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カネコアヤノにハマる

  • Spotifyで「とがる」という曲が何かのプレイリストに入っていて、朝通勤してるときにたまたまそれを聴きながら、めっちゃ元気だな・・と思いつつ、でもそんなに印象的だったわけでもなく、むしろどちらかというと色眼鏡で「こういうの最近あるよなあ、ちょっと不思議な感じで気が利いててセンス感じるけどそれ以上には突き抜けきれないまま可もなく不可もなくまとまる感じっていうか・・」みたいな雑なカテゴライズをしながら、でもいずれまた聴きたくなるかもしれないから、とfavつけながら名前を確認したらそれがカネコアヤノという人で。
  • その後、どうも気分が乗らない、つかれた、なんか目が覚めるような面白さはないか、と思ったところでふとその人のことを思い出し、もう不思議でもまとまっててもなんでもいいから少しでも元気を取り戻させてくれ〜って感じでSpotifyで検索してちょっと聴いてみたのが燦々というアルバムで。

  • これがなかなか良かったというか、「セゾン」という曲はいわゆるジャスト・ア・トゥー・オブ・アス進行のあれだな・・とかそれでもまだ斜め上からの目線で聴いていたんだけど、しかしこのやけっぱちな声がすごい、歌いぶり、他にない・・と思いながらいろいろ聴き始めて。
  • 次に聴いたのが祝祭。

祝祭

祝祭

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  • これの「エメラルド」というのはマーキームーンのリフそのままでは・・オマージュか?とかウケながら、でもだったらけっこうロックな人なのかも、とようやく気づき始め、そのまま何周もあれこれ聴くうちに、この人異様、すごい力だ、曲はある意味王道というか、ものすごく聴きやすくてそのための仕掛けだらけでめちゃポップでありながらも期待通りにもいかせないひねくれた工夫と創意が随所に入っており、とはいえそこで勝負しているというよりはやっぱりパフォーマンスの一回性に何か唯一無二なものがあるな・・と、もうこの時にはいわゆるハマった状態になっていて。
  • で、それまで上のようなジャケしか知らなかったので恐る恐る見た動画の最初がこれで。

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  • あー、ええと、カッコいい。何々みたい、というのは必ずしも褒め言葉にはならないものだけれど、それでもあえてやっぱり言ってしまうと宮本浩次っぽい。声だけ聴いていたときは小島麻由美のことを思い出していたりしたけど、これもう完全に、ああ、ロックなのか・・と。
  • 次に見たのはこれで、

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  • キマってる感じで言ったらもしかしたらこちらの方が酩酊するほどストライクかも。バンド全体の良さも良い。とくにこのギターの人・・さっきのライブの最後もすごいんだけど、なんというか、懐かしい!あえて言うけど!好きだったこういうの。だんだん、もう音楽ではない何かに音楽を使って変わっていく感じ。あったよなあ、こういうの。あれは大切なものだった。それをすっかり忘れていた。それが無くなったわけではなく、それはいつまでもこうしてあったのに、どこかに置き去りにしてきたのだったか。
  • そんな感じでここ数日はずっとこれを聴いている。

割に合わなくても面白い方を取る

  • 仕事は午前のみ。午後は有給を取って、最近検討している家電の下見に量販店まで。
  • 実機(?)を手で触っていろいろ確かめ。なるほど。ほとんどもう、これでいいんじゃないの、という感じ。
  • 外は雨。冷たい。
  • ここ数日、相談が進んでいたアドベントカレンダーが正式にリリース(というか)された。

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  • この企画、これで3年目。すべてオーナーははてな編集の毛利さん。
  • 初年はたしか、Twitterか何かで「編集者とかのアドベントカレンダーなんてやったら誰か書くかな」みたいなことを言っていたのを見て、「やりますよ」みたいな反応をしたのがきっかけだったような。
  • それもどこかですでに書いたかもしれないけれど、ぼくはぼくで以前からテック系編集者とかがアドベントカレンダーやったら面白いのに、と思うだけは思っていたので、「お?これは実現するかも?」と思って全力で船に乗っかった感じ。
  • その年はとにかく毛利さんの巻き込み力が炸裂して、ぼくもたしかラムダノート社の鹿野さんをお誘いしたりしたけれど、とにかく錚々たる顔ぶれがそろって90%ぐらいは更新されたのではなかったか。
  • 2年目も話を聞いた段階で挙手して、でもこの年はけっこうひっそり、あまり声をかけすぎずに、やりたい人だけやればいいよね、という感じで控えめにやったら本当に控えめな感じになった(笑)。全体の3分の1ぐらいしか埋まらなかったのかな〜。でも、個人的にはそれはそれで全然良かったと思う。
  • で、3年目の今回。やっぱりその呼びかけというか、いつものように「もし今年もやったら書く?」みたいな話を見かけて、最初は「今年はけっこう忙しいからな〜、どうしようかな〜」と悩んでもみたんだけど、でもやっぱり、たしかにやらなければそれだけ自由時間が増えて体はラクなんだけど、んー、そんな人生つまらないかもな!と思って、挙手。そしたらそれに続く人たちもいて、ある程度人数が集まったので「じゃ、今年もやりましょう」ということになった。
  • それで思ったんだけど、そういうときのぼくの役割ってこれに近い。

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  • これの、「最初のフォロワー」というやつ。ぼくは最初の1人(リーダー)にはなれないが、たぶんその人とほぼ同じかその前ぐらいにそれと同じことを考えているから、そのアクションを見たときに早めに体が動く。で、一緒にやりますよ、ということになる。(もちろん関心があればだが)
  • 大変なことは、面白い。ラクや快楽の中には面白さはない。ラクは苦痛を取り除いた先にあるが、そのラクを続けていると苦しみが待っている。不思議なものだが。その苦しみとは、驚きとか、新鮮さとか、面白さとかから遠ざかっていくことの苦しさで、「退屈」と言い換えてもいい。退屈は苦しみだ。少なくともぼくにとっては。
  • 面白さとは大変さや負担、そしてこれもある意味での苦しみと共にある。疲れるし、割に合わないことも多い。でもやっぱり、目が覚めるような面白さ、それはつまり、頭の中身が、目の奥の方に鎮座していた何かが、ぐるっと裏返ってしまうような驚きや嬉しさのようなものだが、それにいつも出会っていたい。それこそが、ぼくには人生の意味だと思える。
  • 上で言う「ラク」と「面白さ」はつねに対立するものということはなく、時には共存するが、時にはどちらかを取らなければいけない。多くの場合、ぼくは進んでラクを取るが、最終的には面白さの方を取れるようでありたい。
  • なお、ここで言っている「ラク」「快楽」「面白さ」「退屈」といった言葉が指し示す中身は、あくまでこの文章の中でだけ通用する、暫定的・便宜的な表現にすぎない。他の誰かにとっての、あるいはぼく自身に対してですら別の状況においては、それらの言葉を別の意味で使う。
  • だから、「快楽と面白さはイコールだ」という人がいても全然問題ない。単に、そこで言う「快楽」や「面白さ」とぼくがここで言っているそれらの中身が違うというだけのこと。ここでは初めから、「時に共存するが時にどちらかを選ばなければいけない別々の何か」にそれぞれその名前を異なる名札としてくっつけているので、その成り立ちからしてイコールにはならない。
  • 余談だが、そのような言葉(というか語句というか)そのものが固定的な内容を持っていると信じて疑わない人も世の中には少なくなく、それによって生じる争いもまた少なくない。前提を、つまり「言葉の定義」を、揃えないとまともな話は本来できないのだけど、あまりそういう前提が踏まえられていない状況が多いように思える。
  • もちろん、というか個々の語句が持っている「さしあたってこういう意味にしておきましょう」という意味は辞書に書いてあるが、それも辞書の著者によって変わったり、同じ辞書ですら版を重ねるごとにその内容を変えたりするわけで、言葉はあくまで「一時的なラベル」または「容器」に過ぎず、その中身はつねに流動的で変化し続けている方が本質だから、そのような前提で考えてほしい。

ジェノベーゼ、泣かない女はいない

  • 少し前までは夜にゴミ出しをして、そのまま近所をぐるっと一周してから帰るのがささやかな楽しみだった。
  • すでに暗くなり、人もあまり歩いておらず、何を考えるわけでもなく、ただ静かで何も訴えかけてこない古い建物の外壁などを眺めながら歩いてまわると、なんとなくリラックスできる。
  • しかしここ数日はそんなことをするには寒すぎて、まったくリラックスタイムにならないので、行ってゴミを捨てたら最短距離で帰るようになってしまった。
  • しかし冬の夜空は見上げることに適している。見上げてふっと息をつくと、それでも少しは気が晴れるような感じがある。
  • 昼間にまとまった業務があり、いつもなら遅くとも13時半ぐらいには昼食に出るところ、今日は15時半ぐらいになってしまった。
  • 普段なら近所の飲食店などでテイクアウトの弁当を買ってくるけれど、この時間だとどこも閉まってしまっているから、珍しくチェーンのスパゲティ屋でスパゲティを食べた。
  • 飲食店で何かを食べることは普段なく、なぜならそういうところの1食は自分には多すぎるからで、上記の弁当にしても大抵は残して持ち帰って夕食に続きを食べる。
  • しかし今日は時間が遅かったこともあり、少し考え方を変えて、ブランチの夕食版、つまり昼食と夕食を兼ねる感じにしてみようと思った。けっこうガッツリした昼食、みたいな感じ。
  • スパゲティはジェノベーゼ。最初からそうしようと思っていた。本当は肉々しい感じも兼ねたかったが(夕食を兼ねているから)、あいにくジェノベーゼはアスパラとブロッコリーしか入っていない「グリーン野菜のジェノベーゼ」というものしかなかったので、それにした。肉よりもジェノベーゼの方が優先された。
  • いつもはさほどの量ではないものの、夕食のときには必ずアルコールを飲むが、夕食がないから珍しくアルコールもなし。しかし体には負担が少ないように思えるから、もしかしたら月に1回ないし数回ぐらいは、こんな感じでもいいのかもしれない。
  • 少し前に、森博嗣さんの『喜嶋先生の静かな世界』をKindleで読んだ。これは面白かった。その一部を今日ふと思い出し、それは主人公が早起きをするところだった。案外できるじゃん、みたいに思うところ。
  • なぜ思い出したかというと、今日はいつもより早く出社したから。
  • 早く出社すると、いつもよりも電車が混む。しかし良い面もあって、なんとなく健康になったような気がしてくる。そのときに、なんだっけ、そんなことを最近読んだ本に書いてあった・・と思ったのだった。

  • 本といえば、昨日ぐらいから長嶋有さんの『泣かない女はいない』をこれもKindleで読んでいた。たぶん、寝る前に読んだらちょうどいい感じではないか、と思ったのだった。
  • ぼくはいつも寝る前に電気を消した寝室でiPhoneの背景を暗くしていろいろバラバラ読んでいる。本にかぎらず、Twitterとかブログとかも。自分が書きかけているブログを読むことも多い。
  • よく、寝る前にスマホを見ていると寝られなくなるとか言うけれど、自分についてはまったく当てはまらず、パラパラスクロールしているうちに気がつくと寝ている。あるいは「もう限界」と思ってパタンとiPhoneを枕の横に落とす。
  • 話を戻すと、しかし『泣かない女はいない』に入っている表題作は非常に印象的な作品で、どんどんページをめくって、おそらく読み終えたのが2時半ぐらいだったが(本当は読み終えるつもりもなかったが)、あまりに印象が強くてなかなか寝つけなくなってしまった。まったく期待と逆の効果だった。
  • 静かで気の利いた文章をゆっくり読んで、気がついたら寝ていた、みたいな感じになるかと思ったがそうではなかった。これがつまり文学ということなのだろうか。

  • 『泣かない女はいない』は安い。Kindle版で500円ちょっと。なんでこんなに安いのか、電子版だからだろうか、と思ったけど、文庫版の電子版だからのようだった。
  • たしかに奥付を見ると00年代の作品のようで、だったらもう10年以上経っているのでけっこう昔だ。しかしそれであらためて驚くが、まったく古くない。作中の時代を感じさせる描写はあるが、作品が古いという感じではない、ということ。

オフィスマウンテン公演『NOと言って生きるなら』を観た

  • 先週土曜、11/16にオフィスマウンテン公演『NOと言って生きるなら』を観てきた。横浜、STスポット。
  • この公演には大谷さんが俳優として出てくる。大谷さんとはしばらく会っていなかったし、主宰の山縣太一さんには以前から興味があったから、公演の存在を知ったときから行きたいとは思っていたけど、11月前半にはカンファレンスの登壇やハングル検定などいろいろ重なって我ながら多忙で、行けるかな〜・・と不安になっていたものの、最終日前日のこの日なら行ける!とわかったその瞬間にチケットを予約した。
  • 山縣さんとはじつは大谷さんとの共編著『大谷能生フランス革命』を作ったときに一度会っていて、同書にゲストとして登場された岡田利規さんが主宰するチェルフィッチュの稽古を見学させてもらったときに、簡単にご挨拶をした。

大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

  • その山縣さんと大谷さんが以前からいろいろやっていたことは知っていたけど、大谷さんが役者として演劇をしているところは観たことがなかったから、この機会に、と思って。
  • 「この機会に」といっても何かわかりやすいきっかけがあったわけじゃなくて、でも去年の今頃に転職して、時間があればあるだけ編集作業をやっていたフリーランス時代とは違い、会社員として仕事の時間とそれ以外の時間がパッキリ分かれるようになって、ああ本当にやりたいことを、仕事以外の時間にできる!となってきていよいよ何というか、そういう自分にとって大切なことをするために時間を使っていいんだ的な感じが体に浸透してきたそのタイミングで、みたいなこと。
  • で、Twitterでほとんど偶然にこの公演があることを知り、これが自分にとってのその「時間を使うべき大切なこと」だとふと、ピーンときたみたいな感じもあって、ということ。
  • 行ってみて、なんというか、この少なくとも10年以上のあいだ、ずっと忘れていた感覚を思い出した気がした。それはたぶん20代の頃、何でもできる、どこまででも行ける、と思っていたそのとき、何も根拠はないがとにかく今までに見たことのないものを自分だったら作れる、というその感覚。全能感というほど無邪気なものでもないけれど、自分の体と発想を使って何でも作れる、誰とでもつながれる、という創作がもたらす可能性みたいなものを、一気に何十年分も思い出し、ぐいっと引き寄せてしまった。それがもう手元にある。
  • 客席には若い人が多く、また見たかぎりほとんど満席で、それも心強かった。山縣さんはTwitterなどでチケットが売れていないと何度か言っていて、この作品がそんなんで大丈夫か日本、と不安になったけど、当日券も売れていたようだし、大丈夫かもしれないと思った。繰り返すが、若い人が多かったというのは心強かった。
  • 作品は、最初はもうまったく何がなんだかわからなかった。全然ついていけず、というかついていけるとかいけないとかの問題ですらなく、ひたすら「困った」という感じだった。「このままこれを60分見られるのか、自分の力で」と思った。
  • でも、後から思えば、その感じ方はたぶん正解だ。というか、間違った感じ方なんてないかもしれないが、少なくともその困ったり、途方に暮れたりする反応はじつに自然で、それでよかったはずだろうと今なら思う。
  • 途中で、そうか、これは音楽だと思って見ればいいのだ、とふと思った。大友良英さんやデレク・ベイリーの演奏のようなものだと思えばいい、と。たしかに、というか、そのように見ると、すべてが既視感の上に成り立つように思われ、急激に体の中を安堵が走った。「よかった、これ、見たことある」と。
  • しかし、それは間違いだろう。さっき「間違いなんかない」と言ったばかりだが、しかしそのように「こう扱えば安心する、すでに知っているものにカテゴライズできる」という見方は単純につまらない。そんなの見る意味ないし、貴重な時間を使ってやることでもない。そのことに気がついて、「音楽として見るなんて見方はやめよう」と思って、それでまた困り始めた。でも、この「困り」は全然いやな感じではなかった。
  • 終演後の、ハラサオリさんとのアフタートークが面白かった。事前の感覚では、このアフタートークという時間自体、「終演後にそれについて何か話すなんて、新鮮な自分だけの感想が吹き飛んでしまうのではないか」と懸念したものだけど、全然そんなことはなく、むしろ感想が熟成されるように、より濃密なものとして残った。とくに、以下の本の中で触れられていた「人前に立つということは『異常事態』である」という話、これにまつわるエピソードで、ハラさんも自分の鼓動が耳に聞こえるぐらいに緊張する、と言っていたのはすごく意外というか興味深かった。また、その『異常事態』に関する山縣さんの話自体も非常に面白い。

身体(ことば)と言葉(からだ)?舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド

身体(ことば)と言葉(からだ)?舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド

  • もう一つは、ハラさんが気づいたという、公演の前半で、天井の方でカチっと音が鳴ったときに大谷さんと山縣さんが同時にそちらを見たという話、これはぼくも気づいていたから、「同じこと言った!」と思った。
  • しかし後から考えてみたら、それに対して山縣さんは「音が時々鳴るんだ、響くんだここは」みたいなことを言っていて、ということはそれはある意味でアドリブ的な、その場ならではの一回的な出来事に対して身体が反応して、それを観客に見せたということで、しかしそれって山縣さんが言う「徹底的に練習してアドリブの要素が入り込む余地がないところまで繰り返し、それを再現する」というのとは少し異なるような?とも思った。この辺、実際はどうだったのか。(つまり、その「天井の音に反応する」というのも稽古には含まれていたのだろうか)
  • 公演が終わってから、久しぶりに大谷さんと雑談をした。大谷さん、事前に公式動画なんかを見たときも「変わってねェ〜」と思ったけど、話してみたらさらに以前のままで、笑った。話せば話すほど、大谷さんだった。
  • 転職したから、少し自分の自由な時間ができるようになった、それでこれを観にこれた、みたいな話をしたら、また一緒に何かやろうよ、みたいなことを言われ、嬉しかった。できるのかな、まだ何か。できるだろう、たぶんきっと。

ハングル能力検定の5級と4級を受けてきた

  • ハングル能力検定に行ってきた。千葉の会場で、前回より少し遠かったが、それでも自宅の最寄りから数駅程度の場所。
  • 結論から言うと、感触は良い。5級(最初級)と4級(その上の級)を受けたが、帰宅後に解答速報を見て突き合わせたところ、どちらも受かっている可能性が高い(今のところは)。

  • 前回は今年の6月に受けた。受験の申込みは4月で、たしかRubyKaigiに向かう空港で申し込んだから、4/16とか、その前後ぐらいではなかったか。
  • この時、ぼくはまだ韓国語の教科書などは1冊も持っておらず、もちろん学校にも行っていなかった。せいぜい、Eテレの「テレビでハングル講座」を1〜2回見た程度ではなかったか。
  • 申込みには数千円の費用がかかるし、なぜ「とりあえず申し込んだ」のか、今となってはよくわからないが、それが自然というか、当然のような感覚はあったと思う。
  • その後、会社と会社最寄駅の間ぐらいの場所に、歴史ある韓国語教室があることを知り、さっそく連絡をとって、通い始めることにした。

www.hiroba-net.co.jp

  • 会社帰りに通うつもりだったが、すでにけっこう予約が埋まっていて、初回と2回めはどちらもゴールデンウィークに行くことになった。
  • 会社の近くだから行くことにしたのに、会社が休みの日に行くなんて!
  • それも、片道90分もかけて!
  • 学校は最初の印象どおり、とても水が合うというか、リラックスできる良い場所だったが、会社に行く機会自体がその後不定期になり始めて(自宅作業の割合が増えた)、結局あまり行けないまま6月の試験を迎えてしまい、ほとんどぶっつけ本番の状態で受けたら、結果は50点だった。
  • 合格基準点は60点だから、これは不合格なわけだが、とはいえろくに準備ができていない状態でそれだけ取れたから、自分ではけっこう満足というか、「向いているのではないか」と初めて思ったのもこの頃だったと思う。
  • その後もなかなか学校に行く時間は取れず、というのも各種カンファレンスに参加したり、プライベートの多忙なども重なったからだが、これにより結局今回のハングル検定もほとんど独学のまま臨むことになってしまった。
  • 独学の教材は上記のEテレのほか、ラジオの「まいにちハングル」を聞いたり、あとはhimeさんという韓国語学習ブログのすごい人がいて、この人が出している本を2冊買って読んだり、あとはひたすら過去問をやるなどしていた。これらの勉強法とかについては、また機会があったらどこかにまとめたい。

  • これをもってひとまず受験に向けた背伸び的な勉強は一旦お休みして、今度こそ学校に少しずつでも通いながら基礎の部分を身につけたい。