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失敗という御馳走を食べずに捨ててきた

先日、会社の社長がTwitterでRTしていたので知った以下の記事。

simplearchitect.hatenablog.com

すさまじく、すさまじかった。すごい記事。去年も含めてベスト記事。

以前にこのような感覚を覚えたのは以下の記事で、

gihyo.jp

たしか2015年の年末にこれを読んで、今年読んだすべての記事の中でベストだ、と感じたのを思い出したぐらいだから、3年以上ぶりぐらいのそういう、あれだった。

ストーリーについて詳しい解説はしないけれど、とにかく驚いたのは、そこで示される「日本人的な考え方」というもの。それはぼくそのものであり、ぼくをずっと覆い続けてきたものでもあった。

というか、それが普通で、常識で、それが世界、それが人生というものなんだと思っていたけど、そうではなかった、それはあくまで、いろんな価値観や考え方がある中のほんの一部に過ぎなかったんだ・・と相対化されてしまった、そのことに驚いた。

ああ、なんということだ。ぼくはずっと、失敗を恐れ続けてきた。いや、というより、失敗の存在をそもそも見ないように、感じないように、知り得ないように、してきたのだった。そんなものはない、目に入らない、自分の世界にはないものなのだ、と・・。

失敗とは悪いものだと思ってきた。いやそうは言っても、ぼく自身は今まで、リスクをそれなりに取ってきたじゃないか、と言い張る自分もまたぼくの中にはあるけれど、全然そんなことはない、ずっと避けてきた、ずっとやっぱり、失敗なんて無きものなんだと、思おうとしてきたのだと、その記事を読んで初めて(たぶん初めて)わかった。

失敗は、本当は必要なものだった。人生にとって、楽しい人生にとって、豊かで、かけがえのない人生を得るために、絶対に必要なものだったんだと、その記事を読んで初めて思った。知らなかった。ああ、なんてことだ。ぼくはそれを知らなかった。目の前にある、膨大な量の、大変な重さのそれらを、それと知らずに、そんなに大事で貴重なものだとは知らずに、全部捨ててきた。見もしなかった、触りもしなかった、ましてや、絶対に口に入れたりはしなかった。それはかけがえのない、人生を豊かにしてくれる御馳走だったのに。

失敗をしなければ、成功もなかった。それを知らなかった。失敗とは劇場の入り口のモギリのようなものだった。モギリにチケットを切ってもらわなければ、劇場には入れなかったのに、モギリが嫌だからって劇場に入ることを拒んでいた、その中で行われているものを見もしない、聞きもしない、いやそもそもその中で行われていることを知ろうともしなかった。馬鹿なことをした。その向こうに人生があったのに、それをまったく、知りもしなかった。

ぼくは自分がリスクを取っていると思っていた。果敢に失敗を取りに行っていると思っていた。でもそんなことはなかった。ぼくが自ら向かっていった失敗はほんのわずかなものに過ぎなくて、実際にはその何十倍、何百倍もの失敗を事前に恐れ、避けてきた。ああ、馬鹿なことをした。

目の前には、皿に盛られた大量の御馳走があった。それはエネルギーの源で、それは食べ物で、ぼくはそれを食べなければ「生きる」ことができなかったのに、食べなかった、食べずに、全部そのままゴミ箱に捨てていた。

馬鹿なことをした。貴重な人生を捨ててきた。人生は失敗の向こうにあった。にもかかわらず、ぼくは向こうに行かなかった。失敗が怖かったからだ。人生は失敗とともにあったし、楽しさも面白さも豊かさも幸福も全部失敗とともにあったのに、失敗が嫌だからってそれらを全部捨ててきた。ああ、なんてことだ。馬鹿なことをした。ああ、どうしてそんなことを、でも、それに気がつくことができた。その記事はとんでもなく大切な話だった、それを読むことができた、長い記事だったが、途中で読むのをやめなくてよかった、43から44になろうとしている今、それに気づくことができた。人生はまだ終わっておらず、終わる前に気づくことができた、間に合った、もう間に合わないと思ったときにはまだ間に合っているのだと思っていたが、それだった、まだ間に合った、まだ失敗できる。多くの御馳走を捨ててきたが、まだ目の前にはそれが残っている。あと何年生きられるかはわからないが、ぼくの前にはまだそれが残っていて、それを食べることができる、今までそれが食べられるものだなんて知らなかった、だから捨ててきた、でもようやく今までずっと何も食べずにいた人生から、好きなだけそれを食べられる人生になる。

失敗は人生そのもので、いわゆる成功も幸福も、楽しみも喜びも何もかも、それと一緒にあった、それを知らなかったが、それをもう知った。もっと失敗しなきゃいけない。それは入り口にすぎない、失敗とともにその向こうに行ければ、その向こうにあるものにようやく触れられるだろう。