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酒を飲んで投稿してはいけない(2)

以前に書いたこれの続き。

酒を飲んで投稿してはいけない - 103

なぜダメなのか、ということを説明するためのイメージ(映像的な)が以前から頭にあったのだけど、なかなか煩雑な話でもあったので、書くのも面倒でそのままにしていたが、そろそろ忘年会シーズンですし、大切な誰かが取り返しのつかない何か*1をしてしまう前にちょっとトライしてみようかと。

言うまでもないことですが、余計なお世話! と思う方はそっ閉じ推奨です。これは人類全体への警鐘とかではなく、あくまで僕の親しい誰か(およびそれに類する人々)への助言なので興味のある方だけどうぞ。

舞台は100人の社員を抱える企業のオフィス。
昼には様々な部署の様々なプロジェクトが活発に動いている。

夕方、午後5時を過ぎるとホワイトなその企業では社員が一人また一人と帰っていく。
やがて午後10時を過ぎた頃、会社には最後に一人、今年新卒で入った男子だけが残っていた。
昼間に上司から振られた作業がなかなか終わらず、まだ終わる気配はない。

広いオフィスに一人、残った彼はしかし、どこか解放感を味わってもいる。
厳しい上司も気の合わない他部署の先輩も、微妙な競争意識を感じている同期もすでにその場にはおらず、オフィスはあたかも彼一人を主とする城のようだ、と彼は感じている。

その時、一本の電話が鳴る。相手はどこかのメディアの記者で、その会社が関わるとある取引案件について、コメントをくれと言う。

もし昼間に電話を取っていれば然るべき部署へ回すところだが、今は彼の他に誰もいない。
そして彼には普段からその案件について考えていたことがあったから、自らの見解をとうとうと流れるように記者に語った。

記者は礼を言って電話を切り、翌日には新入社員の彼の考えが、会社全体の見解として全国に報じられた。

喩え話は、ここまで。

さて、酒を飲むと人は楽しくなったりリラックスしたりする。
なぜ楽しくなったりリラックスしたりできるかというと、おそらくシラフのときであれば自分を悩ませるはずの様々な事象が、酒を飲むことでその人の中から姿を消すからではないか、とぼくは考えている。

自分を悩ませるあれこれ。それは言い換えれば、「他者の視点」ということになるだろう。
「本当はこうしたいけど、周りがそれを許さない」とか、「誰々に嫌われる」とか、「この年でそんなことをするのは恥ずかしい」とか、そういういろんな抑圧が普段は働いていて、しかし酒を飲むことによりそれらの要素がグッと影を潜め、相対的に残った自分の考えや、他者から解放されたような感覚が、その人を楽しくラクな気分にさせるのではないかと考えている。

これはつまり上の企業の風景そのもので、自分を抑圧する存在(他の社員たち)が、酒を飲むたびに一つまた一つと目の前から消えていく。

そして最後に楽しい気分の核(自分)だけが残され、そのこと自体はけっして悪いことではないけれど、さてそのときに、それまで存在していた抑制機能が外れた自分の見解を「自分全体の見解」として述べて良いのかどうか。
自分をチェックしてくれる様々な要素が機能していない段階で考えたことを、「自分の発言」として流布して良いのかどうか。

ぼく自身は翌朝になって、「『本来の』自分のチェック機能がすべて働いてさえいれば、あんなことは言わなかったのに」などと後悔したくないから、アルコールに口をつけたら外部へのアウトプットはしない。

喩え話を重ねるならば、それはスポーツの国際大会に代表メンバーたちが万全の態勢で臨めるかどうか、ということにも似ている。
「エースのあいつが怪我さえしていなければ」とか「誰々の体調が万全じゃなかったから」とか、あるいは「監督の采配が悪かったから」といった空想上の理想的な自チームとの比較を元にした言い訳は、「酒を飲んでいなければあんなことは言わなかった」に似ている。

しかしスポーツ選手の不調や監督の采配ミスが避けがたいことに比べれば、酒の失敗はまだずっとコントロールしやすいはずだ。

実のところ、かく言うぼくも友人や仕事仲間との雑談であれば、そしてクローズドに限定された場であれば、酒を飲んだ後でもチャットやコメント等のやり取りをすることはあるし、その意味でもここに書いていることは絶対に守るべき戒律みたいなものではなく、一つの目安みたいなことに過ぎない。

しかしそれでも、ひとたびアルコールを口にすれば普段より劣ったチェック機能しか働かなくなることは明らかで、そんな状態ではいつどんな失言をするかわからない。自分では肯定的な意味で言ったつもりが、そう伝わらない可能性はシラフのときより高まるだろうし、限定公開だからといって許されるわけではないことを、つい口走ってしまう確率も上がるだろう。

そのような可能性じたいを元から断つための明快な方法が、「アルコールに口をつけたら投稿しない」というものだ。

ちなみに、前にも書いたことだが、これは「飲んだら何もしてはいけない」ということではない。
業務内容によっては、酒を飲んでもそれなりに作業を進めることはできるかもしれないし、むしろ自分はその方が生産性が上がる、と思う人もいるかもしれない。

しかしそのような場合でも、「外部にアウトプットしない」ということはなるべく守った方がいい。
なぜなら、酒を飲んで失われるのは上記のとおり、「自分の中の他者の視点」であり、言い換えれば「これを他人が聞いたら(読んだら)どう思うだろう?」という想像力だからだ。
よってそのような想像力が必要とされる作業、つまり外部への公開を後回しにさえできれば、後悔に至るような大怪我はしづらいと思われる。

目に見えない不確実な自分の経験や精神力よりも、簡便かつ確実に事故の確率を減らせるシステムの方を信用することを勧めたい。

オールタイム・ベスト・アルバムを考える

ここ数日、南房総まで小旅行に行ってきたのですが、その帰り道にぼんやり考えたのは「それを聴く前後で価値観が変わるほど影響を受けたり、いつ聴いても退屈を感じないような好きなアルバムって、なにがあるかなあ」ということで、それを以下にまとめてみます。(順不同)

国内

Jr.

Jr.

ソウルセット、9+9/9もトリプルバレルも好きですが、最初に国分寺新星堂の試聴機で「ヤード」を聴いたときの驚き。ほんとびっくりしたので。

緑黄色人種

緑黄色人種

これはロッキンオン・ジャパンの山崎洋一郎さんが見開き2ページのミステリアスな紹介文みたいのを書いていて、とりあえず聴かなきゃ! と買ったもの。まだほとんどメディア露出もしてない頃で(その記事もインタビューとかじゃなくて山崎さんの解説のみ)、本人を見るためだけに苗場のフジロック行って、それが最初のフジロック体験でもあったという。2000年頃かな。

どこへも帰らない

どこへも帰らない

ピーズは次作の「リハビリ中断」も超名盤ですごく迷ったけどとにかく「底なし」がオールタイム・ベスト過ぎるのでこれで。特別なことはやっていない普通の日本のブルース風ロックっぽい気もするんだけど(バンドブームの匂いも含みつつ)いつ聴いてもピーズでしかない別次元の音楽という印象になる。

金字塔

金字塔

これもロッキンオン・ジャパンでまだデビュー前とかに山崎洋一郎さんが、それもまたインタビューとかじゃなくて紹介文を書いていて……みたいなのを見て「これは買わなきゃ!」と思って「犬と猫」を歩いて探し回ったっけ……大学のあった小平から彷徨い探して結局清瀬の初めて入ったツタヤみたいなところにたまたま売っててゲット、みたいな感じだったかも(って暇だな!)。その「犬と猫」は初回限定だったのか紙パッケージ仕様で、開けたら渋谷陽一さんのライナーが入っていて「新人の1stシングルのライナー渋谷陽一が書いてるってこれ異例では」って思った記憶がある。
アルバムとしては完成度・オリジナリティともに高く感じられる本作を挙げますが、シングル的には「主題歌」が好きです。

ザ・ブレストローク-ザ・ベスト・オブ・コールター・オブ・ザ・ディーパーズ

ザ・ブレストローク-ザ・ベスト・オブ・コールター・オブ・ザ・ディーパーズ

スペースシャワーか何かで音を聴いたのかな……なんかすごい好きかも、と思って買った。「サブマージ」とかかなりフィットしますね。自分(だけ)のための音楽だなあ、みたいな。

FAB GEAR

FAB GEAR

ここまでに挙げた中では一番古いかも? フリッパーズ・ギターイカ天の途中で流れた「フレンズ・アゲイン」のCM(15秒ぐらい)で知って、うわーこれイイなあ、と思って探し始めて、でもその頃はあまりフリッパーズのアイテムってなくて、どうやらなんか参加してるらしい、というのでこれを買った(たぶんCD屋のフリッパーズコーナーにこれがあった……とかかな)。
図らずもというか、フリッパーズ以外の曲もどれもよくて、かつ余り他にないトーンを醸していたので結構自分の趣味に影響与えたかなあ、という。
海外勢の曲も多いので、国内枠と海外枠半々、という感じでもある。

海外

Weezer

Weezer

これは多分予備校1年目とか。スペースシャワーで「バディ・ホリー」が流れて、うわーいいじゃんーと思って買ったらもうアルバム全体すごく良かった、という。1曲目から最後までほんとよく出来てる。とくに好きなのは3曲目と最後ですかね……。

Pop Pop

Pop Pop

これもスペースシャワーでリッキー・リー・ジョーンズがジミヘンのカバーを歌ってるのを見て(「アップ・フロム・ザ・スカイ」のビデオクリップだった)、うひーカッコイイなこれ、と思ってメモしようとしたらもう終わってて、次にそれがたまたま流れるまでひたすら待って、次に流れたときにようやく少しメモできたけど書ききる前にまた終わってしまい、また次に流れたときに……とか何度か繰り返してから、たしか近所にあった&今はない新星堂かなあ……に行ってようやく買った。高校1年か2年の洋楽聴き始めの頃ですね。なんかそのジミヘンのカバーっていうのが、「ジミヘンってあのうるさいやつでしょ?」みたいな、でもそのビデオクリップはめちゃシャレてて、ゾッとするほど静かで綺麗な感じもあって、そのジャンルレスな感じに影響受けたーっていう気がします。

First of a Million Kisses

First of a Million Kisses

これまたスペースシャワーのせいというかおかげというか……船の上で歌ってる「パーフェクト」のビデオがすごい良くて、これほしいわーってたしか近所のディスクユニオン(それは移転しながらまだある)で買った気がする。同時期にXTCの「オレンジズ&レモンズ」も買ったと思われ、ほんとに高1とかの洋楽体験最初期ですね。
でもなんか洋楽入門編だからって甘すぎるとか、わかりやすすぎる、というのでもなく、今でも楽しく聴ける良作なので自分の耳ナイス、という感じですが。
ちなみに、この国内盤のライナーがピーター・バラカンさんで、もうさすがのバラカンさんでライナーだからってただ良いところを並べるっていうのでもなく、ちょっと斜めに見ながら俯瞰的に語るというか、すごい独特でその「味」みたいのがすごく印象に残ってますね……まさかその後、一緒にお仕事できるとは思ってもみなかったけれど(当たり前か)。

The Book Of Life (1998 Film)

The Book Of Life (1998 Film)

唯一のサントラ盤にして上記「Fab Gear」と対になるような感じかも。P・J・ハーヴェイやヨ・ラ・テンゴその他洋楽勢が中心のコンピでありながら嶺川貴子さんも参加しているという。ハル・ハートリーの映画はそれも90年代だったか、BS2で夜中に「トラスト・ミー」と「シンプルメン」を連続放送したことがあって、たまたまそれぞれの断片を見て「うひー、カッコイイ!」って(これ何回目)思ってその後つかず離れず的にチェックしていたのだけど(「ぴあ」とか)、そしたら渋谷のアップリンクでこの「ブック・オブ・ライフ」というのを上映するというのを知って(今の場所じゃなくてその前の所)、観にいって。でもたしかこのサントラはそこで買ったとかじゃなくて、後日にたまたまどこかで見つけて映画の追体験するか〜みたいな感じで買ったような。
アップリンクはその後私の初共編著作となる「大谷能生フランス革命」の舞台となった場所でもあって(それは移転後の方)、まさかそんな付き合いになるとは……って、それはそんなに不思議とかでもないですか。
ハル・ハートリー、しばらく見てないのでこれを機に作品チェックしてみよう……(TODO)。

しかしこのようにして見てみると、90年代にかなり偏ってる感ありますね……その後一体何を聴いていたのだろう。大学を出たのがちょうど21世紀に入った頃で、インターネットがウチに開通したのが2003年とか。やはり音楽ソフトをバリバリ買って、音楽雑誌をバリバリ読んで、みたいなのはその頃を境にだいぶ無くなって、音楽の聴き方も変わったのかもしれないな。

人種差別禁止法・ヘイトスピーチ規制法の是非

久しぶりに考えがいのある論点だと思った。





普通に想像を進めると、上にあるような法規制を行う場合には「どこからがそれなのか」といった線引きが問題になりそうだ。(とくにヘイトスピーチの方)

いわゆる「表現の自由」とぶつかる部分もあるだろう。

しかしより重要なのは、この中の「人を深く根源的に傷つける暴力」という部分だろう。これを実感できるか、できないかで意見は分かれそうだ。

いずれにせよ、体を直接傷つけるのではなく、言葉で精神的に傷つける行為を法に触れる暴力であると定義し、広く共有させることが出来たら、それは人類レベルでの進歩ではないか、という気がする。

決闘や仇討やさらし首やギロチン刑が行われなくなったように、野蛮な社会から洗練された社会への移行を示す一例になるかもしれない。

酒に鈍感

いくら飲んでも酔わない人を「酒に強い」と表現するが、それはたんに鈍感なだけではないか、と思うことがある。

通常、「強い」とは良いことであり、「弱い」とは悪いことを指すから、「強くなければいけない」と人は半ば無意識に考え、それが原因で酒を飲み過ぎ、それがまた引き起こす問題というのが少なくないように感じる。

見方によっては、何杯飲んでも表情が変わらない人というのは、強いのでもすごいのでもなく、単に鈍感なだけであり、すぐにつぶれる人は弱いのではなく敏感で繊細なのだと言うことができる。
そのように考えれば、「もっと飲まなきゃ」とか「飲めなくてすみません」とかいった雰囲気を今よりは薄めることができるかもしれない。

酒に強いとか弱いとか表現するのは日本だけのことでもなさそうで、海外の映画やTVを見ても、強い酒を飲み比べてどちらが最後までつぶれずにいられるか、みたいな競争(というか)をやっていたりする。

酒を飲んでいるうちにつぶれてしまう、寝てしまう、意識を失ってしまう、という状況があるから、それを「負けた=弱い」と形容しやすくなるのかもしれない。
それは理解できるが、しかし少なくとも、酒を大量に飲むことを「良いこと」「すごいこと」だと評価するのはそろそろ20世紀までの文化として終わりとしても良いような気がする。

町おこしなどの地域のイベントや、ギネスに挑戦するような企画において、通常であれば競わないような技能を競争するものがあるけれど(何時間片足で立っていられるか・・とか)、そのような非日常的な場で、ある種の特殊技能を測定する機会として考えるのは良いかもしれないが、「強い(から良い)」「弱い(からダメ)」のような人類普遍の価値観と結びつけて考えられる能力ではない気がする。

匿名の相手と戦ってはいけない

ある種のネット上の議論においては、ネット特有の特殊な論法に長けた人というのがいて、その人がそのスタイルを守るかぎりは決して負けず、逆に本来であればまともな話をしているはずの方が論戦としては負ける、という状況が起きがちだと感じる。

もう幾度となく、そして無数の人によって語られてきたように、ネットでは相手の顔や声や立ち振る舞い、着ている服や年齢その他、ようは「見た目」がわからないことが多く、とくに「今この瞬間にどんな状況下でそれを言っているのか」がわからないので、それ以外の要素であるところの「文章」が非常に偏って大きな比重を占めることになる。

というのは、べつにその偏りが「悪い」ということではなく、むしろというか、より直接的なコミュニケーションである電話や対面を通しても人は振り込め詐欺マルチ商法の被害にあったり、夜の駅では酔っ払いに殴られたりとひどい目にはあうわけで、その意味ではネット・コミュニケーションの方がよっぽど安全とすら言えるわけだが、そうした良し悪しとは別に、「文章」をメインにやり取りするがゆえに生じる問題というのはやはりある。

そこで出てくる概念が「匿名」というもので、何しろ相手が見えないので、どこの誰だかわからないまま話し合う、ということが普通に出来てしまう。

そして上記のようなネット特有の論法に長けた人の中にはそういう人もいて、結論としては僕はあまりこういう人と異なる意見を交えてはいけないと考えている。

と同時に、その論を適切に述べるためにはここで言う「匿名」という表現が指す対象を厳密に定義しておく必要がある。
そしてひとまず、ここでその定義を簡単に言ってしまえば、僕が議論すべきではないと考える「匿名」の主要素は、「自分の都合だけでいつでも勝手に存在を消してしまえる人」である。

だから逆に言うと、ここで言う「匿名」とは、単に「戸籍上の名前を隠している」ということではない。
ペンネームでも芸名でもアダ名でも、その人が普段ネットで使っている仮の名前とアイコン画像を見れば、周りが「他の誰でもないその人」だと思えるなら、その人はもうここで言う「匿名」ではない。

よくネットで論戦をしがちな人が言うことに、「自分は実名でやっている人しか相手にしない。文句があるなら堂々と実名で文句を言え」みたいなことがあって、これは批判の的になりやすい。

というのも、そういうことを言う人の中には相手の職場に恫喝・脅迫まがいのクレームを入れて、社会的立場を脅かそうとする人がいるからで、そういう人がそういうことをするたびに「だから実名主義者は信用ならない」という風に、実名主義者とそれ以外の人との間には乖離が広がる。

一方、ここで僕が言う匿名とは、「職場や居住地その他の個人情報を明らかにしていない人」ではない。そのようなことは伏せたままでも、たとえば過去何年にわたりそのアカウント名で活動しており、今後も基本的にはその立場のまま活動するだろう、と思われる人となら普通に意見を交わせると考えている。

だからそうではない、Twitterのアイコンが卵のままだったり、投稿内容も含めて「他の誰でもないその人」と言える要素が少ない相手の場合、その人は何を発言しても責任を負う必要がないため、意見を交わすための条件が備わっているとは思えない。

実名を公開していなくても、そのアカウントを使用しづらくなることで少しでも困るような状況にあるなら、その人は不可避的に発言に責任をもつことになり、その立場を賭けて発言していることになる。
具体的には、もしおかしな発言をすれば、その人は周りから「あの人はああいうことを言う人なのだ」と思われ、その発言は以後その人の属性として付いて回ることになる。

つまり、異なる意見を交わす際に必要なのは「信用」であって、互いの信用を賭けて議論するときに初めてそれは議論として成立・機能する。

もしそうではない状況、たとえば「誰が言ったかは問題ではなく、このような考え方自体が重要なのだ」という風に、元の発言者を不問としたまま概念や考えを議論の対象にするならば、それは不毛の泥沼に足を踏み入れるようなものだ。

名もない通りすがりの男性が、少年野球のグラウンドで素振りをしている小学生に「うまいね」と言った場合と、イチローがたまたま帰国していて、同じ少年に「うまいね」と言った場合とではその「うまいね」の意味はまったく変わる。
前者の存在意義が後者より低いという意味ではなく、単に言っている内容(見ている対象やなぜそう思ったかという理由など)が違う。

言葉は「誰が言ったか」によって大きく変わる。誰が言ったかを踏まえない言葉は無敵のジョーカーのようなもので、想定される発言者によって内容が変幻自在に変わってしまうがゆえに厳密な話し合いには向いていない。

加えて言えば、そのような発言者が不確定である論理には、発言者をどのようなキャラクターにも設定してしまえるがゆえに、考える力のある聞き手ほど、自分の頭の中で勝手に強力な論理に仕上げてしまえる余地がある。

上の例を再利用すれば、発言者の元を離れた時点では野球の知識も経験もない人が気まぐれに呟いた「うまいね」だったはずが、受け手の想像力によってイチローが発言した「うまいね」に変わってしまう。この「受け手が勝手に意味を(発言者や前提を)変えてしまえる」ということが、不確定な話者による言説が抱える大きな問題性である。

上で述べた、「本名も勤め先も明らかではないが、他の誰でもないその人」として特定される存在を、ここでは「一意のアカウント」と呼んでおく。そしてこれは、ここで言う意味においては「匿名」ではない。

一意のアカウントには、「これまでこのようにネットでの活動をしてきた」という厳然たる過去と、それを踏まえて生じる「今後もこのように活動していくであろう」と想定される未来があり、それが上記で言う「信用」でもある。

またその「信用」とは、仮にその後の議論の末に、その人にとって不都合な事実が出てきたり、展開が不利に傾いたりしても、その人は議論を継続するだろうという見込みがあるということで、さらに期待するなら、もし明らかに間違いであるとわかった場合には、その人は素直に間違いを認めるだろう、という見込みまでをも含んだものだ。

少なくとも自分の場合、そのような見込みや信用がない相手とは、貴重な時間を費やして議論をすることはできない。

この文章を書いたのは、少し前に以下の記事で触れた、某氏のやや率直に過ぎる(と見られがちな)ブログ記事に対して、

はてなが誇る匿名の巣窟「匿名ダイアリー」で、無名の誰かによる反論的な記事が書かれ、僕が普段その意見を参考にするような人たちが数人、その記事を指して「いいこと言ってる」みたいなコメントをしているのを見たからだった。

僕はその記事を読んでいないし、そのような無責任かつ無敵の文章を読んだり分析したりすることに人生を使うことは今後もないと思うが、そうした素朴な反応が普通だとされてしまう社会はちょっと生きづらいな、別の観点を示しておきたいな、と思ってこれを書いた。

僕が普段参考にしているような、頭のいい人たちがその記事について「いいこと言ってる」と言ったのは、きっとその文章に残された余白(そこには本来「責任」が入る)を、読者であるその人たち自身がいい感じに埋めて「良い内容」に仕上げたからだろう。

ちなみに、冒頭でネットのコミュニケーションが対面のそれより「悪い」わけではない、と書いたのと同様に、僕はそのような匿名(一意のアカウントですらない匿名)を「悪い」と言っているわけではない。

たとえば企業の内部告発がそうであるように、発言者の存在を発言者自身の判断でいつでも取り消すことができるような機会は必要だろう。

あるいはSTAP事件の不正発覚のきっかけとなったネット上の一連の匿名記事も、当人たちがその気になればいつでも存在を消すことができる、掲示板サイトや無料ブログで行われた。

それらは議論のための投稿ではなく、不正を告発するための(取り上げてくれるのであればそれが誰でも構わない)内容だから、そういう場合はそれでいい。

またそうした危機的な理由によるものでないとしても、いわば心の一時避難場所のように、そのような立場を用いることも時には必要かもしれない。
その意味では、はてなの匿名ダイアリーにも存在意義はあるかもしれないと僕は思っているし、同社がそれを残しているのもそういった側面があってのことだろうと想像している。(といって賛成するわけでもないが)

しかし論理を戦わせる議論という場において、自分の考えを述べようと思うなら、その立場は匿名であってはいけない。
前世紀であったなら、多くの他人と一度に、かつ継続的に意見を交わせる機会は稀で、そのために発信者不定のぼんやりとした「概念」や「文章」を相手にものを考えなければ話が先に進まないこともあったかもしれないが、今は違う。
議論の相手を明確に特定、または設定した上で、その前提のもと(その前提がなければ成り立たない)論を述べた方が効率が良い。