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振り上げた拳を下ろす練習

人と人との争いの原因のいくつかは、「前提としている情報(認識)が異なる」ことにある。誰かが誰かを攻撃的に責めるとき、責めた側の前提にしていることが、責められる側にもつねに共有されているかといえば、そうではない場合もある。というか大抵は共有されておらず、「え・・いや別にそういうつもりじゃありませんけど?」みたいなことが多いように感じられる。

これがいわゆる完全な言いがかりというか、勘違いであって、責めた側としても「あ、やべ、俺の勘違いだった」という状況において、すぐ謝れるかどうか、というのはなかなか難しい課題になる。

たとえば普段から、けっこう偉そうな感じで発言し、周囲との関係においてもとりあえず偉い人。みたいに扱われてしまっていると、いい感じで強めに責めたものの勘違いでした、といった場合に「すみませんでした」とはかなり言いづらくなる気がする。

周りにいる人たちが単に建前的・立場的にその人を偉い人のように扱っているだけならまだいいが、ある種の教祖的なというか、精神的支柱のように扱っている場合にはけっこう状況は複雑で、それら信者的な人たちからの目も気になってしまい、教祖的な人は余計に間違いを認めづらい、という感じになりそうだ。

これがいわゆる「振り上げた拳を下ろせない」状況で、言いがかりをつけられた側も不幸ではあるが、やはりそれ以上に不幸なのは、拳を振り上げたまま下ろせない側だろう。
誤りを認められないということは、誤りを修正した先へ行けなくなるということで、周りからの評価としても「誤ったままその先のいろいろなことをしている人」ということになるわけで、当人からすればけっこう痛い。

僕は現在携わっているプロジェクトで中心的な作業を担当しているから、指示を出したり最終的な判断に近いことをしたりする中で、ついつい偉そうな態度に出がちになり、しかし元来うかつなので、しょっちゅうそういう状況(偉そうに言ってはみたが間違っていた、とか)に陥ることになる。

しかし謝れないまま修正も成長もできない、という状況になるのは最もつらいことだから、それを避けるために普段から心がけているのは、なるべくカジュアルに、遠慮なく謝るということだ。
上記の例を踏まえて言えば、拳を振り上げては下ろし、振り上げては下ろし、ということをしょっちゅうしている。

担ぎあげられた御輿から下りられなくなるほど大変なことはない。ああ、間違えたな、と思ったら誰がどう見ようとすんなり謝り、またそのような癖をつけられるようにしたいと考えている。
普段から、自分の間違いを認めたり謝ったりということができていれば、心ならず泥沼の不毛な戦いを延々と続けるような状況からも逃げられるかもしれない。

とはいえ、カジュアルに謝るということは、思ってもいない謝罪をとりあえずしとく、とかいうことではまったくない。そこで行うべきことは、自分が自分に対して仕掛ける「そこで謝ったら低く見られるから、間違いを認めたりせず偉そうにしとけ」という目に見えない抑圧を振り切ることであって、相手を軽んじることではない。

またそれゆえに、一旦は間違いだと思って謝ったものの、やっぱりよくよく考えると間違いではなかったな、と思って謝罪を撤回する、ということもカジュアルにやる。

突然殴りかかってくる人にどう対すればいいのか

人間の相性というものがあって、話せばわかるけど普段はあまり合わない人、話すまでもなくすごく深くわかり合える(ように感じられる)人、どうしても無理、いや絶対無理、みたいな人などがいる。

最後の「絶対無理」という人であっても、目が合えば挨拶ぐらいするとか、少なくとも意味もなく殴りかかってくるわけではない、とかであればまだマシで、その向こうには「意味もなく突然殴りかかってくる人」というのがいて、本人の中では筋の通った理由があるのかもしれないが、夜9時のニュースなどを見ていると連日のように報道される、「どうしてそんな酷いことができるんだ・・」みたいな人というのはそういう感じではないか、と時々考える。

実際には、たとえば深くわかり合える人をA、全くわかり合えない人をZとして、その間にはDやPのような多くのパラメーター(目盛り)があり、さらには以前Wだったはずの人がその後Bになったり、という風に時間軸や状況、条件などによって変わったりということもあるはずで、つまり人同士の相性というのは一様ではないとも言えるが、それでも一定の傾向というのはあるようで、「突然理由もなく殴りかかってくる人」のいくらかは、相手や状況が多少変わってもそのままではないか、と不安に思うこともある。

そして、そういう自分の感覚から遠く離れたZのような人に対しては、AやFのような比較的感覚が近い人に対するのとは別種の対応をしなければならないのかもしれない、とも考えつつある。何しろその人は突然殴りかかってくるのであって、こちらにはその理由がわからないのだから、警戒も応戦もする暇はなく、気がつけばただ怪我をしていたり、命を失っていたりすることにもなりかねない。

「いや、どんなZな人でも見方を変えればAでもあるのだ」という考え方をすることは論理的には可能かもしれないが、現実の様々な事象を見てもなおそのように言うことは難しい。大きく矛盾する。だから考え方を変えなければいけない。

先手必勝、目には目を、みたいなことを主張したいのではないし、何よりそんなの疲れるに決まっていてやりたいとも思わないが、少なくとも理解できないことを平気で(かどうかは知る由もないが)やってしまう人がいる、ということは認めざるをえない。

・・ということをパリのテロに関する報道を見ながら思った。それを無視も否定もしようがないレベルで知らしめたのがそのテロであり、それだけの衝撃があったことを各国の反応がまた伝えている。他の国でも同様かそれ以上の被害や犠牲があるというのに、ことさらパリだけを取り上げるのは不公平だ、みたいなTwitterの投稿を見たが、奇妙な見解だと感じた。誰も命の重さを比べてなどいない。知らなかったこと(あるいは知っているつもりだったが全く認識の足りなかったこと)を知った、それに対する反応をしていて、さらにそれを踏まえて今後できることをやっていこう、と動き出しているだけだろう。

またFacebookがSafety Checkという安否確認機能を公開し、多くの人に役立ったが、
Facebook災害時情報センター

なぜ今回のテロでそれを使用し、以前のテロや戦争被害に対して行わなかったのだ、という批判があったという。
Facebook、パリのテロ事件で適用した安否確認機能の批判を受け、他の災害にも適用すると明言 | TechCrunch Japan

これもまた奇妙な話だ。そのような機能が今回公開されたのは、それが今までに起きた同様の事件以上にFacebookの人々にショックを与えたから、つまりそれだけ身近な問題として捉えられたということであって、批判の対象になるようなことではない。なんというか、以前に書いたこれを思い出す。
空き缶を拾っていると怒られる、という話 — Medium

しかしながら、そのような「?」と思える奇妙な批判を行う人であっても、「突然わけもなく殴りかかってくる人」に比べたらずっと話が通じるに違いないとも思う。怖いのは、議論にもならない、いや争いにすらならない相手である。

しかし人は、いつどうやってそれになるのだろう? 生まれてからずっとそうだという人もいるかもしれないが、たとえば今回のテロの加害者全員がそうだとは考えづらい。ある時あることをきっかけに、Nから一気にZになってしまう人、Aから段階的にZへ向かう人、あるいはそのZと表現しうるグループの中にはまだ人間の感性を残した人が、いや様々な段階の人間的感性を残した人が、それぞれのあり方でいるのかもしれないが。

同じようなことが、同じような様々な国内外のグループや、個人に対しても言えるかもしれない。そしてそのような人々とどうやって、この同じ世界(時間・場所)を共有していったら良いのかと考える。とりあえずは、可能なかぎり逃げるしかないのかな、という気もするが。

ブログをはてなダイアリーからはてなブログに引越した

これまで、はてなダイアリーで身辺雑記、はてなブログでそれ未満のメモ的なことを書いていたのだけど、だんだん後者の方が機能的に充実してきて、それにつれて前者が更新しづらく感じられるようになり、更新しづらく感じるからあまり使わない、使わないからさらに使いづらく感じる、という悪循環になってきたので、引越し機能を使ってはてなブログの方に統合した。

http://note103.hatenablog.com/

それとは別に、プログラミングの勉強メモに特化したブログを一つ持っているけど、それはそのまま。

雑記をはてダ、より簡便なメモをはてブロで使い分けていたのは、前者はもう10年近く前から書き継いでいたから、当時からを含むリアルな知り合いが読者にいるという前提で、そこに書くのもなあ〜というぐらいちょっとした思いつき、つまりはTwitterに書くようなことをTwitterのように字数制限なく書きたい、という場合に、はてダ以外の場所があった方が気楽だと感じたからだったが、上記のようにそんな風にはてダを残しておいたところで、更新しづらいとか、そもそも知り合い向けの話題というのもそうそう出てくるものではないし、とかいうこともあって、よりトータル的にラクな運用をできそうなこの感じにしてみた。

それらとはさらに別に、scholaの状況・情報を列記するためのブログ。というのもはてブロで一つ作ってしばらく更新していなかったので、そちらも情報を整理するためにまた少し手を入れていきたいなあ、とも思っている。

同時に発生するメリットとデメリットをセットで語る

これを書き始める直前に気づいたけど、ちょうど1年前にこれを書いたのだった。

そして今また、以下の記事が話題になっている。

率直に言って、この内容には胸を打たれた。感動した、と言えばウェットに過ぎるかもしれないが、それに近い何かを感じた。

その感覚の一因は――そして現在この話が話題になっている理由のいくらかは――、この作業が1年かけて果たされた、という説明にあると思う。
本当に1年かけたのかはもちろん本人以外にわからないが、そうなのかもしれない、と思わせる説得力は感じてしまう。
(ブログが前回からほぼ1年更新されていないことなどからも)

ぼくは原文も、改訂版が作られるきっかけになった無料非公式版訳も読んでいないし、これからも読むことはほぼ無いように思うので、ここで言われていることが事実かどうか(つまり改定前のものが本当に誤訳の多い物だったのかなど)は論点ではなく、以下の点についてだけ書こうと思った。

というのは、実は冒頭に挙げた1年前に書いた記事で話題にしたのと結局同じ話なのだけど、「正しいことを指摘するにしても言い方ってものがあるだろ問題」みたいなことだ。

同氏というのは結局「言っていることは正しいが口が悪い(=口は悪いが言っていることは正しい)」と言われるケースが多いようで、だから突っ込まれるのは1年前も今回も「同じことをもっと丁寧に言いなさいよ」ということだ。

で、それが氏への〈助言〉として語られるのであればとくに異論はないのだけれど、氏への〈批判〉として、つまり「口が悪いからやっていることも駄目」となるとちょっと問題があると感じる。

車を走らせれば排気ガスは出るし、電気を使うなら原発が必要になる(少なくとも特定の地域や時期においては)、というのと同じ論理で、アクションを起こす以上デメリットは必ず生じるのであって、結局はどちらのデメリットをアリにするか、という話になる。

無論、理想としては「正しいことを正しい言い方で言う」ことができればそれ以上のことはないし、それを求めて助言する、というなら上記の通り理解できるが、そうでなければならない、という批判になると、なんというか、どんなに偉い立場になればそのようなことを言えるのか、と感じてしまう。

同氏における口の悪い表現、というのは僕から見ると上記の例にある「車が走れば排気ガスが出る」の排気ガスのようなものだと思われる。それはたゆまぬ改善の中で、減らしたり無くしたりすることもできるかもしれないが、少なくとも今走っている車は排気ガスを出さずには進めないのであって、それ以上でも以下でもない。

もしその車の排気ガスが嫌だ、というならば関わらなければいいだけのところ、排気ガスを出すことのみを取り上げてそれを駄目だと言ったり、「頑張れば排気ガスを出さない車も作れるはず」みたいな高い目標を当然のことのように突きつけるのは変だと感じる。

排気ガスの問題性を取り上げるのであれば、それを排しながら達せられた〈成果〉をセットで取り上げるべきだと思うし、より高い目標の達成を求めるのであれば、それを言う自分はどうなのか、それは出来て当然なのか、といった実情をセットで語る必要があるのではないか、と考えている。

結論が決まっている人と議論はできない

ラーメンとカレーのどちらがおいしいか決定しよう、という機会があったとして、初めからラーメンだと決めている人にカレーの良さを伝えることはできない。

一口でいいからこのオススメのカレーを食べてみてよ、と皿を差し出しても、もうラーメンだと決めているのにそんなものを食べたら心が揺れるかもしれないから、その人は出されたラーメンを食べずに捨てる。

議論とはその時の自分の意見とは異なる意見を差し出され、嫌だと思っても一旦それを口に含み、味わい、飲み込むことを繰り返す中で、それ以前には辿りつけなかった新たな答えに共に辿りつくための行為であって、相手から差し出されたラーメンやカレーをひたすら捨て続けるような行為ではない。

安保でもTPPでも原発でもマイナンバーでも良いが、先に結論が決まっていてそれを変える気持がまったくない人が、それに反する意見の人とできるのはそのような「捨て合い」「否定のし合い」でしかなくて議論ではない。

議論とは他人と協力して何かを作る行為であって、そのために最低限必要な条件は、「自分は現時点ではこのような意見だが、もしかしたら変わるかもしれない」という、変更可能性を有していることだ。

片方が提示した論点や証拠に対し、その事実を認めないまま新たな論点を提示する人は少なくない。

1: A「君は昨日遅刻したね」
2: B「覚えていません」
3: A「ここに証拠があるのだけど」
4: B「でもあなたも遅刻しましたよね」

たとえば、このような会話。
Aからの3の発言を受けて、Bは本来遅刻の事実を認めなければならないが、それをしないまま4に移ってしまう。

この状況はピンボールやパチンコを想起させる。放たれた弾の目標は、つねにボードの一番下にある穴に落ちることだけであって、その途中でどこにぶつかって、何度フリッパーに跳ね上げられても、意に介することはない。弾はひたすら下へ向かって落ちていくことだけを指向し、それはやがて必ず成し遂げられる。

自らの非を認める気のない相手と議論することは、ピンボールで永遠に弾を落とさないことを目指すようなもので、それは不可能なことだ。