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最近読んだ朝鮮関連の本

簡単な読書記録として。

4月後半ぐらいから急にハングル(朝鮮で使われている文字)に興味を持って趣味で勉強を始めたということは前にも書いたけど、そういう言葉を喋っている人たちがどんな背景をもって生きているのか、どういう歴史を学んで生きてきたのか、そういうことを知りながら発声したり、文章を読んだりした方がいろいろ面白いのではないかと思って、とくにはというかまずはというか、韓国の現代史をざっと概観できる本はないか・・と思って最初に手に取ったのはこちら。

新・韓国現代史 (岩波新書)

新・韓国現代史 (岩波新書)

書名からしてそのまま。という感じだけど買って通勤電車で少しずつ読み重ね。Kindleだと旧版の方は出ているんだけど、新版の方は紙版のみ?しか見あたらなかったのでひたすら紙の新書で読んでいた。

基本的に知らないことばかりというか、中高生のときにはひとしきり俯瞰したはずだったけど、まあまったく忘れているので&知らされていなかったことも多く、すべてが新しい情報という感じ。

でもまずは一旦目を通しておくという姿勢で最後まで。多少は下地ができたかなと。

後半に行くに従って、少しは自分がリアルタイムに見聞きした情報なども入ってきて受け取り方は変わってきたかも。

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)

次に読んだのはこちら↑。同じ岩波の赤い新書で、2人の著者のうち1人は前述の本と同著者なのでちょっと記憶が混ざりがちだけど、こちらは1冊目よりずっと読むのに時間がかかった。

とくに前半、水野さんによる担当部分は、その内容の性質のせいもあると思うけどひたすら事実を詳述していく感じで、読みながら「なぜ自分は貴重な余暇を使ってこれを読んでいるんだろう・・」と我に返ってしまうほど時間がかかった。

べつに楽しみというかエンターテイメントを味わうつもりでははじめから無いものの、とはいえそんな風に思ってしまうほど、なんというかたぶんツライ感じというか。日本人、なにしてくれてんの、どうしてそんなひどいことをできるの、の連続。そしてこの感覚は結局のところ、その後も朝鮮関連の本や記述を読むたびに感じることになるのだけれど。

後半、文さんのパートに入ってからは、たぶん扱うネタに文化的な(というか文学者などの)要素が加わってきて、少しだけ息苦しさが薄れる感じにもなり、さらに終盤に近づくにつれて前記の本と同様、現代の多少なり知っている情報ともリンクして読みやすい感じになりながら読み終わり。

とはいえ、いやあ、ひどいですね本当に・・日本。とはいえ同時に、日本は戦争において自国民に対しても非人間的なことをいくらでもやっているわけで、日本が・日本人がひどいというよりある種のポジションについたその人たちが駄目だったということな気もするけれど。

在日朝鮮人ってどんなひと? (中学生の質問箱)

在日朝鮮人ってどんなひと? (中学生の質問箱)

もう少しかるいタッチでこの辺のことを補足的に触れたいなあ、と思って見つけた(というかたしかKindleでサジェストされた)のがこちら。

いかにも中高生向け。な感じのシリーズなので、気軽に読み始めたけどめちゃヘビー。初めの方こそゆるやかに始まるけど、途中からいや普通に普通の読者層向けでしょみたいな感じでまったく手を抜かないというか、いや中高生向けだからといって手を抜いていいという意味ではないけど、少なくともそういう読者向けだから書き方を変える、みたいなことはなくて、どちらかというと若年者向けだからこそ全部を全力で書き尽くすぞ、という感じか。

読んでいるときのつらさ、「なにしてくれてんの、日本」な感じは上記2冊にまったく劣らないもので、むしろよりはっきりと感じたかなあ。とはいえ一方で、単に日本を責めるという感じでもなく、まあ常識的に考えて駄目だよねこれは、という書き方で。そしてだからこそつらいというか。

全編を通して、透徹した哲学者・思想家がそうするように、いろんな視点から考え抜きながら書いている文章という印象だった。だからといってスイスイ読み進められるのかといったら、やはり前述の「つらさ」があるので、繰り返しになるがせっかくの貴重な余暇(ほかのどんな自分が好きなことに使ってもいい時間)を使ってまでこれを読むというのはそれなりの抵抗があり、誰に頼まれているわけでもないのだから途中で放り出してもよかったのだけど、ただひたすら関心・興味があったので最後まで読んだ。

言い換えると、分量はけっして大量というほどでもないこの本を、最後まで読み切るのは自分にはなかなか大変で、それを達成したのは興味があったから。なかったら最後までは行ってない。やめたところで誰に迷惑をかけるわけでもないし、他にやりたいことも山ほどあるわけだし。でも関心があったから最後まで読んだし、逆に言うとそれさえあれば最後までいけるし、なければどれだけ時間があっても、あるいはどれだけ薄い本でも最後までは読まないんだな、と思ったりした。

少し前に、以前に哲学系の本をいくつか読んだ時期のことを書いたけど、本当に深くしつこく考えを積み重ね続けると、もうココより前には戻らない、というところに行かざるを得ない感覚がある。徐(ソ)さんの文章にはそういう自ら何度も思考を叩いて鍛えた強さが感じられて、哲学者の言葉を聞いているような感覚を時々抱いた。

ちなみに、著者は「国」と「自分」をイコールで結びつける考え方は危険だと何度か書いている。日本が責められれば日本人である自分が責められたと感じる人がいて、それは若い人にも多く見られると。そう考えると、自分が日本人だからといってここまでつらい、つらい、とつらがる必要もないかもしれないのかもしれないけど、とはいえ自分の祖先たちの行為によって他人が受けたつらさを知り、我がことのようにつらがる事自体には、やはりより快適で楽しみに満ちた社会を作るための過程として、役立つ部分があるように思える。

これらの読書を受けて、次に読む本をすでにいくつか買ってあるけど、読んだら&また気が向いたらメモするかもしれない。

誘われても狭い部屋に入らない

A「キミはりんごが好きなんだね」
私「いえ、とくに好きではありません。どちらかと言えばみかんの方が好きです」
A「みかんが好きだからって、りんごが嫌いとは限らないだろう」
私「嫌いとは言ってません。好きというほどではないということです」
A「ほらやっぱり。嫌いじゃないなら、好きなんだろう」
私「そうじゃなくて・・(もういいや)」
A「ふむ、反論しないということは、キミはりんごが好きなんだな」
私「・・」
A「ワタシのTwitterにはたくさんのフォロワーがいるから、拡散しておこう。おーい、みんな!この人はりんごが好きだそうだ!」
私「ちょっと、やめてください、そんなにたくさんの人に誤解されたら困ります」
A「ふん、違うなら、違うと証明してみろ。ワタシを説得してみろ」
私「(説得って・・どうすれば・・)」

さて、このような状況に遭遇したら、どうしたらよいだろうか。

答えはシンプルで、自分の公式見解をただ公開すればいい。上の例なら、自分のTwitterアカウントで「りんごは嫌いというほどではないが、べつに好きではない」と明言しておけばいい。

上記のAさんは、自分の部屋から出ない人だ。そして、その部屋は狭い。中には、2〜3人しか入れない。入っても、狭すぎて身動きが取れず、すぐにヒジがぶつかるぐらい、相手の顔もまともに見れないぐらいに狭い。

一方のあなたは、もっと広い場所にいる。周りにはたくさんの人がいるが、あちこちに散らばっていて、皆が皆、どんなふうに振る舞おうがべつにガシガシぶつかったりはしない。

狭い部屋では事実がすぐに固定化される。生じる現象のバリエーションは少なく、あらゆる出来事に整合性がある。

一方で、広い世界で共通の傾向を見出すことは難しい。誰かにとっての真実が、他の誰かにとっては明らかな誤りかもしれない。様々な矛盾が同時に存在しているのが広い世界だ。

様々な矛盾を前提として受け入れている世界において、矛盾はとくに「悪」ではないし、誰かのレールから他の誰かが外れることは日常であり、異常なことではない。

しかし狭い世界において、ひとつの傾向を外れることはすなわち「悪」になってしまう。元のレールに戻そう、異物は排除しよう、という考えにすぐとらわれてしまう。

狭い世界にいる人は、すぐに断言をする。正しいものは少なく、固定であるからだ。正しいものはすぐ手に取れる場所に常にあり、何がそれでないかは考えるまでもなく、反射的にわかる。

広い世界にいると、何が正しいのかすぐにはわからない。尊敬している人が、自分が嫌いな何かに夢中になっていることもある。ただそういう事実がそこにある、と知っているだけでも世界は広がる。

狭い世界にいる人は、そこから動かない。「俺のそばまで来い、この部屋に入ってこい」と言う。「お前の言うことはよく聞こえないから、もっと近くに来い」と。もしかすると、その人はそこが部屋の中であることにすら気づいていないかもしれない。すべてが整然と固定化された小さな部屋にいることも、その外に嵐のような混沌があることも知らないかもしれない。

だから、その部屋に入ってはいけない。入れば、その中の限定的な規律に従わざるをえなくなる。

その部屋の「王」はその人で、それ以外の人は家来か奴隷だ。何を言っても王にとっては取るに足らない意見でしかない。「またカラスが鳴いてるな」ぐらいにしか思わない。王にとって奴隷は人間ですらない。だから、その部屋に入ってはいけない。

このようなときには、広い世界に留まり、自分の言葉を理解できる相手に向けて、丁寧に意見を述べればいい。「私はりんごが嫌いというほどではないけれど、べつに好きなわけでもない」と。

傷ついたことに気づいたら

心が傷ついたとき、自分が傷ついたことに気づくのは、その原因になったことが起きた瞬間ではなく、それからしばらく経ってから、その影響が表れはじめてからではないか、とふと思った。

誰かにひどいことを言われて、その瞬間というのは、それを「受け止める」というアクションをすることに精一杯で、「何を言われたか」をまだ吟味できていない。たとえるならば、何か熱いものを突然投げつけられて、「熱い!」とは思うものの、何が熱いのかはわかっていないという感じ。

やがて時間が経って、その熱さ自体よりも、自分が何を投げつけられたのかを知るにつれ、なぜ自分がこんなことをされなければならないのか、と思ったときには、もうそれを問える当の相手は目の前にいない。心はその熱いものを受け止めたときに傷ついていたとも言えるが、実際には、傷ついていたことに気づいたときこそが、本当の意味で傷ついた瞬間であるようにも思えてくる。

ああ、傷ついた!許せない!ぜったいに許さない!ああ!私は傷ついた!・・と、泣いて叫ぶことにも意味はあるだろうし、それはそれでやってもいいかもしれないが、その末に相手を同様に傷つけることができれば、それで本当に溜飲が下がるのかといったら、貴重な自分の人生を、そういう人と交じり合うことに使ってもいいのかどうか、わからないといえばそれもわからない。

最近時々思うことだけど、というか以前にもここに書いたような気がしなくもないが、目の前に野球のボールが飛んできて、おでこにぶつかるその瞬間のボールの大きさは、たぶん月よりも太陽よりも大きい。目の前にあるものは何よりも大きく見える。

しかし、ふと自分を数メートルとか数十メートル上空から俯瞰して、自分とボールとを見比べたら、ボールはあまりにも小さく、ただ自分の顔にすごく近づいて存在しているだけなのだとわかるだろう。

目の前にあるものは大きく見える。しかし本当の大きさは離れてみなければわからない。

心が傷ついたことに気づいたら、ぐっと身をそらせて、遠く上空に飛び上がり、自分を広く俯瞰して、それは本当に傷つくに値することなのか、それの本当の大きさはどのぐらいなのか、果たして気にとめるべき、耳を傾けるべきことなのか、考えてみるというのはありなのかもしれない。

Twitterなどを見ていると、若く才能あふれる人が、それまでに投げつけられたことがないような心ない言葉を受けて、もう活動をやめようかというぐらい傷ついているのを見ることがあるが、安全な場所から、誰でもよい誰かに向けて投げ散らかされた小さなゴミが、そのような才能の輝きを消してしまうほどの意義を持つのかといえば、まったく見合わない。このようなことを思うのは、ぼくがその人自身ではない他人で、初めから俯瞰的にその状況を見ることができているからで、逆に言えばそのような立場に自ら立つこと、自覚を持って、客観的になることが、役に立つのではないかと思っている。

芸術と哲学に救われた

ここで言う芸術とは、本当は「詩」と言った方が近いのだけど、詩というとあのカフェなどで読み上げるものを想像してしまいそうで、かといってポエムと呼ばれるようなうっとりしたものを想定しているのでもなく、ここで言う詩とは、たとえばある種の映画の中だけに存在する「時間そのもの」のようなそれであって、それは時間が存在しないという事をも包含する時間という概念自体のことだけど、その辺りも含めて「詩」という言葉で伝えられるとはあまり考えられないから、何となくそれにざっくり近いと思われる「芸術」と言っている。

哲学というのもまた、学校の授業や本で読むようなそれを指しているわけではなく、また100分de名著で取り上げられるような哲学者たちの姿を必ずしも想像しているわけではなく、これもまた時間そのものであるような、考えるということ以外のすべてを置き去りにして、過去に考えられた幾多の思考をまた踏み台にもしながら、どこまでも考え続けるような行為のことを指している。

これらのことをやっていると、周りとの比較や、自分の社会的な属性といったものがどんどん薄くなり、遠くなり、何か人生にとって最も大事なことであるような、人間でなければできないようなある種の感覚を抱けるような気になってくる。

昔読んだ中島らもの本で、たぶんそれをぼくは予備校の頃か大学の1年生ぐらいの時に読んだのだけど、その中で書かれていた「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉があって(何かの引用だったか)、初めは格好つけただけの、何か意味ありげなだけの文言だと読み流していたが、どうにも引っかかりが残り、時々思い返していたら、ようはそこで言う歴史性とは順序がはっきりした何か、勝ち負けが明快な何かであって、それに垂直に位置するものとは、その順番や力関係にまったく影響されずに生じる何かのことだろうと思われるようになり、またそこで言う歴史性とは、上述の「周りとの比較や、自分の社会的な属性といったもの」にあたるもので、そしてそこで言う「詩」こそが、だから上で言う詩とか芸術とか哲学にあたるものなのではないかと思うようになった。

今にして思えば、十代の頃のぼくの身のまわりには、至るところに「詩」があった。当時は時間の余裕がなくて、気持ちの自由もなくて、その価値を味わうことなんてほとんどできなかったが、確かにあったそれを少しでも覚えていれば、今の感性とともに思い返すことはできる。

大学の前半頃にはずいぶんと鬱屈した感じがあり、近所の書店でふとタイトルにひかれて買った、竹田青嗣さんの文庫本『自分を知るための哲学入門』を繰り返し読みながら、哲学というものは、面倒ではあるが難しくはない、人生において非常に役立つものなのではないかと思うようになった。

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

ぼくにとって哲学は学問ではなく、また誰かを攻撃するための武器でもなく、それは物を考えたり、自分とは異なる何かと対峙したりする時のための道具であり、乗り物のようなものとしてある。直接的には誰の影響だったか、もういろいろ溶けて明確ではないが、西研さんの『大人のための哲学授業』とか、西條剛央さんと池田清彦さんの共著『科学の剣 哲学の魔法』とかを読むうちに、「誰が考えてもここまでは同意できるよね」というところを探していくという、作業としてはすこぶる面倒くさいものの、「使える」度合いとしてはかなり高い、考え方というか、物の見方というか、技術を身につけられたと思っている。

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

これらの芸術と哲学の雰囲気を知っていたことにより、どれだけ人生があてどなく、捉えどころのない不安に包まれていたとしても、「なんとかなりそう」とか「一番大事なところは押さえてある」みたいな感覚がどこかにあり、その楽観性というか、開放感みたいなものが、おもに自由業の頃の仕事を呼び込んだり、助けてくれていた気がする。

とくには坂本さんや浅田彰さんといった、学生の頃から魅了されていた人たちと仕事をするに至り、普通に考えればぼくは上記の「歴史性」の方にたやすく絡め取られ、違和を感じても目先の円滑なコミュニケーションを優先して、当のプロジェクトやそれを手に取るお客さんをないがしろにしてしまっていたかもしれないけれど、ぼくの足下には広大な世界地図というか、宇宙飛行士が眺める地球のような光景が広がっていて、それを共有する優れた専門家の人々と、遠い未来にあるべきものを視野に入れながら、忌憚なく意見を交わして必要な役割を果たすことができたと思っている。

とはいえ40才を過ぎ、その楽観性や開放感だけで生きていくというのもさすがに不安というか、このままではまずいなと思う中で今の会社に入ることになり、これもひとつの幸運だったが、しかし単に運が良かったというだけの話ではなく、この会社を選んだその背景には、上記の感覚が大きく作用していて、つまりその「一番大事なところ」を押さえている会社でなければ自分の価値はわからないだろうと思ったし、実際そういう場所でなければなんの貢献もできないだろうと考えていたから、そのような会社であるという前提で応募したのであり、入ってみれば事前に思ったとおりというか、むしろそれ以上に自分が大切にしてきたそれを生かしながら働くことができていて、つまりフリーランスの頃から今に至るまで、ぼくは芸術と哲学に救われている。

傷心というゴミをどこに捨てるか

他人から心ないことを言われたり、相手にそんなつもりがなくても自分が大切にしているものを傷つけられたり、誰かのミスのせいで不本意な状況に立たされてしまったり、ということがあるたびに、いわゆるストレスというのか、心の中に、何かそれまでには存在しなかったはずの「邪魔なもの」が生まれて、それを胸の内から体の外に、どこかに放り出したい気持ちになる。

心の中に生まれたそれは、一般に「不快」とも言われるそれで、無くてもいいというか、無い方が良いという意味でぼくに言わせれば「ゴミ」でしかなく、しかし現実世界のゴミならばゴミ捨て場という「捨ててもよい場所」があるけれど、胸の内に生じた不快を「捨ててもよい場所」とはどこだろうか。

最も手っ取り早い方法としては、自分にそれを生じさせた誰かに突き返す、ということで、たとえば誰かに殴られたらそいつを殴り返すとか、自分を不快にした誰かを怒鳴りつけるとか、足を引っ張られたら引っ張り返すとか、そのような方法だろう。

このような方法をとれば、たしかに自分のそばからゴミはなくなり、それは同時に自分にゴミを押し付けた人間にゴミを突き返すことにもなり、そうなればそれは単に「返す」というだけのことでなく、「もうこんなものを俺のところに持ってくるなよ」という警告、メッセージとして相手に伝わり、同じことが再現される可能性を低くする効果があるかのように思えるかもしれない。

しかし、そうやってゴミを突き返された側からすれば、それが元々自分が生じさせたものだとわかる場合ばかりではなく、むしろ「俺はこいつからゴミを投げつけられた、それが今俺の手元にある」ということしか感じられず、また新たに、場合によってはそのゴミの総量を増やした上で、自分にゴミを投げつけてきた相手に投げ返すという帰結も大いに考えられる。

そのようにして、初めはゴルフボール程度だったゴミが、何度もラリーを繰り返すうちにソフトボール、バレーボール、やがて体を弾き飛ばすほどの巨大なゴミとなり、お互いを潰し合ってしまうかもしれない。

だから、いかにそれが手っ取り早い方法だとしても、自分にそれを生じさせた相手にゴミを突き返す、という方法は取らないに越したことはないと思う。

ゴミを突き返すことによって、「この俺に二度とこんなものを投げつけるなよ」というメッセージになる、ということにはたしかに一理あるけれど、そのメッセージはべつにゴミを突き返さなければ、つまり相手に負の感情を与えなければ、伝えられないというものでもないだろう。負の感情とセットで伝えることには、むしろ上記のような副作用の方が大きいように思える。

かといって、胸に抱えたゴミをいつまでも一人で抱え続けることにもまた大きな問題がある。それはたしかに、なるべく早く放出してしまった方がよいものだと思える。なぜなら、人は体の内に残ったそれを、知らず知らずのうちに、自分の心を少しでも軽くするために、身に触れる誰かに、ほんの少しずつではあっても、やはり投げつけ続けることになってしまうからだ。ストレスを抱え続ける人は、そのストレスを軽くするために、出会う他人に少しずつ自分のストレスを分け与え続けてしまう。そんな風に感じる。

では心に生じたそのゴミを、人はどのように、どこへ捨てたらよいのだろうか。ほかの誰かに押し付けることなく、他人を傷つけることなく、どのように捨てていったらよいだろうか。そのための道具を、方法を持つことが必要だ。誰かを傷つける以外の方法で、あるいはそれを最小限にとどめながら、自分の中の傷を癒やす方法を、個人各人が、作り出し、持たなければいけない。

たとえば、ゲームをするとか、体を動かすとか、遠くへ移動して見たことがない景色を見るとか、眠るとか、文章を書くとか、そういった何かが、きっと傷心を抱えたすべての人には必要なのだ。