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ウェビナーのハシゴ

昼過ぎ、プログラミングスクールのオンラインイベントがあり、参加した。昨年の今頃から通い始めたフィヨルドブートキャンプというところで、メインのプラクティスの他に生徒同士が適当に交流する部活みたいな仕組みがあり、それの相談会というか、ガイダンスみたいなもの。

昨年終盤からちょっと疲れが溜まりぎみな感じもあり、スクールの進捗はあまり良くなかったんだけど、そろそろ本腰入れないと・・と思っていて、ちょうどその切り替えの取っ掛かりとして良さそうだったので参加してみた。

いろんな人がいろんな背景を持って通っているようで、それが印象的だった。時間のある人はお金がない。お金の不安が少ない人は時間がない。普遍的な問題がここでも大いに見られる。あいつはあんなに自由で羨ましい、と思われた側は「あいつはあんなに余裕があるのになぜ何もしないのか」と思っている。どちらも相手が機会を生かしていないと思っている。自分があいつならその機会を逃すはずはないのに、と。

自分はもう人生の折り返し地点をとっくに回ってしまっている。10年後にはこの世にいない可能性が少なくない。そんな現実が来るなんて。リセットもできない。もう終盤が見えてきた。この流れを変えることはできない。

しかし、未来から見れば今が一番若い。自由に体を動かせて、本を読めて、こうして他人に意志を伝えられる。それすらも今後は不可逆的にできなくなっていく。読みたい本を「後で読む」ことはできない。お金を貯めておいて、「後で楽しむ」なんて現実的ではない。「後」になったとき、すでにそれを楽しむためのインフラは身体から損なわれているはずだ。

今やるしかない。今が一番若い。若くありたいのではない。そのような目的は不毛だ。若くありたいのではなく、若くなければできないことをやっておきたいということだ。死ぬ前に。死が現実的になってきた。

夕方から夜にかけて、本日二つ目のウェビナー。これは毎日新聞の校閲センターが企画したもので、以下。

salon.mainichi-kotoba.jp

毎日新聞校閲センターによる有料サービスで「毎日ことばplus」というものがあり、これに入会している人が参加できるもの。「毎日ことばplus」については以前に紹介したことがあったかどうか、忘れてしまったけど、これのこと。

salon.mainichi-kotoba.jp

今回のテーマは「漢字」で、その道のプロである円満字二郎さんをゲストに、校閲センターの平山泉さんとのリラックスしたやり取りの中でかなりニッチ、だが興味の尽きない話題がひたすら繰り出された。ぼくは今の会社でも編集に関係する仕事を少なからずやっているので、仕事も兼ねて、というところもあるけど100%趣味だったとしてもなかなか楽しめただろう。

昼のイベントはRemoというサービスを使って行われたけど、夜のこれはZoom。Zoomは超久しぶりでけっこうセッティングに戸惑ったが、とりあえず何とかなった。今後はもう少しスムーズにできるはず。

ウェビナーの内容に戻ると、お二人が話していることは大体自分が普段考えていることと重なっていて、良い意味であまり意外性はなく、なんというか、自信になった。ぼくは今の会社に入る前は(このブログを以前から読んでいる人ならご存知でしょうが)10年ほど一応「編集」の仕事をしていて、漢字の使い分けとか、開き閉じとかのことばっかり考えていた。しかし、その知識は誰かから(あるいは学校で)教わったようなものではなくて、非効率にもほとんどすべて独学というか、自分で調べて答えを作っていったようなものだったから、ここでようやく答え合わせをできたというか、「まあ、それほど大きくは間違ってなかったな」と思えて安心した。

意外性がなかったと書いたけど、ひとつ「へえ、そうなんだ」と思ったのは、円満字さんが言っていた、漢字の使い分けで悩んだら「最後はオレが決める」という話。それでいいんかい、と思わず笑ってしまったが、たしかにその通りだろうとも思った。最後は自分の感性で決める、ということ。それもできないなら、平仮名にすればいい。あるいは、鉛筆を転がして決めるのでもいい、とも言っていた。まあ鉛筆は極端というか比喩だと思うけど、「最後はオレが決める」というのは暴論でも投げやりでもなく、考えに考え抜いて突き詰めた先にあるのはまあ、それなんだろう。

円満字さんは現在につながるキャリアの最初が漢和辞典の編纂だったそうで、それが「地味ですよね」みたいな話になったとき、円満字さんは「いや、そんなに地味でもないですよ、校閲もそうでしょう」なんて言っていたけど、ここで言いたかったのは「イメージは地味かもしれないけどやってみれば面白い」ということなのだろうと思った。「地味=退屈」ではない、ということ。やりがいはあるし、発見もあるし、汲めども尽きせぬ魅力がそこにはある、という。人生を彩るのは「驚き」で、人が本当に求めるのは派手さではなくそれだろう。