103

傷ついたことに気づいたら

心が傷ついたとき、自分が傷ついたことに気づくのは、その原因になったことが起きた瞬間ではなく、それからしばらく経ってから、その影響が表れはじめてからではないか、とふと思った。

誰かにひどいことを言われて、その瞬間というのは、それを「受け止める」というアクションをすることに精一杯で、「何を言われたか」をまだ吟味できていない。たとえるならば、何か熱いものを突然投げつけられて、「熱い!」とは思うものの、何が熱いのかはわかっていないという感じ。

やがて時間が経って、その熱さ自体よりも、自分が何を投げつけられたのかを知るにつれ、なぜ自分がこんなことをされなければならないのか、と思ったときには、もうそれを問える当の相手は目の前にいない。心はその熱いものを受け止めたときに傷ついていたとも言えるが、実際には、傷ついていたことに気づいたときこそが、本当の意味で傷ついた瞬間であるようにも思えてくる。

ああ、傷ついた!許せない!ぜったいに許さない!ああ!私は傷ついた!・・と、泣いて叫ぶことにも意味はあるだろうし、それはそれでやってもいいかもしれないが、その末に相手を同様に傷つけることができれば、それで本当に溜飲が下がるのかといったら、貴重な自分の人生を、そういう人と交じり合うことに使ってもいいのかどうか、わからないといえばそれもわからない。

最近時々思うことだけど、というか以前にもここに書いたような気がしなくもないが、目の前に野球のボールが飛んできて、おでこにぶつかるその瞬間のボールの大きさは、たぶん月よりも太陽よりも大きい。目の前にあるものは何よりも大きく見える。

しかし、ふと自分を数メートルとか数十メートル上空から俯瞰して、自分とボールとを見比べたら、ボールはあまりにも小さく、ただ自分の顔にすごく近づいて存在しているだけなのだとわかるだろう。

目の前にあるものは大きく見える。しかし本当の大きさは離れてみなければわからない。

心が傷ついたことに気づいたら、ぐっと身をそらせて、遠く上空に飛び上がり、自分を広く俯瞰して、それは本当に傷つくに値することなのか、それの本当の大きさはどのぐらいなのか、果たして気にとめるべき、耳を傾けるべきことなのか、考えてみるというのはありなのかもしれない。

Twitterなどを見ていると、若く才能あふれる人が、それまでに投げつけられたことがないような心ない言葉を受けて、もう活動をやめようかというぐらい傷ついているのを見ることがあるが、安全な場所から、誰でもよい誰かに向けて投げ散らかされた小さなゴミが、そのような才能の輝きを消してしまうほどの意義を持つのかといえば、まったく見合わない。このようなことを思うのは、ぼくがその人自身ではない他人で、初めから俯瞰的にその状況を見ることができているからで、逆に言えばそのような立場に自ら立つこと、自覚を持って、客観的になることが、役に立つのではないかと思っている。