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批判にどう対するか

最近はようやく収まってきたけど、かつてぼくの関わるボランティア組織では外部からの批判(いわゆるアンチというか)が影響力を持つことが結構あった。といっても、それら批判者自体が何をどうしたということでもなくて、メンバーが外部からの心ない(時にはなんの根拠もない)発言に傷ついたり、そのせいでその後、周りからどう言われるかを気にした思考法&態度になってしまったり、といった影響だった。

幸いぼくはそういう影響はあまり受けなかったと思うけど、それはぼくが何かしらに秀でているからとかではなく、たぶんその活動への入れ込み度合いというか、親近感みたいなものが薄かったからじゃないかと思ってる。親近感が薄いことについては時に申し訳ないような気にもなったけど、だからこそできることもあるだろうとは思われ、そこは適材適所、分担してやっていければいいよねと割り切ってもいた。
もちろんそのようなぼくにしても、自分が大事に思う人やコミュニティを悪く言われたらパッと憎悪の火に包まれてしまうに違いない。つまり批判の声を気にしない、ということは人間であるかぎり原理的にできない。あえて回避する方法を挙げるならば、批判されたそれ(たとえばそのボランティア活動)から距離を取るか、批判者と一緒にそれを嫌いになるしかない。

一方、すべての批判が我々の避けるべき心ない攻撃であるのかといえばそんなことはないだろう。というか、そもそもぼくら被・批判者からそのように思われた誰かにしたって、中には愉快でやってる人もいるだろうがそればかりではないはずで、むしろ自分は正しいことをしている、真実を教えてやっているのだ、と思っている人の方が多かったのではないかとも思われる。ある種の批判は受け取り方によって、有益な指摘にもなればおぞましいアンチにもなるということではないか。

明確に、誰もが、「一方のこれは無益で稚拙な攻撃に過ぎないがもう一方のあれは有益な指摘である」というふうに綺麗に整理できるケースばかりではない。ないのだが、それでもある種の判断基準を用いることで、そこの振り分けをスムーズに行うことはできるかもしれないので経験的にぼくが利用しているそれを挙げておく。

1)まず、どのような批判に対してであれ最初に確認すべきは、それを「誰が言っているのか」ということだ。これを確認せずに対応してはいけない。

2)「誰が言っているのか」を把握したら、その中からどれが「有益な指摘」であるかを判断しよう。その判断基準(フィルターと言ってもいいが)は、「自分がその発言者を信用できるかどうか」である。「この人を私は信用できる」と思えるのであれば、その時点ではすぐ受け入れられないとしても、受けた批判は「あとで考える」フォルダにしまっておいた方がいい。そしてしばらくして気持が落ち着いたら、ゆっくり引き出しから取り出して内容を吟味すればいい。
逆に言えば「有益な指摘」かどうかを判断するための基準は、それだけだ。もちろん世界には数えきれない多くの意見があるのだから、そんなたった一つのフィルターでは漏れてしまう「有益な指摘」もたくさんあるには違いない。しかしここで求めていることは、「すべての有益な指摘を拾う方法」ではない。「有益でない指摘を確実に落とすこと」が目的なのである。

3)次に、2)とは別に「とくに有益ではないが、反応しなくちゃいけない批判」というのも中にはある。と言っても、一般の人々においてそんなケースはほぼないと思うのだけど、企業等の社会的に活動している団体や、いわゆる有名人においてはそれが発生しやすいと思われる。その意味では、ぼくが関わったボランティア組織もそれが発生しやすい部類に入っていたとは言えるだろう。
では、「とくに有益ではないが、反応しなくちゃいけない批判」とは何だろうか。「べつに反応しなくていい(というかしない方がいい)批判」と、それとの違いをどう判断すればよいのだろうか?
答えは、「影響力のある人による批判かどうか」だ。宗教のようにたくさんの人が闇雲に信じている対象であるところの誰かが、ある対象について勘違いしたことを言ってしまい、そのせいで不利益を被るのはたまらない。だから、そのような時には気が進まなくても誤解を解かなければいけない。いや、もう少し厳密に言えば、目的は誤解を解くことではなく、それが事実と異なる認識であることを明示する点にある。ある種の企業が新聞記事などの誤報に対して、可能なかぎり迅速にプレスリリース等で反論(自社における事実)を掲載するのはそういったことだ。
ただし、ここで言う「影響力」というのは、たんにTwitterでフォローしている人が多いだとか、そのネタがよく話題に上がっている(ように見える)とか、そのように分かりやすく知覚できるものではない。「本当に」影響力があるかどうかということは、ある程度冷静に分析しなければ分からないことだ。「影響力」というものを自分の狭い観測範囲からのみ、すぐに判断しようとはしない方がいいし、そもそも出来ない。

件のボランティア組織においてよく聞いた反応は、「反論しなければ認めたことになる」というものだった。しかし実のところ、本当に反論しなければならない相手はあまりにも限られている。
人間に普通に備わっている、自分の狭い観測範囲から見えたことが全てだと思えてしまう性質もそうした非効率かつある意味で軽率な対応を後押ししてはいるだろう。1つか2つのごくわずかのサンプルをもとに全体で起こっている事態を類推し、全人類がきっとこのような状況下にある、といった思いこみにぼくらは簡単に囚われてしまう。(ダニエル・カーネマンが「少数の法則」「見えたものがすべて」と言うのはたぶんこれに近い)

先に記したように、批判に対して冷静になれないのはその対象に入れ込んでいる証拠なのだから、それ自体はぜんぜん悪いことではない。ある種の人がつねに客観的な態度でいられるのは、彼がその対象に関心を持っていないから、とも言えるかもしれない。しかし、どこからどう見てもどうでもよい(気を落とすには価しない)と思われる心ない文句を真に受けて動揺してしまったり、ましてやそのせいですべきではない拙速な判断や行為をしそうになっていたりする知人(または自分)の様子を見ていると、やっぱり上記の3つのフィルター(「誰が言っているのか」「自分はその相手を信用できるのか」「本当に反論すべき(影響力のある)相手なのか」)ぐらいは、いちおう共有しておいた方がいいんじゃないかと思うのだった。