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傷心というゴミをどこに捨てるか

他人から心ないことを言われたり、相手にそんなつもりがなくても自分が大切にしているものを傷つけられたり、誰かのミスのせいで不本意な状況に立たされてしまったり、ということがあるたびに、いわゆるストレスというのか、心の中に、何かそれまでには存在しなかったはずの「邪魔なもの」が生まれて、それを胸の内から体の外に、どこかに放り出したい気持ちになる。

心の中に生まれたそれは、一般に「不快」とも言われるそれで、無くてもいいというか、無い方が良いという意味でぼくに言わせれば「ゴミ」でしかなく、しかし現実世界のゴミならばゴミ捨て場という「捨ててもよい場所」があるけれど、胸の内に生じた不快を「捨ててもよい場所」とはどこだろうか。

最も手っ取り早い方法としては、自分にそれを生じさせた誰かに突き返す、ということで、たとえば誰かに殴られたらそいつを殴り返すとか、自分を不快にした誰かを怒鳴りつけるとか、足を引っ張られたら引っ張り返すとか、そのような方法だろう。

このような方法をとれば、たしかに自分のそばからゴミはなくなり、それは同時に自分にゴミを押し付けた人間にゴミを突き返すことにもなり、そうなればそれは単に「返す」というだけのことでなく、「もうこんなものを俺のところに持ってくるなよ」という警告、メッセージとして相手に伝わり、同じことが再現される可能性を低くする効果があるかのように思えるかもしれない。

しかし、そうやってゴミを突き返された側からすれば、それが元々自分が生じさせたものだとわかる場合ばかりではなく、むしろ「俺はこいつからゴミを投げつけられた、それが今俺の手元にある」ということしか感じられず、また新たに、場合によってはそのゴミの総量を増やした上で、自分にゴミを投げつけてきた相手に投げ返すという帰結も大いに考えられる。

そのようにして、初めはゴルフボール程度だったゴミが、何度もラリーを繰り返すうちにソフトボール、バレーボール、やがて体を弾き飛ばすほどの巨大なゴミとなり、お互いを潰し合ってしまうかもしれない。

だから、いかにそれが手っ取り早い方法だとしても、自分にそれを生じさせた相手にゴミを突き返す、という方法は取らないに越したことはないと思う。

ゴミを突き返すことによって、「この俺に二度とこんなものを投げつけるなよ」というメッセージになる、ということにはたしかに一理あるけれど、そのメッセージはべつにゴミを突き返さなければ、つまり相手に負の感情を与えなければ、伝えられないというものでもないだろう。負の感情とセットで伝えることには、むしろ上記のような副作用の方が大きいように思える。

かといって、胸に抱えたゴミをいつまでも一人で抱え続けることにもまた大きな問題がある。それはたしかに、なるべく早く放出してしまった方がよいものだと思える。なぜなら、人は体の内に残ったそれを、知らず知らずのうちに、自分の心を少しでも軽くするために、身に触れる誰かに、ほんの少しずつではあっても、やはり投げつけ続けることになってしまうからだ。ストレスを抱え続ける人は、そのストレスを軽くするために、出会う他人に少しずつ自分のストレスを分け与え続けてしまう。そんな風に感じる。

では心に生じたそのゴミを、人はどのように、どこへ捨てたらよいのだろうか。ほかの誰かに押し付けることなく、他人を傷つけることなく、どのように捨てていったらよいだろうか。そのための道具を、方法を持つことが必要だ。誰かを傷つける以外の方法で、あるいはそれを最小限にとどめながら、自分の中の傷を癒やす方法を、個人各人が、作り出し、持たなければいけない。

たとえば、ゲームをするとか、体を動かすとか、遠くへ移動して見たことがない景色を見るとか、眠るとか、文章を書くとか、そういった何かが、きっと傷心を抱えたすべての人には必要なのだ。