103

言いたくても言えない

朝は自宅でカスタマーサポート。昼前に移動して出社。ランチは会社近くのインド料理店でドライカレーセット800円。

いくつか緊張する話題があったが、なんとかなった。新入社員はそろそろレベルが先輩に近づいてきて、試験的に作ってもらった回答が良かったので一部拝借した。

対応時間終了後、振り返り。会社は18時までで、サポートは17時までだから、その1時間が振り返りとかに当てられる。このところはサポート3人体制だったから、以前の2人体制に比べると話者が多く、気を抜くと18時を回りがちだった。18時までに仕事を終らせる、というのは重要なことで、ある意味何よりも優先することだと考えていたので、今日は集中してなんとか18時の数分前に終わらせた。

自分のせいで自分が残業するのはいいのだが、先輩がダラダラして新入社員の帰りが定時を回るのは良くない。そういう状況下で新入社員が自分から「じゃあ定時なので帰ります」とは、通常は言いづらいからだ。そのような「言いたくても言えない」という状況が生まれた場合、その責任は先輩・上司にある。決定権というか、場を動かす力を持つ人間が意識的に、そういう抑圧的状況を解消しなければいけない。

答えは初めから決まっている

自宅作業。毎週水曜はリモート。今日もそこそこ問い合わせは多かった。とはいえ少し前に体調を崩していた同僚もすぐに復帰したので、大きな問題はない。綺麗に分担しながら、コレという失敗もなく最後まで進んだ。

カスタマーサポート以外に、サービスサイトを中心とする編集の作業もそこそこあって、このところあまりそれが進まなかったから、今日はエイヤという感じでちらっと残業して(自宅だが)キリの良いところまで終わらせた。

編集作業をしているときに思うのは、「答えは初めから決まってる」ということ。仕上がりの文章はぼくが作るのでも、決めるのでもなく、最初から決まってる。遺跡を掘り起こすような感じで、それはすでにカタチを持って地中に埋まっていて、ぼくの仕事はそれをただ綺麗に、正確に掘り起こすこと。作るのではない。余分な土やゴミを、可能なかぎり取り払うこと。そして見えなかったそれを目に見えるようにすること。

それはすでに存在していて、どこかに隠れている。だから、まずは見つけなければいけない。見つけた後に、正しいかたちを取り出すのが仕事。感覚が冴えてないと、集中してないと、それを見つけることはできない。とは言っても、ここで言う「冴え」とか「集中」というのはたぶん一般的にイメージされるそれとはちょっと違って、もっとぼんやりした感じ。大事なそれは、無菌室みたいなところには無くて、ノイズだらけの場所にだらしなく漂っている。だからぼくもただだらしなく、ぼんやりと、でも執拗に、目の端からそれを逃さないように、今いるこの空間から絶対逃がさないように、「念力で」それとの正しい距離を測っていく。

今日の音楽。

www.youtube.com

www.youtube.com

村上春樹アフターダークを日本語で読みながら(Kindleまたはハードカバーで)、耳ではその韓国語版または英語版の朗読を聞く、という勉強法を数日前からスタートしている。なかなか面白い。

単純な敵に複雑な我々が勝つための方法

同僚が体調不良で休みになったので、急遽自宅作業でいつもより多めのサポートをこなした。

普段は同僚と2人体制だから、ぼくは朝イチの対応を自宅でやった後に、電車が空く時間を見計らって午前の遅めの時間に会社へ移動する。しかし同僚がいない場合、その移動中に問い合わせが来る可能性があるので、その穴をあけないように自宅で対応を続けることになる。

自宅作業は通勤をしないという意味では明らかにラクなのだが、集中しすぎたり、そもそも仕事をするのに会社ほど適した環境でもないので、とくに忙しいときなどは、これをやるとけっこう疲れる。今日は比較的問い合わせが多く、だいぶ疲れた。久しぶりに、時間が終わってからしばらく横になって休んだ。これは珍しい。

とはいえ、このように、いきなり自宅作業にできたり、スライド出社できたり、そもそも7時間労働だったりするのはありがたい。業務内容も自分に向いているようだし、いろいろ運がよかった。まあ、それも自分で掴んだ運ではあるが。

以前、scholaを作っていた頃はどうだったか。一人で作っていたわけではないが、にもかかわらず思い出すのはいつも一人で作業していた情景だ。思い出せば失敗と後悔ばかりで、だからなるべく思い出したくない気もするが、それでも手は抜かなかった・・とは、以前にも書いたっけ。

Twitterを見るといつも知らないことが流れてきて面白いが、争いのたぐいを目にすると、「戦う相手を間違えてる」と思うことが少なくない。不快やストレスを感じ、その向ける先が、不快の原因ではなく、たまたま目の前にいる、ちょっとだけ考えてることが違うだけの人だったりする。どちらかといえば、仲間と言うべき相手だったりすることさえ、ある。そんなところで相手に勝っても、仲間が減るだけでは・・本当の敵はのうのうと生き続けるぞ、と思えてくる。

本当の敵は、狡猾かもしれないが、でも基本的には単純だ。単純だから、一枚岩になれる。それは強い。一方で今虐げられている、力を持たない人々は多様で、バラバラだ。一人ひとりが異なる嗜好・指向を持っている。だから、まとまらない。つまらない、どうでもいいようなことで相手の不備・・というか単に自分と違うところを責めては潰してしまう。それをしている間に、本当の敵は団結して快進撃を続ける。

どうすればいいのだか。我々もまた、社会を変えたいとは思っている。このままで良いわけがないと思っている。寛容にならなくては。100%一致する必要などないのだ。弱く、ゆるくつながり、伸び縮みしながら、排除するものだけを排除し、本当に思っていることをすべては言わず、実現すべき優先度を明確化し、一つひとつ実現していこうではないか。していこうでは・・そう思わないか。

人々の考えは枝分かれしていく。これは不可逆だ。考えれば考えるほど、我々は一人になっていく。しかしそれにより、同時に「一人になれた人間」という共通点を持つことができる。何十世紀も昔に生きた、そのような人たちともつながることができる。違ったままつながり、誰かに勝つことを目的にするのではなく、皆がおおむね幸せに生きられる社会を作れたらいいのに、と考えている。

自由な仕事ぶり

新入社員歓迎ランチ。@会社近所のフレンチ。今年の1月に2名の社員が入社したので、そのお祝い。新入社員とは言っても、どちらもベテランだが。1人はエンジニアで、もう1人はカスタマーサポート。

サポートの新入社員はぼくよりずっと確かな実績を積んでいて、これまでに携わった内容も期間もえらいすごい。それに加えてエンジニアとしての経験もあり、これまた趣味でRubyPerlをぺたぺた触っているぼくとは格が違う。

とはいえ、会社的には先輩だから、先人として知っていることをあれこれレクチャーしていく。やる気のない人に教えるほどつらいことはないが、もちろんというか、やる気のある人だから教えるのは面白い。これがやがては相談相手になっていくのだろう。

昔から、年下の人と組んで何かをするのは向いている感じがあった。これも結局教える構造になるからだと思われる。逆に、年上の人に囲まれて教わるような立場になると、いつも「もっと良い方法があるはずなのに、なぜこんな不合理なことを・・」とか思いがちだった。

考えてみると、今の会社でぼくはたぶん最年長に近いから、それでけっこうラクをしている感じもある。「それは違うだろう」と思えばすんなり言えるし、「あ、間違えた」と思ったら「さっきは間違ってました」としれっと言える。ぼくを攻撃しようとしてくる人がいないから、とりつくろう必要がない。

嘘をつき始めると、その嘘を以後守り続けなければいけないから、まともには生きていけなくなる。嘘をつかずに生きるためには、みっともなさを引き受ける必要がある。自分を大きく見せようとすることを、禁止しなければいけなくなる。それはそれで不自然なのだが、それをやめないと嘘という面倒なオプション料金を払い続けなければならなくなる。それが負担だから、みっともなさの方を引き受けることになる。

scholaをやっていたときは、年上の人が多かったが、それは職場の上司とかではなく、それぞれが独立したフリーランスみたいなものだったから、あまり精神的な負担はなかった。イヤだな、と思ったらいつでもやめられた。しがらみというのか、抜けられなさみたいなものは不思議なぐらいなかった。いわば、いつも辞表が引き出しに入ってる状態。それは同時に、いつ仕事を切られても文句を言えない状態でもあるが、それでよかった。

scholaは2巻か3巻ぐらいのときから、もう代わりがいないような感じになっていたから、作業自体は大変だったが、誰かからハラスメントを受けるような、人間関係のプレッシャーみたいのはまったくなかった。「いつでもやめられる、やめられたら困る人間」になれば、やめたくなるようなことは言われない。

前にも書いたかもしれないが、たしか4巻を作り終えた頃、commmonsの事務所の一角で、坂本さんのニューイヤースペシャルだったか、scholaの選曲座談会をラジオで流すような機会があって、それの構成をいきなりやることになった。座談会のベタ起こし原稿をプリントアウトして、それを色ペンでマーキングしながら番組内容を組み立てて、その脇でエンジニアさんがPCのソフトですぐに音声をエディットしていく。番組のトータル時間は決まっていて、それにピッタリ合うように、録音した座談会音源のあっちこっちをメタメタに切り刻みながら、あたかも最初から最後までその順番で話したかのように再構成した。

後から放送を聴いた坂本さんが、「当日に喋った内容そのままじゃないか」と言っていて、あんなにめちゃくちゃに切り刻んだのに、そんなに自然に聞こえたのか・・と不思議な感じがした。もちろんそれは高評価などではなく、文脈的に「つまらなかった」ということだろうから、大いに反省したし、落胆もしたけれど、その批判的な意図とは別にちょっと自信を与えられたところもあった。

その作業をしていたときに、scholaの校正をしてくれている人がたまたまcommmonsに立ち寄ったので、少し立ち話をした。どういう話の流れか忘れたが、不意にscholaのブックレットについて、「一人で作ってますよね!」と笑いながら言ってくれた。今思い返すと、そこには「なんでそこまでやってんの?」というニュアンスもあったかもしれないが、とにかくぼくは驚いて、「どうしてわかったんだろう」と、そのときも思ったが今もこれを書きながら思った。その人は普段のメールのやり取りでは結構いつも厳しくて、僕は怒られてばかりという感じだったから、余計に思いがけない評価というか、湧き上がるような喜びを感じもしたが、しかし「そんなこと誰にも言ってないのに」という驚きの方が大きかった。

ラジオの音源ができた後、どこかのスタジオで行われた放送前のマスタリングにも立ち会った。何かを言わなくてはいけないと思ったからか、「そこはもうちょっとフェードアウトを早く・・」とか何とか、こまかい部分に口を出したりしていた。今思うと夢の中の出来事のようで、現実のこととは思えない。そんな指示をできるはずの人間ではなかったのに。

以前に村上春樹が訳しているから、というだけの理由でポール・セローの『文壇遊泳術』という短編小説を読んだけど、あんな感じ。主人公は小説家でもなければ何者でもない人間で、しかしなぜかその立ち振舞いの上手さから、社交界では「最近スランプでなかなか書けないが実力のある小説家」として扱われる。*1

ことあるごとに、その話を思い出す。上記の自由さ・不可思議さはそれを想起させる。

*1:何十年も前に読んだ記憶だけで書いてるので全然違うかも。

外国人労働者の裁判支援、バイリンガルニュースのねこ星人マグカップ

これに支援した。

camp-fire.jp

たぶん9人目ぐらい。3,500円+手数料220円。それほど多くないけど、少な過ぎもしない。大変だと思うけど頑張ってほしい。見ている人がいる、ということを示したかった。

関連記事。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200117-00010665-bengocom-sociheadlines.yahoo.co.jp

この土日には韓国語と英語の勉強もしていた。これに加えて、プログラミングも1つ、やっておかなければいけないタスクがあるけど、時間を捻出できていない。まあ、実際にはTwitterを眺めている時間が長いので、それを減らせばいいような気もするけれど。

あとscholaの記憶というか記録というか、メモに残しておきたい話(大した話ではないが)があったのを思い出して、覚えているうちに書かないと・・と思ったまま何日か過ぎている。覚えているうちに書かないと・・。

英語といえば、バイリンガルニュースのグッズストアで買ったものがいくつか届いた。猫マグカップは会社で使いたい。

それから先週金曜には今年初の韓国語教室へ行った。これについてはどこかにあらためてまとめるつもり。

数日前に見た音楽。よかった。