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批判するなとは言うけれど

頑張っている政府を批判するな、攻撃するな、という声がよく聞かれる。かくいうぼくも同じことを思っていた。もう5年前のことだが。

政府を批判するならば - Hiroaki Kadomatsu - Medium

今これを読み返してみると、いくぶん浅はかだなとは思うものの、基本的な物の考え方はあまり変わっていないようにも見える。変わったのは、考える材料というか、前提だ。前提が違えば、同じ考え方であるなら尚のこと、結果も変わってくる。

では、その前提はどのように変わったのだろうか。それは、この頃のぼくは日本という国の外側に立つ「お客さん」だったということだ。国を動かすのは、それを専門とする政治家や官僚、公務員の人々であって、ぼくは彼らの働く様子を外側から眺める傍観者だった。その内部にはいなかった。

それでいいじゃないか、と思う人もいるだろう。皆がそれぞれの道のプロとして、政治家は政治のことを、そうでない者はそうでない事を、自分の能力をフルに生かしながら、社会に対して最大限効率的に貢献すればいいじゃないかと。ぼくも以前はそう思っていた。でも、間違っていた。

国を動かすのは、国民、そしてその国に住む人々だ。その人々は、皆が皆、自分が乗る船を動かすためにオールを漕いでいる。つまりぼくらは船の乗客ではなく、乗務員、船員だった。

船がどちらに進むのか、なぜそちらに進むのか、どのように進むのか。それを決めるのは、我々船員だ。もちろん皆が皆、自分の欲望の赴くままにそれぞれの方向へ舵を切っていたらどこにも進めない。だから、便宜的に代表者を決めて、その人に船長を任せる。それが本来の政治の仕組みで、しかしその「代表者」という言い方がマズかったのか、あたかも船長が他の船員よりも「偉い」とか、人として「価値が高い」存在であるかのように扱われるようになってしまった。そして、その弊害があちこちに出ている。実際には、船長は「代表者」なんてものではなく、「代行者」に過ぎなかったのに。

国を、社会を動かすために、我々は暫定的に、「政治家」を設定した。彼らに議論を代行してもらい、その様子をチェックする。・・いや、チェックなんてしていなかった。だから、国会で何が起きているのかを知らないまま、どうやらとんでもないところまで連れてこられてしまった。我々の船が、いつから、どうして、こんなにどうしようもないところに流れ着いてしまったのか、ぼくにはもうわからない。わかるのは、それが自分のせいでもあるということだ。

政治家だって人間です、彼らの気持ちをくじくようなことはやめましょう、何もそこまで攻撃的に言う必要はないでしょう、殺伐とした物言いはやめましょう、批判はやめて、建設的な議論をしましょう、責任の追求なんて有害なだけで、今はもっと重要なことに取り組むべきで、反省なんて後で時間のある時にじっくりやればいいし、私たちはそれぞれの持ち場で、自分自身の仕事に集中しましょう。ある人々は、そのように言う。

しかし、それは間違っている。その物言いは、目に見える批判という「行為」だけを対象にしている。その行為がなぜ行われているのか、行為の「目的」、行為の「先」に何があるのかを見ていない。目を背けているのか、見てはいけないと思っているのかわからないが、「なぜその行為が行われているのか」を知らないまま、「その行為は駄目だからやめて」とだけ言っている。

目の前には、枯れかけた植物があり、それに水をやらない人がいる。「なぜ水をやらないのか、かわいそうだ」と言う人がいる。しかしその植物は、すでに水をやりすぎて根腐れで枯れかけているのだ。それ以上水をやったら、本当に死んでしまう。しかし、その「行為の目的」を知らない人は、「行為」だけに目を向けて、「水をやらないのは悪いことだ」と思っている。

歯を磨かずに虫歯になった子供に、歯を磨けと言ったら、泣いてしまった。それを見た人が「かわいそうじゃないか」と言う。そして代わりに、甘いケーキを買ってきて、食べさせてやる。その人は、歯を磨かなくてよくなった、ケーキをもらって喜ぶ子供を見て、自分は良いことをしたと思う。しかし、それがどのような結果をもたらすかまでは考えていない。

「批判はやめましょう」と言えるのは、その行為だけを見ているからだ。なぜその行為をしているかまでは見ていない。すべての「批判をする人」が正しいわけではもちろんナイ。誤った批判、愚劣な批判もあるだろう。しかし同時に、すべての批判が誤っているわけでもない。それはどんな行為にも言えることだ。政府にしたって、すべてが間違っているわけではない。しかし時に、致命的と言えるほどの間違いを犯し、それをまったく反省してもいない。森友、桜、検察人事、年金、種苗、そして466億円の小さな布マスク。・・一体、何をしているんだ。

一例を挙げよう。厚生労働省は3月半ば過ぎに、休校に伴う保護者への助成金を新設し、申請の受付を開始した。

しかしこの助成金では、風俗業などで働く人たちが対象から除外されていて、反発の声が上がった。そして4/2には支援団体から加藤厚労相に改善を求める要望書が提出されたが、翌4/3の段階で同大臣は「対応しない」と言っていた。
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加藤厚労相は3日の記者会見で、雇用を守るための助成金の規定で風俗業などを除外していることについて、「公的な支援措置の対象とすることが適切なのかどうかということで、そうした基準が設けられてきた」と説明した。支援団体の要請については「承知している」としたものの、「取り扱いを変える考えはない」と述べた。

しかし4/7、この方針は変更され、風俗関係者も対象に含まれることになった。
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新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための休校に伴い厚生労働省が新設した助成金で、風俗業などで働く人たちが対象外とされていた問題で、加藤勝信厚生労働相は7日の閣議後会見で「風俗関係者を対象とすることにしたい」と述べ、風俗業や客の接待を伴う飲食業で働く人たちも支援対象とする方針を表明した。

厚労省が定めた要件では「暴力団員」などと並び「性風俗業」や「接待を伴う飲食業」の関係者を対象外としていた。ネット上などで「職業差別だ」と批判が出て、支援団体「SWASH」が見直しを求める要望書を加藤厚労相あてに提出していた。

ここで問いたい。もしも当初の方針のまま、政府への批判が行われずにいたら、この助成金の対象から外された人々はどうなっていただろうか。除外されたままだったのではないだろうか。それで構わない、問題ない、と言える人だけが「批判するな」と言ってほしい。

ちなみに、「批判はやめましょう」もまた、批判する人への批判である。批判に意味がないのなら、その「批判をする人」への批判もまた無効ということになってしまう。それでいいのだろうか。もちろん、良いはずがない。批判は必要だ。良い社会を作るために。それをわかっているから、「批判はやめましょう、建設的ではないから」という批判をしたくなるのではないだろうか。

批判をしたくなるのは、あるいはそれをするのは、より良い社会を作りたいからだろう。その点では、「批判をする人」も、「批判する人を批判する人」も、同じ志を共有している。その人たちは本来、共同でコトに当たれるはずだ。我々の考え方は同じなのだ。ただ、その考えの材料が違う。前提が違う。異なる前提のもとで同じ考え方をしてるから、出てくる結論が違うのだ。

事実を見よう。科学的に。より多くのことを知ろう。我々は感情の奴隷だ。不安は常につきまとう。そこから逃れることは、人間であるかぎり不可能だろう。幸か不幸か、我々には想像力がある。想像力があるから、不安や恐怖から逃げることができない。しかし同時に、我々は科学を積み上げてきた。あるいは哲学を。もっと多くのことを知ろう。今までそうしてきたように。そして前提を、考えの材料を、より豊かに増やし、互いのそれが重なり合うまで広げよう。

批判をするな、というのもまた批判だ。そのようにして、我々は批判することを必要としている。あとは、その材料になる知識を広げていくだけだ。互いの前提知識が重なるとき、そこで初めて我々は、同じ結論に出合えるはずだ。