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対象によって自分が変わる/遊びとしての勉強

最近、ハングルにハマっています。韓国語の勉強ですね。4月の半ばぐらいにEテレハングル講座を見て、あ、これできそうだな。と思って本を買ったり良い学校がないか調べたりし始めて、そしたら会社近くに老舗のハングル教室があることがわかって(会社と会社最寄駅の間にあった)、5月頭から(というか連休中から)そこに通い始めました*1。5月後半からけっこう忙しくてまだ5回ぐらいしか受講していないですが、長期的に楽しめればと思っています。

ハングルの勉強は水を飲むようにスイスイ自然にできています。これ、向いてるってことだなと感じます。プログラミングに近い。文章もそうかな・・つまり、大変な思いをしてそれをやっても、とくに苦しくないんですね。「大変だけど苦しくない」というのはある種の真理というか、なにかを成し遂げるには必ず通過しなければならないチェックポイントみたいな、そういう印象があります。

ハングルの勉強をしていると、時々、かつて取り組んでいた英語や簿記の勉強法についてまとめた本に書かれていたようなことを、自分から進んで、誰にその方法をやれと言われたわけでもなく、自然に作り出しては実行していることに気づきます。それで後から、「ああ、これ英語とか簿記のハウツー本に載ってた方法じゃん」と思うわけです。

いや、それって結局、その英語とかの本でかつて読んでた内容をただ思い出して実践してるだけじゃないの?という気もするんですが、いえ、自分の中の必要に迫られて自然に選択した方法がそれだった、ということが大事なんですね。それで思ったんですが、結局その英語とか簿記とかの本を書いた人たちというのも、今のぼくにとってのハングルみたいに、その人なりに自然に、必然的に選び取った効果的な学習法がそれだった、ということなんじゃないかな〜、と思っています。

言い換えると、それって要するにその本を書いた人たちが英語や簿記に「向いてた」ってだけで、その方法が誰にとっても効果的な英語や簿記の勉強法ってわけじゃない、ということじゃないの?って、そんなふうにこのハングルの勉強をしながら初めて思ったんですね。

勉強法の本、もちろん万人に効果があるなんて書いてあるものは今どき少ないかもしれないですが、でもこの、「勉強法の本を書いている人は勉強の対象がたまたまその人に向いていたからその方法がハマったってだけなんじゃないの」という視点は、今までのぼくにはなくて、今はある、ということです。逆に言うと*2、それに向いてない人がその方法を試したところで再現できないというか。ここ、けっこう大事なんじゃないかな・・と。

少し話が変わりつつ、でも繋がっている話なんですが、そのぼくにとってのハングルって、なんで自分に向いてると思うかっていうと、なんか気がつくとやってる、「言われなくてもやってる」からなんですよね。そういう風になってることに気づいて、「あ、向いてるな」と思ったというか。言われなくてもやってる、「ほっといても勝手にやる」という状態。これができるなら、その人はそれに向いてる。そう言えるんじゃないかな、と。

で、ぼくはよくプログラミング関連のことを何か言ったり書いたりしているときに、自分が「自走するプログラミング入門者」である、みたいなことを言ってたんですけど。で、それは確かにそうだろうと今でも思うんですが、それでも最近ちょっと認識が変わったのは、ぼくはそのようなことを言いながら、自分が「自走する種類の人間」なのであって、何をやらせても基本的に自分からどんどんやっていける人であって、そのような人であるところの自分が、いろんな選択肢の中からプログラミングを選んだのであって、だから仮に他の選択肢を選んでいたとしてもそのように出来るんだけど、今はプログラミングを選んだからプログラミング学習を自走しながらどんどんやってくることができた・・みたいに思っていたんですが。

でもそれはどうやら違って、ぼくはべつに「自走する種類の人間」でもなければ、もちろん「自走しない種類の人間」でもなくて、実際には、「自走することもしないこともある人間」であって、ただ、その選び取った対象によって、自走することもあればしないこともある、という事だったんじゃないかな・・と思ったんですよね。

これをまた具体的に言い換えると、ぼくの場合は対象がプログラミングやハングルであれば自走することができて、でも英語や簿記だったら、なんというか、どんどん後回しにして、自走できない人になる、さらに別の表現にするなら、ぼくを自走する人間にしてくれる対象もあれば(プログラミングやハングル)、自走しない人間にする対象もある(英語とか簿記)ということなのかな〜・・と。

それで、そこからまた少し飛躍っぽく連想するんですが。ええと、人間性とかもそういう感じなのかなと。この現実世界には「良い人」と「悪い人」が別個にそれぞれ生息しているんじゃなくて、「良い面も悪い面もどっちも持ってる人」がいるだけで、ただその人が付き合う相手、一緒にいる相手、あるいは身を置く環境とか、取り組む対象とかによって、良い人間にも悪い人間にもなる、ということなのかなと。

これも同様に言い換えるなら、たとえばぼくだったら、ぼくという人は良い人でも悪い人でもなく(あるいはその両方であり)、しかし世の中にはぼくを良い人間にする誰か(あるいはそれに類する何か)と、ぼくを悪い人間にする誰か(またはそれに類する何か)がいる、ということなのかな・・と。

最後に話をブンと戻して、ハングルのことですが、冒頭で「長期的に楽しめれば」と書いたように、基本的には確かに、これを「勉強」と言ったりもするんですが、でもぼくにとってプログラミングがべつに勉強ではないように、ハングルも実際は勉強ではないというか、いや勉強ではないと思った方が自然に、面白くできるなと思っているところです。

先日、ハングル検定というのに、超めちゃ忙しい状況下で普通なら行かないだろそれは、という中で行ってきたんですが*3、それはまあ、一応検定ということもあり、勉強という感じで多少準備はしていったんですけど、でもその準備的な勉強をしながら、「ああ、これ検定に受かることを目的にやっていたら、めっちゃつまんなかっただろうな〜!」と思いながら、自分なりにバランスをとって、面白く感じられる範囲で準備して臨んだんですけど、合格基準点60点に対して50点までいきなり迫れたので、あらためて「向いてるな」と思ったりしましたね。で、その時につくづく意識していたのは、その面白みっていうのもそうですが、とにかく「遊び」として頑張るということでした。遊びじゃなかったらやっちゃ駄目ぐらい。いや、駄目ってことはないか・・極端だった。とにかく、楽しいからやる、というのでないと、むしろ向上しないな、という意味です。

プログラミングもそうで、遊びだったし、誰かにやれと言われたわけではないからこそ続けられたと思っていて、まあ基本情報技術者試験とか頑張りましたし、それはめっちゃ勉強って感じもありましたが、たぶんそれって当時フリーランスで「さすがに何か資格ないと不安か・・」と思って、というのとも繋がってるんですけど、だけどやっぱり一方では「非エンジニアで基本情報持ってたらぜったいウケるだろ」とか「ましてや応用持ってたらもっとウケるだろ!」と思ってたからできたというか、そういう風に自分を外から見て面白がってるやつがいなかったらそもそもやってなかったし、その勉強も続けられなかったので、やっぱり遊びというか、ウケるから受けるみたいな*4感じが大きかったように思われ、だからそういう大らかさというか、風通しの良さというか、自由な雰囲気というか、それがここで言おうとしている遊びということで、そういうのこそが少なくともぼくにとっては、自分に向いてる何かを向上させるために必要な要素、生き物に必要な水みたいな、そういうものなんじゃないかな・・と思ったりしているところです。

*1:よくよく考えると、会社近くの教室なのに会社に行かない連休中に通うっていろいろおかしいのだけどそのぐらいやる気が高まっていたということ。

*2:この言い回し久しぶり。

*3:一番易しい5級です。

*4:言ってしまった・・駄洒落をとめられない年頃に入ってしまったかも。