようだが、そうだったとしても集団接種会場があるならそれにしたいと思った。

ケーキの値上がり

昨夜はポリタスTVのメンバーシップ限定の放送を2時間近く聞き流してから、プログラミングスクールの課題に関連してSQLの入門者向け解説動画をこれも聞き流しながら寝た。寝る前に何を見るか(聞くか)はなかなか迷うところで、入眠しやすいものと逆に覚醒してしまうものの境目があまり明確ではないので、やや検討課題だと思っていたが、このシリーズは非常にリラックスできていい。

www.youtube.com

ちょっと前までVoicyの今フォローしているものを聴きながら・・とかも試したのだけど、これはあまりリラックスできないというか、つい興味を持って聴いてしまうのであまり向いていなかった。

それでも、幸いなことにここ20年ぐらいは不眠に悩まされたことはほとんどない。前にも何度か書いた気はするが、自分が不眠に悩んでいたのは小学生とか中学生の頃だった。「明日は早く起きなければ」というのがなくなってから解放されたように思う。

午後、今月二度目のパーソナルトレーニング。前回はベンチプレス、ショルダーバックプレスなどのプレス系がメインだったので、今日は背中デイで引いて引いて引きまくった。背中のトレーニング、だいぶコツを掴めてきた気がする。

その後、久しぶりにケーキを買いに。しかし最近、どんどん単価が上がっている気がする。ショートケーキで600円超。何店舗か見たけど、大体どこも同じぐらい。まあ比較的名のあるチェーンというかブランドのものではあるけど、それにしても・・。まあ買ったけど。

夜は昨日に続いてSQLと自動車運転の動画でまったり。運転についてはもうだいぶ忘れていることがあるな・・とあらためて思う。いくつか動画を見ているだけで随分復習になる。教習所に通っていたときのことはいずれ詳しくまとめておきたいと思いつつ、ずっと後回しにしていた。そろそろ頃合いかもしれない。

食べるよりも楽しいこと

仕事

そこそこの忙しさ。午後の一部と通常業務後の残業を費やして、編集作業をキリの良いところまで一気に終わらせた。成果は出たし、達成感もあったが、通常業務の最後の振り返りで「もっと頑張ってほしい」みたいなことを突然メンバーの一人から言われ、困惑した。・・ええ?入社してから何年か経つが、こんなことをメンバーから言われたのは初めてだった。しかもこれまでそんなふうに思われている兆しはまったく感じていなかったので、余計に驚いた。メンバー間のコミュニケーションにはそれなりに気を配っているつもりだったけど、見えていないことが多かったのだろう。長い氷河期が始まりそうだ。

昼ごはんはコンビニでチャーハン弁当的なもの。ものすごくしょっぱい。本当は近所の馴染みの中華屋で持ち帰りをしたかったのだけど、時間が合わなかったので。しかしチャーハン欲はある程度満たせた。安いし。

サブスク

このところ、立て続けにいくつかサブスク登録をした。

note.com

www.asahi.com

www.youtube.com

ばるぼらさんのnoteは開始当初から2年ぐらい購読していたんだけど、読むのが追いつかなくなってしばらくやめていた。のだけど、知り合いの編集者がよくシェアしているのを見て、また再開してみようと思った。

朝日新聞のは月額980円のもので、インタビューものなどの政治ネタ以外には良いものが多いので。政治ネタは親自民党的なものが多くて反吐が出るが。

ポリタスは数ヶ月前からだけど、これもサブスク開始当初から(Vimeoの頃から)購読していたのをやめたり再開したりしていて、また再開したところ。

いずれも「お金払っているけどほとんど見ないな」と思ったら気軽にやめて、見たくなったらまた再開、という感じ。とくに朝日新聞は暇つぶし的に読めるものが多くて(シビアなネタでも)、これはアプリがそのようにできているからなのかもしれないが、以前よりだいぶ印象が良い。プラス千円出すと「あとで読む」ができそうだが、それだけのためにプラス千円か・・むしろできて当たり前であってほしいが・・などと思って食指が動かない。外部のブックマークアプリ(Pocketとか)には連携できるので、ひとまずそれでお茶を濁している。

酒量を減らす取り組みをしている。以前はわざわざ計量カップに入れてからグラスに注いだりもしていた。涙ぐましい。しかし今はそのときよりも飲んでいないと思う。アルコール度数もいろいろ比べて少ないものを選んだり。しかしそれをしながら、なんだかタール1ミリの煙草を吸っている人のようだと思ったりもする。悲しげなイメージとともに。1ミリならもう吸うなや、と思っていた。20代ぐらいの頃。しかし煙草は、あの体から(というか口から)リアルな煙が出てくるのが良いのだと思う(たぶん)。あれをできるなら1ミリだろうが0.1ミリだろうが構わない、という気にはなる。でも、0ミリでは駄目なのだろうな。ほんの少しでも体に悪い必要がある。それはきっとアルコールでも同じなのだ。

夕飯時に、どれだけ度数が低くてもアルコールがあってほしいと思うのは、それに代わる楽しみというか、自分を満たすものがないということなのだろうか。時々、夕方にプロテインを飲んで夕飯時に食欲がないときなどは、アルコールをやめて食事だけ取ったりもするが、そう考えると単に食欲があるからアルコールを求めているだけ、という気もしてくる。

30代に入るまではずっと肥満型だったが、いつしかダイエットをしようなどと思わなくても自然に適量の食事で標準体型(どころか痩せ型)になっていた。以後、ダイエットの苦しみや焦りみたいなものはまったくなくなった。それは50代が近づいてきた今でもそう。なぜそんなふうになったのかといったら、結局のところ「食べること」がストレス解消の手段ではなくなったというか、「食べる」以外のことでストレスを解消できるようになったというか、食べる以外の楽しみを得られたから、ということなのだと思っている。では何が「食べる」以上の楽しみでありストレス解消法になったのか、と言ったらよくわからないのだが、それをあらためてきちんと考えてみるべきなのかもしれない。それを言い当てようとしたことがなかった。

なお、ここで言う「食べること」とは、「おいしいものを食べる楽しみ」みたいなことではなくて、あくまで「ストレス解消のための食」で、言い換えると「暴飲暴食」みたいなこと。