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光と影で描くのはたやすい

美大予備校に通っていた頃、評判がいいというか、いつも反応が良かったのは人の顔を描いたときと、陰影がはっきりした絵を描いたときで、でも陰影のコントラストを強くして印象的な絵を描くなんてある意味では誰にでもできることで、難しいのは陰影を付けないのに形や雰囲気を表せることだなとも思っていた。

誰にでもわかりやすく、評価されやすく、目を引きやすいのは陰影、つまり黒と白をはっきりさせることで、またその間にあるグラデーションのコントロールを絶妙に付けられたらより劇的になって文句ナシ、みたいに評価を得やすいんだけど、そういうのはなんというか、誰にでもできる下品な表現という感じがしていた。

簡単な例で言うと、ピカソの子供の頃の油絵やデッサンを見るとめちゃ上手いんだけど、それは光と影の表現。暗いところを真っ黒にして、明るいところに視線が集まるようにしているだけという感じ。でもそれが青の時代とか白の時代とかになるにつれて、もう暗いところはただ黒で塗りつぶしたものではなく、そこを見るだけでもなんだか「はあ」と息をついてしまう感じになっていく、みたいな*1

そんなことをなぜ今頃言っているのかというと、そのわかりやすい陰影の表現のように、人の善悪みたいなものもあって、あの人はいい人、あの人は悪い人、みたいにはっきりしていると、それに対してどう反応したらいいのかもわかりやすいし、ある意味で安心してそれを見られるというところがあるように思えるのだけど、実際の人間はそんなにはっきりしているものではなくて、いいところもあれば悪いところもあるものだから、本当にそれを描こうと思うならばやっぱり陰影とは結びつかない色で形を浮かび上がらせるようなことをしなければならないんじゃないか、みたいなことを思ったということ。

*1:しかしこのピカソの喩えも何十年もアップデートされていないので再考の余地がありそうだけど。

対象によって自分が変わる/遊びとしての勉強

最近、ハングルにハマっています。韓国語の勉強ですね。4月の半ばぐらいにEテレハングル講座を見て、あ、これできそうだな。と思って本を買ったり良い学校がないか調べたりし始めて、そしたら会社近くに老舗のハングル教室があることがわかって(会社と会社最寄駅の間にあった)、5月頭から(というか連休中から)そこに通い始めました*1。5月後半からけっこう忙しくてまだ5回ぐらいしか受講していないですが、長期的に楽しめればと思っています。

ハングルの勉強は水を飲むようにスイスイ自然にできています。これ、向いてるってことだなと感じます。プログラミングに近い。文章もそうかな・・つまり、大変な思いをしてそれをやっても、とくに苦しくないんですね。「大変だけど苦しくない」というのはある種の真理というか、なにかを成し遂げるには必ず通過しなければならないチェックポイントみたいな、そういう印象があります。

ハングルの勉強をしていると、時々、かつて取り組んでいた英語や簿記の勉強法についてまとめた本に書かれていたようなことを、自分から進んで、誰にその方法をやれと言われたわけでもなく、自然に作り出しては実行していることに気づきます。それで後から、「ああ、これ英語とか簿記のハウツー本に載ってた方法じゃん」と思うわけです。

いや、それって結局、その英語とかの本でかつて読んでた内容をただ思い出して実践してるだけじゃないの?という気もするんですが、いえ、自分の中の必要に迫られて自然に選択した方法がそれだった、ということが大事なんですね。それで思ったんですが、結局その英語とか簿記とかの本を書いた人たちというのも、今のぼくにとってのハングルみたいに、その人なりに自然に、必然的に選び取った効果的な学習法がそれだった、ということなんじゃないかな〜、と思っています。

言い換えると、それって要するにその本を書いた人たちが英語や簿記に「向いてた」ってだけで、その方法が誰にとっても効果的な英語や簿記の勉強法ってわけじゃない、ということじゃないの?って、そんなふうにこのハングルの勉強をしながら初めて思ったんですね。

勉強法の本、もちろん万人に効果があるなんて書いてあるものは今どき少ないかもしれないですが、でもこの、「勉強法の本を書いている人は勉強の対象がたまたまその人に向いていたからその方法がハマったってだけなんじゃないの」という視点は、今までのぼくにはなくて、今はある、ということです。逆に言うと*2、それに向いてない人がその方法を試したところで再現できないというか。ここ、けっこう大事なんじゃないかな・・と。

少し話が変わりつつ、でも繋がっている話なんですが、そのぼくにとってのハングルって、なんで自分に向いてると思うかっていうと、なんか気がつくとやってる、「言われなくてもやってる」からなんですよね。そういう風になってることに気づいて、「あ、向いてるな」と思ったというか。言われなくてもやってる、「ほっといても勝手にやる」という状態。これができるなら、その人はそれに向いてる。そう言えるんじゃないかな、と。

で、ぼくはよくプログラミング関連のことを何か言ったり書いたりしているときに、自分が「自走するプログラミング入門者」である、みたいなことを言ってたんですけど。で、それは確かにそうだろうと今でも思うんですが、それでも最近ちょっと認識が変わったのは、ぼくはそのようなことを言いながら、自分が「自走する種類の人間」なのであって、何をやらせても基本的に自分からどんどんやっていける人であって、そのような人であるところの自分が、いろんな選択肢の中からプログラミングを選んだのであって、だから仮に他の選択肢を選んでいたとしてもそのように出来るんだけど、今はプログラミングを選んだからプログラミング学習を自走しながらどんどんやってくることができた・・みたいに思っていたんですが。

でもそれはどうやら違って、ぼくはべつに「自走する種類の人間」でもなければ、もちろん「自走しない種類の人間」でもなくて、実際には、「自走することもしないこともある人間」であって、ただ、その選び取った対象によって、自走することもあればしないこともある、という事だったんじゃないかな・・と思ったんですよね。

これをまた具体的に言い換えると、ぼくの場合は対象がプログラミングやハングルであれば自走することができて、でも英語や簿記だったら、なんというか、どんどん後回しにして、自走できない人になる、さらに別の表現にするなら、ぼくを自走する人間にしてくれる対象もあれば(プログラミングやハングル)、自走しない人間にする対象もある(英語とか簿記)ということなのかな〜・・と。

それで、そこからまた少し飛躍っぽく連想するんですが。ええと、人間性とかもそういう感じなのかなと。この現実世界には「良い人」と「悪い人」が別個にそれぞれ生息しているんじゃなくて、「良い面も悪い面もどっちも持ってる人」がいるだけで、ただその人が付き合う相手、一緒にいる相手、あるいは身を置く環境とか、取り組む対象とかによって、良い人間にも悪い人間にもなる、ということなのかなと。

これも同様に言い換えるなら、たとえばぼくだったら、ぼくという人は良い人でも悪い人でもなく(あるいはその両方であり)、しかし世の中にはぼくを良い人間にする誰か(あるいはそれに類する何か)と、ぼくを悪い人間にする誰か(またはそれに類する何か)がいる、ということなのかな・・と。

最後に話をブンと戻して、ハングルのことですが、冒頭で「長期的に楽しめれば」と書いたように、基本的には確かに、これを「勉強」と言ったりもするんですが、でもぼくにとってプログラミングがべつに勉強ではないように、ハングルも実際は勉強ではないというか、いや勉強ではないと思った方が自然に、面白くできるなと思っているところです。

先日、ハングル検定というのに、超めちゃ忙しい状況下で普通なら行かないだろそれは、という中で行ってきたんですが*3、それはまあ、一応検定ということもあり、勉強という感じで多少準備はしていったんですけど、でもその準備的な勉強をしながら、「ああ、これ検定に受かることを目的にやっていたら、めっちゃつまんなかっただろうな〜!」と思いながら、自分なりにバランスをとって、面白く感じられる範囲で準備して臨んだんですけど、合格基準点60点に対して50点までいきなり迫れたので、あらためて「向いてるな」と思ったりしましたね。で、その時につくづく意識していたのは、その面白みっていうのもそうですが、とにかく「遊び」として頑張るということでした。遊びじゃなかったらやっちゃ駄目ぐらい。いや、駄目ってことはないか・・極端だった。とにかく、楽しいからやる、というのでないと、むしろ向上しないな、という意味です。

プログラミングもそうで、遊びだったし、誰かにやれと言われたわけではないからこそ続けられたと思っていて、まあ基本情報技術者試験とか頑張りましたし、それはめっちゃ勉強って感じもありましたが、たぶんそれって当時フリーランスで「さすがに何か資格ないと不安か・・」と思って、というのとも繋がってるんですけど、だけどやっぱり一方では「非エンジニアで基本情報持ってたらぜったいウケるだろ」とか「ましてや応用持ってたらもっとウケるだろ!」と思ってたからできたというか、そういう風に自分を外から見て面白がってるやつがいなかったらそもそもやってなかったし、その勉強も続けられなかったので、やっぱり遊びというか、ウケるから受けるみたいな*4感じが大きかったように思われ、だからそういう大らかさというか、風通しの良さというか、自由な雰囲気というか、それがここで言おうとしている遊びということで、そういうのこそが少なくともぼくにとっては、自分に向いてる何かを向上させるために必要な要素、生き物に必要な水みたいな、そういうものなんじゃないかな・・と思ったりしているところです。

*1:よくよく考えると、会社近くの教室なのに会社に行かない連休中に通うっていろいろおかしいのだけどそのぐらいやる気が高まっていたということ。

*2:この言い回し久しぶり。

*3:一番易しい5級です。

*4:言ってしまった・・駄洒落をとめられない年頃に入ってしまったかも。

2019年4月の音楽

音楽、なんだかんだでよく聴いてる。

アドビの安西さんがTwitterで紹介されていた↑を見て、うは、面白いな、と思ってしばらく見ていたら、キーボードもそうだけどとにかくベースの人がカッコイイ。

で、このカッコ良さはどこかで見たなあ・・と思ったら、岸野雄一さんが以前にTwitterで紹介されていたこちら。

Sam Wilkesさんというんですね。とにかく目が離せない・・。

ちなみにそのSamさんは出てこないですが、別のSamさんが出てくるLouis Coleのこのビデオもカッケー!!

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さて、冒頭のScary Pocketsに話を戻すと、とにかくそういう超カッコイイカバーが目白押し。

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ということで、ここからはその彼らのチャンネルで「これは・・」と思った好きなやつを並べます。

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とりあえず一番はこれ。↑こんなに何度も聴き返しているのは去年紹介したThe Internetのビデオ以来かも。

note103.hatenablog.com

その次によく聴いてるのはこれ。↓

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この歌ってるRozziという人がすごすぎ。なんなん!

ちなみにこれらからもわかるとおり、このScary Pocketsって固定のボーカルはいなくて、曲ごとにいろんな歌手とやってるみたい。

それからこれもよかった。

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ウケる・・。

あとこれ。

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先ほどのRozziさんですけども。

あとこれとか。

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止まらない・・最後にもう1個。

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これはもう曲がいい。原曲はケイティ・ペリーさんですか。サビの転調が異常!今時のポップミュージックはこんなんかい!と思ったけど、じつは原曲の方はそういう感じではなく・・異常な雰囲気はカバーの方が勝手に色付けた感じみたいでした。

しかし総評として、とにかくボーカルがすごい。アレンジも演奏もすごいんだけど、ボーカルを聴くとそのなんというか「違い」みたいのが明らかというか。明らかな「何か」がある。ああ、なんというか、知らないことばっかりなんだな・・自分、という感じ。こんなすごい表現者がゴロゴロいるんだなアメリカ・・という感じ。ケタが違う。

ぼくは最近、会社づとめを始めた副次的な影響でお昼ご飯をよく食べるようになったんですが、以前だったらカップラーメンとかコンビニ弁当で済ませていたようなところ、会社があるのはオフィス街みたいな感じなので、飲食店が店の前で売ってる弁当をよく食べるんですが、同じ「弁当」でも全然レベルが違うんですよね。

とくに中華屋さんが出してる弁当はいちいち本気っていうか。コンビニ弁当との圧倒的な違いがあって。その違いって何だろう、飲食店が出す弁当には「何か」があるとも言えるけど、もう少し具体的に言うならおいしい弁当にはいつも「驚き」があって。ぼく的にはその驚きというのがいわゆる「感動」なのかな、と。

いつもその中華屋さんとか、インド料理屋さんが出す弁当の料理をひと口食べたときに思うのが、別に変わった食材とか種類の料理じゃなくても、普通の野菜炒めみたいなやつでも、何か他にはない手がかかっていて、口に入れたときに「あ」って一瞬体の機能や挙動が止まるような、時間が止まるような感じがあって、「なるほど〜・・」みたいな。知らなかった、こんな味があるんだ〜・・みたいな。

それで話を戻すと、上記の一連のお気に入り動画・演奏にはいちいち「そう来たか〜・・」っていう驚き、新鮮味、それまでに体験したことがないような何かが提示されていて、それで見た時・聴いた時に体全体が一瞬止まってそのまま記憶しちゃうみたいな、そういうすごさがありました。

コンビニ弁当とか、ある種のポップミュージックの場合は(べつにそれらを悪く言うことによって好きなものを引き上げたいわけではなくて、単純にその違いを描写するために言うんだけど)、そういう驚きみたいなものはなくて、「うん、そうだね、こんなだよね、知ってる」みたいな。けっしてまずいとか不快とかではなくて、むしろよく出来てるなって感心するぐらいなんだけど、ただそれって同時に淡々と目の前の文字を機械的に読み上げていくだけみたいな、「作業」として体験しているような。そういう感じがあったんだな〜・・って、その驚きがある方のそれらを体験したことによって後から気づくみたいな。そういう感覚がありましたね。

逆に言うと、そういう比較対象としてのスゲーものに触れる前は、本当にべつにコンビニ弁当を味気ないものなんて全然感じていなかったんだけど。後から気づかされる感じ。・・ってこういう話を以前にもしたような・・いつだっけ。ああ、思い出した、プログラミングの話だ。このページですね。

https://speakerdeck.com/note103/the-non-programmers-programming-techniques?slide=30

ともあれ、まあそう、まだ音楽、聴いてますね。知らないものばっかりだ。知っていると思っていたものの中にも知らないものはあるし、今回みたいにそんなものがそんなところにあるとも知らなかったようなものもあるし。

ひとまず現在進行形の音楽状況をメモしておきました。

失敗という御馳走を食べずに捨ててきた

先日、会社の社長がTwitterでRTしていたので知った以下の記事。

simplearchitect.hatenablog.com

すさまじく、すさまじかった。すごい記事。去年も含めてベスト記事。

以前にこのような感覚を覚えたのは以下の記事で、

gihyo.jp

たしか2015年の年末にこれを読んで、今年読んだすべての記事の中でベストだ、と感じたのを思い出したぐらいだから、3年以上ぶりぐらいのそういう、あれだった。

ストーリーについて詳しい解説はしないけれど、とにかく驚いたのは、そこで示される「日本人的な考え方」というもの。それはぼくそのものであり、ぼくをずっと覆い続けてきたものでもあった。

というか、それが普通で、常識で、それが世界、それが人生というものなんだと思っていたけど、そうではなかった、それはあくまで、いろんな価値観や考え方がある中のほんの一部に過ぎなかったんだ・・と相対化されてしまった、そのことに驚いた。

ああ、なんということだ。ぼくはずっと、失敗を恐れ続けてきた。いや、というより、失敗の存在をそもそも見ないように、感じないように、知り得ないように、してきたのだった。そんなものはない、目に入らない、自分の世界にはないものなのだ、と・・。

失敗とは悪いものだと思ってきた。いやそうは言っても、ぼく自身は今まで、リスクをそれなりに取ってきたじゃないか、と言い張る自分もまたぼくの中にはあるけれど、全然そんなことはない、ずっと避けてきた、ずっとやっぱり、失敗なんて無きものなんだと、思おうとしてきたのだと、その記事を読んで初めて(たぶん初めて)わかった。

失敗は、本当は必要なものだった。人生にとって、楽しい人生にとって、豊かで、かけがえのない人生を得るために、絶対に必要なものだったんだと、その記事を読んで初めて思った。知らなかった。ああ、なんてことだ。ぼくはそれを知らなかった。目の前にある、膨大な量の、大変な重さのそれらを、それと知らずに、そんなに大事で貴重なものだとは知らずに、全部捨ててきた。見もしなかった、触りもしなかった、ましてや、絶対に口に入れたりはしなかった。それはかけがえのない、人生を豊かにしてくれる御馳走だったのに。

失敗をしなければ、成功もなかった。それを知らなかった。失敗とは劇場の入り口のモギリのようなものだった。モギリにチケットを切ってもらわなければ、劇場には入れなかったのに、モギリが嫌だからって劇場に入ることを拒んでいた、その中で行われているものを見もしない、聞きもしない、いやそもそもその中で行われていることを知ろうともしなかった。馬鹿なことをした。その向こうに人生があったのに、それをまったく、知りもしなかった。

ぼくは自分がリスクを取っていると思っていた。果敢に失敗を取りに行っていると思っていた。でもそんなことはなかった。ぼくが自ら向かっていった失敗はほんのわずかなものに過ぎなくて、実際にはその何十倍、何百倍もの失敗を事前に恐れ、避けてきた。ああ、馬鹿なことをした。

目の前には、皿に盛られた大量の御馳走があった。それはエネルギーの源で、それは食べ物で、ぼくはそれを食べなければ「生きる」ことができなかったのに、食べなかった、食べずに、全部そのままゴミ箱に捨てていた。

馬鹿なことをした。貴重な人生を捨ててきた。人生は失敗の向こうにあった。にもかかわらず、ぼくは向こうに行かなかった。失敗が怖かったからだ。人生は失敗とともにあったし、楽しさも面白さも豊かさも幸福も全部失敗とともにあったのに、失敗が嫌だからってそれらを全部捨ててきた。ああ、なんてことだ。馬鹿なことをした。ああ、どうしてそんなことを、でも、それに気がつくことができた。その記事はとんでもなく大切な話だった、それを読むことができた、長い記事だったが、途中で読むのをやめなくてよかった、43から44になろうとしている今、それに気づくことができた。人生はまだ終わっておらず、終わる前に気づくことができた、間に合った、もう間に合わないと思ったときにはまだ間に合っているのだと思っていたが、それだった、まだ間に合った、まだ失敗できる。多くの御馳走を捨ててきたが、まだ目の前にはそれが残っている。あと何年生きられるかはわからないが、ぼくの前にはまだそれが残っていて、それを食べることができる、今までそれが食べられるものだなんて知らなかった、だから捨ててきた、でもようやく今までずっと何も食べずにいた人生から、好きなだけそれを食べられる人生になる。

失敗は人生そのもので、いわゆる成功も幸福も、楽しみも喜びも何もかも、それと一緒にあった、それを知らなかったが、それをもう知った。もっと失敗しなきゃいけない。それは入り口にすぎない、失敗とともにその向こうに行ければ、その向こうにあるものにようやく触れられるだろう。

岸野雄一プレゼンツ毎年恒例新春オープン・プライス・コンサートに行ってきた(ワッツタワーズ/イ・ラン/VIDEOTAPEMUSIC)

すでに半月以上経ってしまいましたが、1/11金曜日、渋谷のO-WESTで行われた岸野雄一さんのライブイベント「オープン・プライス・コンサート」に行ってきました。

岸野さんによるイベント前夜のツイートはこちら。

こちらのイベント、タイトルにもありますように毎年恒例で、なぜ1月11日なのかと言ったら岸野さんの誕生日なんですね〜。岸野さん、あらためましてお誕生日おめでとうございます!

ライブの出演者&DJは以下の方々でした。

ワッツタワーズ/イ・ラン/VIDEOTAPE MUSIC
DJ:岸野雄一、パク・ダハム

以下、感想を記録します。

目次

開場

18時半の開場と同時に始まったDJはパク・ダハムさんで、韓国ではレーベル運営やイベント・オーガナイズなどもしている方だそうです。後述のイ・ランさんを発掘(?)したのもこの方。

ぼくはどのタイミングだったか、10ccの「アイム・ノット・イン・ラヴ」のカバーが流れてきたのをうっとり聴いていて、あとでご本人とちょっと喋る機会があったのでその話をしたら、どこだったか、アジアのミュージシャンによるカバーだったそうで、「アジアの音楽が好きなんですよね」と素敵な笑顔で言っていました。

話を戻すと、入場後はとりあえずドリンクを交換して、そのまま2階席に行って、初めの2組は2階で座って聴きました。

VIDEOTAPEMUSIC

最初はVIDEOTAPEMUSICで、とても良かったですね。古い映画を字幕付きで見せながら、ある種それとコラボするように音楽を展開していくという。

20代の半ばから後半ぐらい、モラトリアムな気分でじわじわ内心焦りながらも、だらしなくレンタルの映画をただ眺めていた感覚を少し思い出しました。映像も音楽も字幕もぜんぶ目に入ってるんだけど、頭の中では別のことを考えていたその感覚。

VIDEOさん(略称)の音楽はその映像や音や字幕たちがどれも不可分で、映像に導かれるように演奏が流れては演奏に従うように映像が流れて、その絡まり方が不思議でありまた魅力でした。

曲も良かったです。山田参助さんが1曲だけ登場したのも印象的でしたが、とくに最後の2曲? だったか、女子のグループが車に同乗してだらだら歌ってる(なんとかスランバーという)曲、それから最後の、タイトルはフィクション・ゴーンズと聞こえましたが、年配の人たちが楽しそうに踊っている映像のリピート、まるで天国のようですごく良かったです。

イ・ラン

2組めはイ・ランさん。チェロのイ・ヘジさんとのステージで、曲によってみんとりさんやイトケンさんや海藻姉妹の人たちが一緒に演奏していました。

1曲めがたぶん「神様ごっこ」という曲で、それで一気に「なるほどこういう感じか」と全部伝わってくる感じがありました。チェロが入っていたせいか、「誰々みたいな曲」という既存のイメージがあまり浮かばなくて、それに加えて歌詞も内容がちょっと変わっているので目が離せなかったです。

その歌詞、ずっと歌に同期する感じで日本語訳がバックのスクリーンに流れ続けていて、それが良かったですね。歌やパフォーマンスを全然邪魔しないで、でもはっきり内容は読めるという感じで。今までああいう演出のステージを見たことがないのですが、歌詞の内容がわかると受け取れる情報が格段に増えるので、コレ他でもやってほしいなあと思いました。

イ・ランさんは見た目というか佇まいがめっちゃカッコよくて、たしかMCの中で「この衣装は昨日無印で買った」と言ってましたが、「無印にそんなカッコいい服売ってるんかい!」と思うぐらいカッコよかったです。

曲としては「患難の時代」がとくに印象に残っています。最後から2番めの「イムジン河」も良かったですね。「イムジン河水清く〜」の「水」が「ミジュ」と聴こえましたが、これがとても歌の魅力を増しているように感じました。

最後の柴田聡子さんとの「ランナウェイ」という曲(だと思いますが)、マジ最高でした。なんだこれ〜と思いながら最初から最後までずっと酔っ払ったように聴きました。曲も演奏も良かった・・。これは2月に音源がリリースされるようなのでマストバイします。

ランさんと柴田さんといえば、この記事がとても良かったです。2016年の記事ですが、昨日こんな話をしていたと言われても信じるぐらい、こんな感じのステージでした。

mikiki.tokyo.jp

ワッツタワーズ

トリはもちろんのワッツタワーズです。これはスタンディングで見ないと。と思って階段を降りて、前の方に行ったらDJが岸野さんで、そのまま振り付きの歌謡曲DJを楽しみました。しかし気がつくと曲は「ボヘミアン・ラプソディ」になっていて、そのまま岸野さんはステージに移動して、バンドも入ってきて、レコードだったはずの曲がバンド演奏に変わっていて、そのようにしてワッツタワーズのステージが始まりました。

ぼくが初めてワッツタワーズのライブを見たのは2006年でした。そのときのことをブログに書いています。1月12日、ライブ翌日の日付です。

このライブを観に行ったのは、たぶん前年の7月から始まった大谷能生さんのマンスリー・イベント「大谷能生フランス革命」にぼくが半分スタッフ、半分お客さんのような感じで通っていて、その第4回(2005年11月)のゲストとして岸野さんがいらしたことがきっかけだったと思います。

(のちにそのイベントを書籍化したもの。ぼくにとって初めての共編著であり、初めて関わった商業出版物でもありました)

そのフランス革命の帰り道、会場の渋谷アップリンクから駅へ向かう間に岸野さんと少し話すことができて、ぼくはその頃、菊地成孔さんのペン大(音楽私塾)に通っていたのでその話をしたら、だったら映画美学校の菊地クラスの生徒と一緒に何かやってみたら? 場所は美学校の空いてる教室を使っていいよ、という感じのことを言ってもらって、それ以降岸野さんにはいろんな場面でいろんなかたちでずーっとお世話になっています。

2009年

次にぼくがこの新春ライブに行ったのは3年後の2009年で、このときは七尾旅人さんと相対性理論が出ていました。

■OUTONEDISC PRESENTS「FUCK AND THE TOWN」

出演
・WATTS TOWERS(岸野雄一/宮崎貴士/岡村みどり/近藤研二/栗原正己/イトケン/JON(犬)/ヘルモソ)
相対性理論
・ウリチパン郡

DJ
吉田アミ
・SINGING dj 寿子(七尾旅人
・Thomas Kyhn Rovsing (from Denmark)

この回はさっきより力のこもった感想ブログを書いています。

正直、めちゃくちゃ読みづらい上にかなり感傷的な文章なので、ここで紹介するのはウルトラ恥ずかしいですが、まあ当時をこんな風に振り返る機会は二度とない気もするので、勢いで並べておきます。

しかし今思い出しても、このときの七尾旅人さんはすごくすごーく良かったです。ぼくは2階で見ていましたが、これは1階でスタンディングで見てたほうが楽しかっただろうなあ・・と今でも少し後悔します。

とはいえ、このときって相対性理論がブレイクしたちょうどその瞬間みたいなタイミングで、とにかくお客さんがめちゃめちゃ入ってたんですよね・・たぶん岸野さんから相対性理論へのオファーはブレイク前で、それがライブ本番の直前ぐらいでブレイクしてしまって、「え、今このタイミングで相対性理論のライブが見れるの?」っていう状況でこのライブがあったものだからえらい数の人が詰めかけた・・という印象があります。

*いまWikipediaを見たらアルバム『ハイファイ新書』がこのライブのわずか4日前に出ていたようです。
*実際、この日の相対性理論のライブ評はけっこう多かった気も。

なので、その意味では1階で見るという選択肢はあまりなかったのですよね・・。

2012年

次に観に行ったのは、その3年後の2012年でした。

出演
・ワッツタワーズ
岸野雄一(Vo) / 岡村みどり(Key) / 宮崎貴士(G) / 近藤研二(G) / 栗原正己(B) / イトケン(Dr) / JON(犬)/ ヘルモソ(ウサギ))
http://youtu.be/h4udQ_THlS0

戸川純
戸川純(Vo) / 中原信雄(B) / デニス・ガン(G) / ライオン・メリィ(Key) / 矢壁アツノブ(Dr))

・Alfred Beach Sandal
http://youtu.be/lyYvWA_CrWY

・シークレットゲスト ミニライブ:R&R Brothers (ex- Halfnelson)

このときは戸川純さんが出ていましたね。シークレットゲストはスパークスのお二人でした。

Alfred Beach Sandalもすごく良くて、物販でCDを買いました。

しかしこの年はブログを書いていないようです・・なぜだろう?

2013年

翌年も行きました。

OUT ONE DISC presents 「君ともう一段階仲良くなりたいと僕は考えている」

出演
ワッツタワーズ
岸野雄一(Vo) / 岡村みどり(Key) / 宮崎貴士(G) / 近藤研二(G) / 栗原正己(B) / イトケン(Dr) / JON(犬))
http://youtu.be/h4udQ_THlS0

チャン・ギハと顔たち
http://youtu.be/uJf-1Iv16y8

スカート
http://youtu.be/62XacXQlZug

DJ
馬場正道

この年は珍しくトリがゲストのチャン・ギハと顔たちで、ワッツは2番手でした。

最初のスカートも良かったです。終演後に会場の外に出たら、澤部さんがちょうど機材を車に積んでいたので「よかったです」と声をかけた記憶があります。

物販ではチャン・ギハのCDを買いました。

さて、この年にはライブとは別に印象的なことがあって、それは打上げに参加させてもらったことでした。

そしてこの2013年1月11日は、テレビ版scholaの「映画音楽編」の第1回が放送された日でもありました。

しかもその放送がちょうどライブの終演後、出演者やスタッフが打上げ会場に集まった頃に始まるというすごいタイミングで、あれはスクリーンだったか会場の壁だったか、とにかく大きな画面にEテレが映し出されて、皆で岸野さん(のヒゲの未亡人)が坂本さんと喋りながら映画音楽の解説をしているのを見ていました。

ぼくが岸野さんにその番組の元となる企画、CDブック版のscholaに参加してくださるよう連絡をしたのは、いま手元の記録を見てみたら、2011年11月11日でした。偶然ですが、これはぼくが生きている中で一番「1」が並ぶ日です。

その制作は同年末から徐々に本格化して、CDブックは翌2012年4月に校了、5月末に発売されました。

同書には岸野さんと坂本さんを含む座談会の採録記事(テレビとは別に行ったもの)の他、岸野さんの書き下ろし原稿(収録曲に関する解説)もたくさん掲載されています。これは自慢ですが、その原稿はぼくが編集したんです。岸野さんの原稿を編集する日が来るなんて!

想像もしなかった出来事が次々と実現していました。打上げ会場で見たEテレは、その象徴のような番組でした。

2014年

次にワッツタワーズを見たのは2014年でした。

■恒例・新春オープンプライス・コンサート「エンドロールはNG集!」

出演
ワッツタワーズ (岸野雄一/宮崎貴士/岡村みどり/近藤研二/栗原正己/イトケン/JON(犬))
http://youtu.be/h4udQ_THlS0

No Lie-Sense (鈴木慶一+KERA
http://youtu.be/ZZWnNdho950

ケバブジョンソン
https://soundcloud.com/kebabjohnson/hotpark

DJ
安田謙一 / 川西卓

この年にもブログを書いています。

note103.hatenablog.com

いま読み直して思い出しましたが、この2週間前に大瀧詠一さんが亡くなりました。今だからこんな風に書けますが、本当に大きなショックを受けました。まだそこから抜けきれていない感じが行間から少し感じられます。

その中にも書いたとおり、この年のことでよく覚えているのは、最後のDJタイム安田謙一さんが歌った松崎しげるの「銀河特急」です。めちゃめちゃ良くて、そのときの情景を今でも思い出せます。安田さんはフロアで歌った後、ターンテーブルまで戻って、マイクで「岸野くん! 長生きしようね!」と言っていました。

2019年

そんな楽しさのかたまりのようなイベントでしたが、それから4回分、期間にして丸5年、ぼくはそこから遠ざかっていました。

2014年の1月、安田さんの歌を聴いたすぐ後から、ぼくはscholaの第14巻「日本の伝統音楽」の制作を本格化しましたが、それまで約4年にわたって二人三脚でscholaを作ってきたスタッフF氏が別部署へ異動してしまい、なおかつ同巻は後にも先にもこれ以上ないぐらい作業量が多い巻だったので、このときからぼくはschola以外のことは全部後回しにして、1秒でも余裕があったらとりあえずscholaを作る、という感じになっていました。

とにかく締切りに間に合わない、ということが怖くて仕方なかったんですね。

年末年始は他のスタッフや関係者が皆休んでいるので、遅れを取り戻せる貴重な期間でした。毎年1/11はその集中作業の熱が冷めておらず、そのまま作業を続ける、みたいな感じだったと思います。

でも、そんなscholaも去年の春に発売された第17巻をもって退任することになり、11月からは43歳にして初めての会社員になりました。じつのところ、この年末も普通に編集仕事をしていましたが(フリーの時代に請けていたもの)、それでもscholaの時代に比べれば作業量はずいぶん少なくて、今年はようやく行ける! と思って行ったのが今年のライブでした。

ボヘミアン・ラプソディ」が終わり、いつものオープニングの曲が始まるのと同時に気がついたのは、ギターが宮崎貴士さんではなかったことでした。前回見たとき(2014年)まではずっと宮崎さんだったので、少し意外というか、びっくりしました。でもたしか、平日はお仕事との兼ね合いがあると聞いた気もするので、もしそうなのだとしたら、来年の1/11は土曜なので参加されるでしょうか・・。いずれにしても、またの機会に宮崎さんの演奏を見られることを楽しみにしています。

今回のワッツタワーズの曲目は、すぐに浮かぶところで「歌にしてみれば」「ブリガドーン」「正しい数の数え方」「ミュージックマシーン」「友達になる?」「犬とオトナゲ」「メンバーズ」などなど、いつもの素晴らしい名曲たちでした。

それから、最後の「メンバーズ」のひとつ前の静かな曲、曲名はわかりませんでしたが、たぶん初めて聴いた気がします。これもすごく良い曲でした。

「メンバーズ」の導入部分では、イ・ランさんと岸野さんの即興的な、語りと歌が混ざりながら寄せては返す掛け合いが良かったです。ランさんは必要な音をサッと取りながらけっこうすごい声量で歌うので、まるで何かの楽器で音を出しているかのような安定感というか、安心感がありましたが、全部その場であの気の利いた言葉ごと生成して出力してるんだから驚きです(それも日本語で!)。時に岸野さんが引っ張って、時にランさんが引き戻すようなその駆け引きはとても見応えがありました。

あとは岸野さんの「みんな今日からここで一緒に暮らしましょう!」も聞けましたし(すごい好き)、最後の「君たちがワッツタワーズだ!」も聞けて最高でした。

終演後、パク・ダハムさんのDJを聴きながら物販でイ・ランさんのCDRを1枚買いました。最後に支払うライブのお代は、7,000円にしました。

scholaの編集をしていた頃、「これは何百年も残る仕事だから、自分は重い責任を背負ってるし、全力を注がなきゃいけないし、そうするだけの価値もやり甲斐もある」と思っていました。

だから1秒でも余裕があれば、その時間を原稿の読み直しや書き直しに使っていました。

でも会社員になって、そういう時間の使い方をする必要はなくなりました。会社では決められた時間に最大限のパフォーマンスを出しきることが重要で、それができなければ時間外にいくら頑張っても貢献度は低く、非効率だからです。

これからぼくは、休憩時間や休日には積極的に仕事以外のことをして、その度合いは日を追うごとに増すことになると思います。そうなれば、こうしたライブにももっと参加できるようになるでしょう。

考えてみれば、ぼくが最初にワッツタワーズを見た2006年は、まだscholaはおろか、上記の「フランス革命」すら作り始めていない、まったく何者でもない状態でした。

まあ今だって、それほどの者ではないですが、でもscholaをやる前の自分がscholaをやった後の自分になって、何というか、ちょっと1周したかなという感覚があります。

次の1周には何があるでしょうか? 何をするでしょうか? ワクワクします。そんな年の始まりを、ワッツタワーズのライブとともに迎えられたことを幸運に思います。