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芸術と哲学に救われた

ここで言う芸術とは、本当は「詩」と言った方が近いのだけど、詩というとあのカフェなどで読み上げるものを想像してしまいそうで、かといってポエムと呼ばれるようなうっとりしたものを想定しているのでもなく、ここで言う詩とは、たとえばある種の映画の中だけに存在する「時間そのもの」のようなそれであって、それは時間が存在しないという事をも包含する時間という概念自体のことだけど、その辺りも含めて「詩」という言葉で伝えられるとはあまり考えられないから、何となくそれにざっくり近いと思われる「芸術」と言っている。

哲学というのもまた、学校の授業や本で読むようなそれを指しているわけではなく、また100分de名著で取り上げられるような哲学者たちの姿を必ずしも想像しているわけではなく、これもまた時間そのものであるような、考えるということ以外のすべてを置き去りにして、過去に考えられた幾多の思考をまた踏み台にもしながら、どこまでも考え続けるような行為のことを指している。

これらのことをやっていると、周りとの比較や、自分の社会的な属性といったものがどんどん薄くなり、遠くなり、何か人生にとって最も大事なことであるような、人間でなければできないようなある種の感覚を抱けるような気になってくる。

昔読んだ中島らもの本で、たぶんそれをぼくは予備校の頃か大学の1年生ぐらいの時に読んだのだけど、その中で書かれていた「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉があって(何かの引用だったか)、初めは格好つけただけの、何か意味ありげなだけの文言だと読み流していたが、どうにも引っかかりが残り、時々思い返していたら、ようはそこで言う歴史性とは順序がはっきりした何か、勝ち負けが明快な何かであって、それに垂直に位置するものとは、その順番や力関係にまったく影響されずに生じる何かのことだろうと思われるようになり、またそこで言う歴史性とは、上述の「周りとの比較や、自分の社会的な属性といったもの」にあたるもので、そしてそこで言う「詩」こそが、だから上で言う詩とか芸術とか哲学にあたるものなのではないかと思うようになった。

今にして思えば、十代の頃のぼくの身のまわりには、至るところに「詩」があった。当時は時間の余裕がなくて、気持ちの自由もなくて、その価値を味わうことなんてほとんどできなかったが、確かにあったそれを少しでも覚えていれば、今の感性とともに思い返すことはできる。

大学の前半頃にはずいぶんと鬱屈した感じがあり、近所の書店でふとタイトルにひかれて買った、竹田青嗣さんの文庫本『自分を知るための哲学入門』を繰り返し読みながら、哲学というものは、面倒ではあるが難しくはない、人生において非常に役立つものなのではないかと思うようになった。

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

ぼくにとって哲学は学問ではなく、また誰かを攻撃するための武器でもなく、それは物を考えたり、自分とは異なる何かと対峙したりする時のための道具であり、乗り物のようなものとしてある。直接的には誰の影響だったか、もういろいろ溶けて明確ではないが、西研さんの『大人のための哲学授業』とか、西條剛央さんと池田清彦さんの共著『科学の剣 哲学の魔法』とかを読むうちに、「誰が考えてもここまでは同意できるよね」というところを探していくという、作業としてはすこぶる面倒くさいものの、「使える」度合いとしてはかなり高い、考え方というか、物の見方というか、技術を身につけられたと思っている。

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

これらの芸術と哲学の雰囲気を知っていたことにより、どれだけ人生があてどなく、捉えどころのない不安に包まれていたとしても、「なんとかなりそう」とか「一番大事なところは押さえてある」みたいな感覚がどこかにあり、その楽観性というか、開放感みたいなものが、おもに自由業の頃の仕事を呼び込んだり、助けてくれていた気がする。

とくには坂本さんや浅田彰さんといった、学生の頃から魅了されていた人たちと仕事をするに至り、普通に考えればぼくは上記の「歴史性」の方にたやすく絡め取られ、違和を感じても目先の円滑なコミュニケーションを優先して、当のプロジェクトやそれを手に取るお客さんをないがしろにしてしまっていたかもしれないけれど、ぼくの足下には広大な世界地図というか、宇宙飛行士が眺める地球のような光景が広がっていて、それを共有する優れた専門家の人々と、遠い未来にあるべきものを視野に入れながら、忌憚なく意見を交わして必要な役割を果たすことができたと思っている。

とはいえ40才を過ぎ、その楽観性や開放感だけで生きていくというのもさすがに不安というか、このままではまずいなと思う中で今の会社に入ることになり、これもひとつの幸運だったが、しかし単に運が良かったというだけの話ではなく、この会社を選んだその背景には、上記の感覚が大きく作用していて、つまりその「一番大事なところ」を押さえている会社でなければ自分の価値はわからないだろうと思ったし、実際そういう場所でなければなんの貢献もできないだろうと考えていたから、そのような会社であるという前提で応募したのであり、入ってみれば事前に思ったとおりというか、むしろそれ以上に自分が大切にしてきたそれを生かしながら働くことができていて、つまりフリーランスの頃から今に至るまで、ぼくは芸術と哲学に救われている。