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仁藤夢乃著『難民高校生』を読んだ

正味4〜5日で読んだと思う。大変濃密、かつ考えさせられるところの多い良書だった。ちくま文庫版を読んだが、その文庫版あとがき、そして小島慶子さんの解説もよかった。

ただし、このちくま文庫版は電子化されていない。文庫版あとがきまでを含めて一つの作品というか、セットとして読むべきものだと思うので、これが電子化されて誰でもスマホで手軽に読めるようになるとよいのだけど。(実際、読みたいと思ってから読み始めるまで、取り寄せ期間を経て数日かかった)

一方、単行本の方はデジタル化されている。値段も600円程度なので、とりあえず電子版を、という人はこちらを。これだけでも十分に内容は詰まってる。

恩人とも言える阿蘇さんとの出会いは、著者にとって大きなものだったと思うが、大事なことは、その阿蘇さんが必ずしも「すべてを変えてくれた」というわけではない、ということだろう。著者はその人と出会うまでに、自分の人生を変えるために高校を辞め、高認を受験するために河合塾コスモに入り、そこで初めてその人物に出会い、やがて生き方が変わっていく。これは何も、道を歩いていたら突然その人に巡り合ったとかいうことではなく、元々自分で人生を変えようと試行錯誤していたからこそ、その先にその出会いがあったということで、もっと言えばそういう元々の希望、姿勢がなかったら、同じ人に会ってもこのような作用は起きなかった(何も感じなかった、受け取れるものはなかった)に違いない。そうだからこそ、著者はその後にその人がいない場面でも、どんどん自分の道を切り拓いていく。

見方によっては、ここに書かれている数々の行動、実践は、一人の積極的でポジティブで社交的な、生まれつきそういう性質・能力を持つ人の武勇伝のように受け取ることも可能かもしれない。つまり、自分にはこんなことはできない、この人は特別だからこのようなことができるのだ、と。しかし、仮にそうであったとしても、あるいはそうでなかったとしても、それは本書や仁藤さんの活動について語る上で、あまり重要なことではないと思う。重要なことは、本書を読んで、「こんなふうに生きることもできるんだ」と知ること。自らの固定観念を壊して、新たな可能性というか、広がりを得ること。とくには、今この時点で、かつての著者のように苦しい時間を生きている人が、そこから逃げ出す方法を知ること。そういうことが実現しさえすればいいと思う。

本書には、著者やその友人が体験したつらい出来事がたくさん書かれているが、そういうことを書くときには、そのときの気持ちや状況を追体験しながら書くことになるだろうから、それはつらかっただろうと思った。しかしそれらの記述は、同じような境遇にある人たちにとって非常に大きな支えになるはずだと思う。

文庫版あとがきを中心に語られる、虐待に関する記述、およびそれがもたらす負の連鎖に関するくだりも深く印象に残った。本質的というか、根深い問題だと思える。

仁藤さんはTwitterで、Colaboの活動を当事者運動だと言っていたけど、それはそうだろうと思った。本書を読めば、それは言われなくてもわかることだが、その意味でも仁藤さんやColaboの活動を取材しようという人は、最低でもこの本を読んでおくべきだろう。

ちなみに、はじめにColaboの存在を知ったのは、たしか稲葉剛さんの以下の本を読んだときだと思う。

これについては、以下にちらっとだけ書いた。
note103.hatenablog.com

その本を読んで、このColaboという支援団体は非常に意味のあることをやってるな・・と思ってサイトをチェックして、まずはとりいそぎ、という感じでサポーター会員に申し込んだ。

公式サイト。
colabo-official.net

支援関連ページ。
colabo-official.net

今はこれに加えるかたちで、シェルター増設サポーターを検討している。

これを書いている今、Colaboは馳浩議員による同活動の視察における心ない行為のために、とても大変な様子だ。この問題も根は深く、端的に述べるには大きすぎる被害をColaboにもたらしているから、ここで詳しくは触れないが、それでも女性の議員までもが馳氏を養護するコメントを出しているのを読んで、心から失望するとともに、こうした活動が行われることの意義をあらためて感じた。

将来的には、仁藤さんやColaboのような特定の人々や団体のみが頑張るのではなく、多くの人が継続的に、こうした活動に取り組める仕組みが整備されること、また元になる被害自体を減らしていくことが理想だろうが、この国ではまだまだその素地が育っておらず、それが実現するにはしばらく時間がかかりそうだ。
これがいずれ実を結ぶまで、自分なりの仕方で支援を続けたい。

軽い気持ちで寄付してる

寄付なんてするとは思っていなかった。1〜2年前まではほとんど無職のようなものだったし。将来に感じる不安も半端なかった。年金ってなに?という感じだった。それでもぼくは、自分がアーティストのようなものだと思っていたから、いやアーティスト活動はしてないが、精神というのか、んー、ちょっと違うな、出自というのか、自分ではどうにもコントロールできない属性みたいなものとして、どこにも所属できない根無し草みたいなものだと思っていたので、安定なんて得られなくても仕方ないと思っていたが、結果的に会社員になり、他人に寄付、つまり「お金で貢献」できるようになっていたから、してみようと思ってやり始めている。

金額は大体、ひと口千円から5千円ぐらい。毎月継続的にやるものは、千円〜1,500円ぐらい。単発でやるものは5千円前後まで。で、月当たりの上限を1万5千円ぐらいまで、と大体だけど決めている。

先月、2020年3月に行ったのは以下。

単発支援

団体 プロジェクト 金額 URL
わっぱの会 ソーネ基金設立支援 ¥3,720 https://camp-fire.jp/projects/view/241885
江原河畔劇場 江原河畔劇場設立プロジェクト ¥5,000 https://www.makuake.com/project/ebara-riverside/

継続支援(すべて月額)

団体 プロジェクト 金額 URL
ビッグイシュー ビッグイシュー基金 ¥1,000 https://bigissue.or.jp/
ビッグイシュー オンラインサポーター ¥1,000 http://bigissue-online.jp/archives/onlinesupporter.html
つくろい東京ファンド つくろいサポーター ¥1,000 https://tsukuroi.tokyo/
難民支援協会(JAR) 難民スペシャルサポーター ¥1,500 https://www.refugee.or.jp/

今月は現時点で以下に支援してる。

単発支援

団体 プロジェクト 金額 URL
東京アンブレラ基金 ネットカフェ休止要請への対応 ¥5,000 https://congrant.com/project/umbrellafund/1540

継続支援

団体 プロジェクト 金額 URL
Colabo サポーター会員(年会費) ¥6,000 https://colabo-official.net/support/

結果、先月は13,220円、今月は今のところ15,500円(新規11,000+継続4,500)。月当たりの上限を1万5千円にしていると言ったけど、2万円ぐらいまで考えておいてもいいのかも。どうも上限の手前で、対象を吟味しすぎるきらいもあるし。

寄付をするときに、ついつい、相手に「少ないですが・・」とか「ささやかですが・・」とか言いたくなる。でも、それは言っちゃ駄目だ。「そんなことないですよ!」とわざわざ相手に言わせることになるし、何よりそれって、自分を否定している。たとえ自分自身からであっても、恒常的に否定されたら傷つく。傷ついたら、もうそれを続けようとは思えなくなる。だから、そんなふうに自分を否定するようなことを言ってはいけない

千円で相手の役に立つだろうか? まあ、立たないかもしれない。でも、それでもいい。目的は、役に立つことですらない。いずれは役に立つかもしれない、その「いずれ」に向けて今をつなぐこと、今この時点から、その「いずれ」までの間に橋を架け続けることが目的だ。そのためなら、1円だっていい、Twitterでシェアするだけだっていい、ブログに書いてアップするだけでもいい。

ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』という本があって、「自分はいわゆるフェミニストとしては劣等生だが、それでも自分なりにフェミニズムについて語ってやる」みたいな話なんだけど*1、寄付するときにはそのことをよく思い出している。

バッド・フェミニスト

バッド・フェミニスト

自分は慈善家としては評価されないかもしれないが、それでも自分なりの慈善活動をする。それでいい。まずは自分のためにする。それがやがて、価値ある成果を生み出す助けになるかもしれない。それでいい、というかそれがいい。

最初にも書いたように、ぼくだってどうなるかわからなかった。ぼくもあちら側にいたかもしれない。かなり、リアルにそう感じる。今もその風景、どこにも住む場所がなくなった自分の姿が、重く湿った、冷たくぬるぬるとした空気に体を包まれる自分の姿が、手を伸ばせば触れられるぐらい、すぐそばに感じられる。だからぼくは、ぼくに支援している。ぼくだったかもしれない誰かに。ぼくやその人を含む、社会全体に。

寄付に限らず、たとえば何かを買うという行為であっても、持っていた金が自分の身から離れていくというのは、それなりにつらい、というか痛い。これまた、寄付をするときにいつも思い浮かべるイメージがあって、それはアンパンマンが自分の顔を食べさせるシーンだ。アンパンマンは顔を食べさせると弱ってしまう。でも食べさせる。なぜだ?それによって、得られるものがあるからだ。身を切るつらさという言葉があるが、それが寄付であっても、たった数百円であっても、金が自分から離れていくときには体の肉が引きちぎられるような痛みを感じる。でも、その痛みにこそ意味がある。命を分けている、という感覚が切実に、具体的に身に生じる。金には血が流れている。ぼくの血が。だからありがたがってほしい、という意味ではない。そんな痛みがあっても尚やるだけの価値がある、だからやっている、と言いたい。

社会がよくなってほしい。困ってる人が助かってほしい。その困っている人は、いつかの自分だ。過去の、あるいは未来の。自分を助けるために、他人を助ける。それだけ。見切り発車で、軽い気持ちでやってる。

*1:と言いつつ全部は読んでないので違うかも。バッド読者・・

批判するなとは言うけれど

頑張っている政府を批判するな、攻撃するな、という声がよく聞かれる。かくいうぼくも同じことを思っていた。もう5年前のことだが。

政府を批判するならば - Hiroaki Kadomatsu - Medium

今これを読み返してみると、いくぶん浅はかだなとは思うものの、基本的な物の考え方はあまり変わっていないようにも見える。変わったのは、考える材料というか、前提だ。前提が違えば、同じ考え方であるなら尚のこと、結果も変わってくる。

では、その前提はどのように変わったのだろうか。それは、この頃のぼくは日本という国の外側に立つ「お客さん」だったということだ。国を動かすのは、それを専門とする政治家や官僚、公務員の人々であって、ぼくは彼らの働く様子を外側から眺める傍観者だった。その内部にはいなかった。

それでいいじゃないか、と思う人もいるだろう。皆がそれぞれの道のプロとして、政治家は政治のことを、そうでない者はそうでない事を、自分の能力をフルに生かしながら、社会に対して最大限効率的に貢献すればいいじゃないかと。ぼくも以前はそう思っていた。でも、間違っていた。

国を動かすのは、国民、そしてその国に住む人々だ。その人々は、皆が皆、自分が乗る船を動かすためにオールを漕いでいる。つまりぼくらは船の乗客ではなく、乗務員、船員だった。

船がどちらに進むのか、なぜそちらに進むのか、どのように進むのか。それを決めるのは、我々船員だ。もちろん皆が皆、自分の欲望の赴くままにそれぞれの方向へ舵を切っていたらどこにも進めない。だから、便宜的に代表者を決めて、その人に船長を任せる。それが本来の政治の仕組みで、しかしその「代表者」という言い方がマズかったのか、あたかも船長が他の船員よりも「偉い」とか、人として「価値が高い」存在であるかのように扱われるようになってしまった。そして、その弊害があちこちに出ている。実際には、船長は「代表者」なんてものではなく、「代行者」に過ぎなかったのに。

国を、社会を動かすために、我々は暫定的に、「政治家」を設定した。彼らに議論を代行してもらい、その様子をチェックする。・・いや、チェックなんてしていなかった。だから、国会で何が起きているのかを知らないまま、どうやらとんでもないところまで連れてこられてしまった。我々の船が、いつから、どうして、こんなにどうしようもないところに流れ着いてしまったのか、ぼくにはもうわからない。わかるのは、それが自分のせいでもあるということだ。

政治家だって人間です、彼らの気持ちをくじくようなことはやめましょう、何もそこまで攻撃的に言う必要はないでしょう、殺伐とした物言いはやめましょう、批判はやめて、建設的な議論をしましょう、責任の追求なんて有害なだけで、今はもっと重要なことに取り組むべきで、反省なんて後で時間のある時にじっくりやればいいし、私たちはそれぞれの持ち場で、自分自身の仕事に集中しましょう。ある人々は、そのように言う。

しかし、それは間違っている。その物言いは、目に見える批判という「行為」だけを対象にしている。その行為がなぜ行われているのか、行為の「目的」、行為の「先」に何があるのかを見ていない。目を背けているのか、見てはいけないと思っているのかわからないが、「なぜその行為が行われているのか」を知らないまま、「その行為は駄目だからやめて」とだけ言っている。

目の前には、枯れかけた植物があり、それに水をやらない人がいる。「なぜ水をやらないのか、かわいそうだ」と言う人がいる。しかしその植物は、すでに水をやりすぎて根腐れで枯れかけているのだ。それ以上水をやったら、本当に死んでしまう。しかし、その「行為の目的」を知らない人は、「行為」だけに目を向けて、「水をやらないのは悪いことだ」と思っている。

歯を磨かずに虫歯になった子供に、歯を磨けと言ったら、泣いてしまった。それを見た人が「かわいそうじゃないか」と言う。そして代わりに、甘いケーキを買ってきて、食べさせてやる。その人は、歯を磨かなくてよくなった、ケーキをもらって喜ぶ子供を見て、自分は良いことをしたと思う。しかし、それがどのような結果をもたらすかまでは考えていない。

「批判はやめましょう」と言えるのは、その行為だけを見ているからだ。なぜその行為をしているかまでは見ていない。すべての「批判をする人」が正しいわけではもちろんナイ。誤った批判、愚劣な批判もあるだろう。しかし同時に、すべての批判が誤っているわけでもない。それはどんな行為にも言えることだ。政府にしたって、すべてが間違っているわけではない。しかし時に、致命的と言えるほどの間違いを犯し、それをまったく反省してもいない。森友、桜、検察人事、年金、種苗、そして466億円の小さな布マスク。・・一体、何をしているんだ。

一例を挙げよう。厚生労働省は3月半ば過ぎに、休校に伴う保護者への助成金を新設し、申請の受付を開始した。

しかしこの助成金では、風俗業などで働く人たちが対象から除外されていて、反発の声が上がった。そして4/2には支援団体から加藤厚労相に改善を求める要望書が提出されたが、翌4/3の段階で同大臣は「対応しない」と言っていた。
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加藤厚労相は3日の記者会見で、雇用を守るための助成金の規定で風俗業などを除外していることについて、「公的な支援措置の対象とすることが適切なのかどうかということで、そうした基準が設けられてきた」と説明した。支援団体の要請については「承知している」としたものの、「取り扱いを変える考えはない」と述べた。

しかし4/7、この方針は変更され、風俗関係者も対象に含まれることになった。
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新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための休校に伴い厚生労働省が新設した助成金で、風俗業などで働く人たちが対象外とされていた問題で、加藤勝信厚生労働相は7日の閣議後会見で「風俗関係者を対象とすることにしたい」と述べ、風俗業や客の接待を伴う飲食業で働く人たちも支援対象とする方針を表明した。

厚労省が定めた要件では「暴力団員」などと並び「性風俗業」や「接待を伴う飲食業」の関係者を対象外としていた。ネット上などで「職業差別だ」と批判が出て、支援団体「SWASH」が見直しを求める要望書を加藤厚労相あてに提出していた。

ここで問いたい。もしも当初の方針のまま、政府への批判が行われずにいたら、この助成金の対象から外された人々はどうなっていただろうか。除外されたままだったのではないだろうか。それで構わない、問題ない、と言える人だけが「批判するな」と言ってほしい。

ちなみに、「批判はやめましょう」もまた、批判する人への批判である。批判に意味がないのなら、その「批判をする人」への批判もまた無効ということになってしまう。それでいいのだろうか。もちろん、良いはずがない。批判は必要だ。良い社会を作るために。それをわかっているから、「批判はやめましょう、建設的ではないから」という批判をしたくなるのではないだろうか。

批判をしたくなるのは、あるいはそれをするのは、より良い社会を作りたいからだろう。その点では、「批判をする人」も、「批判する人を批判する人」も、同じ志を共有している。その人たちは本来、共同でコトに当たれるはずだ。我々の考え方は同じなのだ。ただ、その考えの材料が違う。前提が違う。異なる前提のもとで同じ考え方をしてるから、出てくる結論が違うのだ。

事実を見よう。科学的に。より多くのことを知ろう。我々は感情の奴隷だ。不安は常につきまとう。そこから逃れることは、人間であるかぎり不可能だろう。幸か不幸か、我々には想像力がある。想像力があるから、不安や恐怖から逃げることができない。しかし同時に、我々は科学を積み上げてきた。あるいは哲学を。もっと多くのことを知ろう。今までそうしてきたように。そして前提を、考えの材料を、より豊かに増やし、互いのそれが重なり合うまで広げよう。

批判をするな、というのもまた批判だ。そのようにして、我々は批判することを必要としている。あとは、その材料になる知識を広げていくだけだ。互いの前提知識が重なるとき、そこで初めて我々は、同じ結論に出合えるはずだ。

いつのまにか異常な世界に生きていた

人生の終わりが近い、と思っているわけでもないのに、残しておかなければ、という気持ちに時々なる。

安倍さんのことは少し前まで、どちらかと言ったら肯定的に見ていたと思う。家族に聞いてもそうだったと言う。たしかに、十分とは言えない。でもまあ、最悪でもない、という感じ。他に誰がいる?野党?まさか。という感じ。民主党政権を支持していたが、今の野党に国を動かすことなんてできないだろう、と。

以前にオバマ大統領が広島へ来たとき、ぼくは安倍さんが総理でよかった、と思ったものだった。何しろ歴史的な記念行事だ。オバマ氏の隣に立つ人物として、安倍さんはそれなりに絵になった。頼もしいとまでは言えないが、日本の代表として、顔として、ひとまず適している。役割を果たしている、と思ったものだった。

しかし、「あれ」と思うことが少しずつ増えてきた。最初に引っかかったのは、「総理をやめる」というあれだ。すぐに出てくる、わかりやすいニュースだとこれとか。

www.nhk.or.jp

そのニュースを、ぼくはテレビで見ていた。随分軽く言うんだな、ぐらいのことは思ったかもしれないが、そのときはそれほど気にしていなかった。
その後に佐川氏が国会に呼ばれ、うだうだと、よくわからない言い訳をしていた。不快だと思ったが、それだけだった。馬鹿な奴らが馬鹿なことをしている、そういう奴らもいる、というぐらいにしか感じていなかった。

しばらくして、とくにしっかりニュースを見ていなくても、夫人の昭恵氏が事件に関わっている、どう考えても「関わっていない」とは言えないだろう、という感じになってきた。自分から積極的に調べているわけでもないのに、目や耳に自然に入ってくる情報だけでも、それを否定することが難しい、すでに事実として周知されているようだと思った。しかし、安倍さんは総理も議員もやめていなかった。どちらかと言うと、憲法改正などのためにより総理大臣としてのキャリアを突き進もうとしているようだった。

さすがに変ではないか?と思い始めた。「やめるって、言ってなかったっけ?」と。やめてないということは、じゃあ、奥さんは森友事件に関係なかったということ?国有地売却に一切関係なかったということ?と思った。

もちろん、関係はあった。それは安倍さん自身も認めている。以下は比較的最近の話だが、

mainichi.jp

改ざん・削除された文書の中に「昭恵夫人の記述があることをどう受け止めているか」と問われた首相は「妻について書かれた記述は改ざんされた全体の中のごく一部に過ぎない」などと答弁した。

これに対し田村氏は、削除された部分の読み上げを財務省幹部に要求。森友学園籠池泰典理事長(当時)が近畿財務局との打ち合わせ時に、昭恵夫人から「良い土地ですから前に進めてください」と言われたと述べたことなどを首相に聞かせた上で、「これが削除されたことをどう思われますか」と再度尋ねた。これにも首相は「私の妻が全く出てこない決算文書の経緯の部分も同様にほぼすべて削除されている」などと答えた。

昭恵氏は国有地売却に関わっていた。安倍さんはそれを否定していない。というかむしろ、上記ではこの文書の中に昭恵氏が記述されていることを認めている。

「なぜやめてないんだろう?」という素朴な疑問が、頭の隅に引っかかってなかなか薄れなくなりはじめた頃、地味だが個人的にほとんど決定的な違和感として現れたのが、シュレッダーの件だった。

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桜を見る会」をめぐる20日の衆院内閣委員会の質疑で、政府は今年の招待者名簿について、野党から招待者数や支出額などの資料要求を受けた5月9日に「シュレッダーで廃棄した」と説明した。

驚いた。え、なんでそんなことするの?と思った。そしてさらに決定的だったのは、そのシュレッダーを野党が視察しようとしたのを拒否したことだ。

mainichi.jp

立憲や共産の衆参8議員が内閣府を訪れた。職員は「シュレッダーが稼働中だ」「責任者がいない」などと視察をさせなかった。野党側は「稼働していない執務時間外なら見られるだろう」と食い下がったが、約2時間の押し問答の末に「官房長の判断でだめと決まった」と押し切られた。

え、なんで拒否するの?と思った。何を隠しているの?と。べつに見なくてもいいけど、見てもいいじゃん。見せないのはおかしいじゃん。大の大人が、紙相撲のように押し合って何をしてるんだろう。誰がどう考えてもおかしい。ここまでみっともない対応を取ってまで見せないという、まともな理由がない。

この、シュレッダーを物理的に見せない(議員を建物に入れない)様子を見て、頭の中の政府観が完全に変わったと思う。こいつら、駄目だ。かなり、駄目だ。完全に、駄目だ。

それから徐々に、記者会見で記者にまともな質問をさせないとか、首相がくだらないヤジを飛ばしたり、野党議員のことを人として貶めたりするのを見て、以前から「なんだこいつら」とほとんど無意識に思っていたことが、じわじわと思い出されてきた。それまでもそういう状況を見ていたが、意識にはのぼっていなかった。それがのぼってきた。こいつら、かなり駄目じゃん。

元はと言えば、わざわざ自分から、言う必要もないのに「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員も辞める」なんてキャッチーな発言をしてしまったのが、この変化の始まりだった。それがなければ、今この時点で安倍さんや政府のことをこんな風にはまだ思っていなかったかもしれない。

しかしたぶん、それは遅かれ早かれ来ていたのだろうとも思う。安倍さんのその理解不能な虚言はつい最近のこれでも強く感じられた。

mainichi.jp

立憲民主などの会派の芳賀道也氏(無所属)が「都合が悪くなると、首相は『悪夢の民主党』と言って一切答えない。子供の教育に悪い」と皮肉ったことに反論した。首相は「自民党大会などで『悪夢のような民主党政権』と、経済政策において申し上げている」と認める一方、「国会答弁で答えたことはない。正確な質疑をしたほうがいい」と語った。
実際は、首相は2019年2月の衆院予算委員会などで「民主党政権は悪夢だった。間違いなく」と述べている。

著しく記憶力が悪いのか、思ったことがそのまま口から出てしまうのかわからないが、聞かれてもいない間違いをなぜ言ってしまうのだろう。常識的に考えて、正常さを失っていると思える。

昨日あたり話題になった、これもそうだろう。

www3.nhk.or.jp

安倍総理大臣は13日の自民党役員会で、「休業に対して補償を行っている国は世界に例がなく、わが国の支援は世界で最も手厚い」と述べ、休業に伴う補償や損失の補填(ほてん)は対象となる事業者の絞り込みが困難で、海外でも例がないとして、否定的な考えを重ねて示しました。

「わが国の支援は世界で最も手厚い」については、基準も曖昧だし、付き合う価値もないというか、「お前の中ではな」とだけ言えば良いとも言えるが、「休業に対して補償を行っている国は世界に例がなく」とはどういう意味だろうか。ちょっと調べれば、そんなことは明らかな間違いだとわかるのではないだろうか。それとも、これもまた微妙な用語の定義の違いなどで辻褄を合わせるのだろうか。

そう、安倍さんとそれを取り巻く人々のやっていることは、一言で言って「辻褄合わせ」だ。ずっとそれをしている。初めにめちゃくちゃなこと、異常なことをして、それを後から、あたかも正常なことであったかのように取り繕う。その繰り返しだ。そしてそこから振り落とされたのが、たとえば亡くなった赤木氏のような人だろう。

これほど異常な世界だが、彼らはまだまだこれを続け、拡張しようとするだろう。だから、それを今度は駄目だと言わなければならない。この異常さは、それを今までずっと見逃してきた、自分の責任でもあるからだ。

COVID-19対策とそれを阻む面倒くささ

COVID-19対策、現在の態度としては、とにかくなるべく感染しない期間を長くするということ。昨日は大丈夫だった、今日も大丈夫だった、明日も・・と1日ずつ感染しない日を増やしていくだけ。で、家族にもそれを求める。

最終的には風邪と同様に、「一生罹患しないなんて無理」という感じでどっかでかかるとは思ってる。でもそれをなるべく後回しにできるように、ということ。

いま病院に行っても、ろくなサービスを受けられないはず。とにかくそれを避けたい。マスクもないし。マスクがなくても家を出なければ使わずに済む。家を出なくても済むようにあれこれ調整する。幸いそれをやりやすい環境ではあるし。
ちなみに、家にいる間も定期的に手を洗ってる。たまたま触らずに済んでいたウイルスをどの時点で触ってしまうかわからないから。家の中にはつねに外から持ち込んだものがあるから。

自分にできる貢献はとりあえずそのぐらいかなと。なるべく家を出ない、そしてなるべく後に罹患する。

ところで、よく手洗いに関する案内で、数十秒なり数分なりの時間を指定しているものがあるけど、あれがよくわからない。自分の場合、ゆうにその程度の時間は洗ってる。たとえば15秒とか30秒ではとても終わらない。何分も洗ってる。
それで思うのは、世の中には手を洗うのが面倒とか、その時間が無駄に感じられて仕方ないとか、早く終わってほしい、とか思う人が少なくないのだろうということ。気持ちはわからなくもない。風呂が嫌いな人、歯を磨くのが嫌な人、皿洗いをしたくない人、いろいろいる(どれも実際に見聞きしたことがある)。きっと、そのバリエーションなのだろう。ちなみにぼくは爪を切るのがすごく嫌で、それは切るのが下手とか深爪が怖いとかではなくて、切ってる時間がもったいない、もどかしい、その時間が無駄だと思ってしまうから。なんとなく、それと同じなのかなと思う。

逆に手を洗ったり歯を磨いたりするのはむしろ好きというか、心地よいリラックスタイムなのだが、爪切りはそうではない、というのが自分でも不思議なところではある。手洗いが嫌いな人(一刻も早く終わらせて次のことをやりたいと思う人?)との共通性があるのでは、と思うが、その共通した部分のさらに根源・理由に何があるのか、というのが今ひとつわからない。