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傷ついたことに気づいたら

心が傷ついたとき、自分が傷ついたことに気づくのは、その原因になったことが起きた瞬間ではなく、それからしばらく経ってから、その影響が表れはじめてからではないか、とふと思った。

誰かにひどいことを言われて、その瞬間というのは、それを「受け止める」というアクションをすることに精一杯で、「何を言われたか」をまだ吟味できていない。たとえるならば、何か熱いものを突然投げつけられて、「熱い!」とは思うものの、何が熱いのかはわかっていないという感じ。

やがて時間が経って、その熱さ自体よりも、自分が何を投げつけられたのかを知るにつれ、なぜ自分がこんなことをされなければならないのか、と思ったときには、もうそれを問える当の相手は目の前にいない。心はその熱いものを受け止めたときに傷ついていたとも言えるが、実際には、傷ついていたことに気づいたときこそが、本当の意味で傷ついた瞬間であるようにも思えてくる。

ああ、傷ついた!許せない!ぜったいに許さない!ああ!私は傷ついた!・・と、泣いて叫ぶことにも意味はあるだろうし、それはそれでやってもいいかもしれないが、その末に相手を同様に傷つけることができれば、それで本当に溜飲が下がるのかといったら、貴重な自分の人生を、そういう人と交じり合うことに使ってもいいのかどうか、わからないといえばそれもわからない。

最近時々思うことだけど、というか以前にもここに書いたような気がしなくもないが、目の前に野球のボールが飛んできて、おでこにぶつかるその瞬間のボールの大きさは、たぶん月よりも太陽よりも大きい。目の前にあるものは何よりも大きく見える。

しかし、ふと自分を数メートルとか数十メートル上空から俯瞰して、自分とボールとを見比べたら、ボールはあまりにも小さく、ただ自分の顔にすごく近づいて存在しているだけなのだとわかるだろう。

目の前にあるものは大きく見える。しかし本当の大きさは離れてみなければわからない。

心が傷ついたことに気づいたら、ぐっと身をそらせて、遠く上空に飛び上がり、自分を広く俯瞰して、それは本当に傷つくに値することなのか、それの本当の大きさはどのぐらいなのか、果たして気にとめるべき、耳を傾けるべきことなのか、考えてみるというのはありなのかもしれない。

Twitterなどを見ていると、若く才能あふれる人が、それまでに投げつけられたことがないような心ない言葉を受けて、もう活動をやめようかというぐらい傷ついているのを見ることがあるが、安全な場所から、誰でもよい誰かに向けて投げ散らかされた小さなゴミが、そのような才能の輝きを消してしまうほどの意義を持つのかといえば、まったく見合わない。このようなことを思うのは、ぼくがその人自身ではない他人で、初めから俯瞰的にその状況を見ることができているからで、逆に言えばそのような立場に自ら立つこと、自覚を持って、客観的になることが、役に立つのではないかと思っている。

芸術と哲学に救われた

ここで言う芸術とは、本当は「詩」と言った方が近いのだけど、詩というとあのカフェなどで読み上げるものを想像してしまいそうで、かといってポエムと呼ばれるようなうっとりしたものを想定しているのでもなく、ここで言う詩とは、たとえばある種の映画の中だけに存在する「時間そのもの」のようなそれであって、それは時間が存在しないという事をも包含する時間という概念自体のことだけど、その辺りも含めて「詩」という言葉で伝えられるとはあまり考えられないから、何となくそれにざっくり近いと思われる「芸術」と言っている。

哲学というのもまた、学校の授業や本で読むようなそれを指しているわけではなく、また100分de名著で取り上げられるような哲学者たちの姿を必ずしも想像しているわけではなく、これもまた時間そのものであるような、考えるということ以外のすべてを置き去りにして、過去に考えられた幾多の思考をまた踏み台にもしながら、どこまでも考え続けるような行為のことを指している。

これらのことをやっていると、周りとの比較や、自分の社会的な属性といったものがどんどん薄くなり、遠くなり、何か人生にとって最も大事なことであるような、人間でなければできないようなある種の感覚を抱けるような気になってくる。

昔読んだ中島らもの本で、たぶんそれをぼくは予備校の頃か大学の1年生ぐらいの時に読んだのだけど、その中で書かれていた「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉があって(何かの引用だったか)、初めは格好つけただけの、何か意味ありげなだけの文言だと読み流していたが、どうにも引っかかりが残り、時々思い返していたら、ようはそこで言う歴史性とは順序がはっきりした何か、勝ち負けが明快な何かであって、それに垂直に位置するものとは、その順番や力関係にまったく影響されずに生じる何かのことだろうと思われるようになり、またそこで言う歴史性とは、上述の「周りとの比較や、自分の社会的な属性といったもの」にあたるもので、そしてそこで言う「詩」こそが、だから上で言う詩とか芸術とか哲学にあたるものなのではないかと思うようになった。

今にして思えば、十代の頃のぼくの身のまわりには、至るところに「詩」があった。当時は時間の余裕がなくて、気持ちの自由もなくて、その価値を味わうことなんてほとんどできなかったが、確かにあったそれを少しでも覚えていれば、今の感性とともに思い返すことはできる。

大学の前半頃にはずいぶんと鬱屈した感じがあり、近所の書店でふとタイトルにひかれて買った、竹田青嗣さんの文庫本『自分を知るための哲学入門』を繰り返し読みながら、哲学というものは、面倒ではあるが難しくはない、人生において非常に役立つものなのではないかと思うようになった。

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

ぼくにとって哲学は学問ではなく、また誰かを攻撃するための武器でもなく、それは物を考えたり、自分とは異なる何かと対峙したりする時のための道具であり、乗り物のようなものとしてある。直接的には誰の影響だったか、もういろいろ溶けて明確ではないが、西研さんの『大人のための哲学授業』とか、西條剛央さんと池田清彦さんの共著『科学の剣 哲学の魔法』とかを読むうちに、「誰が考えてもここまでは同意できるよね」というところを探していくという、作業としてはすこぶる面倒くさいものの、「使える」度合いとしてはかなり高い、考え方というか、物の見方というか、技術を身につけられたと思っている。

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

これらの芸術と哲学の雰囲気を知っていたことにより、どれだけ人生があてどなく、捉えどころのない不安に包まれていたとしても、「なんとかなりそう」とか「一番大事なところは押さえてある」みたいな感覚がどこかにあり、その楽観性というか、開放感みたいなものが、おもに自由業の頃の仕事を呼び込んだり、助けてくれていた気がする。

とくには坂本さんや浅田彰さんといった、学生の頃から魅了されていた人たちと仕事をするに至り、普通に考えればぼくは上記の「歴史性」の方にたやすく絡め取られ、違和を感じても目先の円滑なコミュニケーションを優先して、当のプロジェクトやそれを手に取るお客さんをないがしろにしてしまっていたかもしれないけれど、ぼくの足下には広大な世界地図というか、宇宙飛行士が眺める地球のような光景が広がっていて、それを共有する優れた専門家の人々と、遠い未来にあるべきものを視野に入れながら、忌憚なく意見を交わして必要な役割を果たすことができたと思っている。

とはいえ40才を過ぎ、その楽観性や開放感だけで生きていくというのもさすがに不安というか、このままではまずいなと思う中で今の会社に入ることになり、これもひとつの幸運だったが、しかし単に運が良かったというだけの話ではなく、この会社を選んだその背景には、上記の感覚が大きく作用していて、つまりその「一番大事なところ」を押さえている会社でなければ自分の価値はわからないだろうと思ったし、実際そういう場所でなければなんの貢献もできないだろうと考えていたから、そのような会社であるという前提で応募したのであり、入ってみれば事前に思ったとおりというか、むしろそれ以上に自分が大切にしてきたそれを生かしながら働くことができていて、つまりフリーランスの頃から今に至るまで、ぼくは芸術と哲学に救われている。

傷心というゴミをどこに捨てるか

他人から心ないことを言われたり、相手にそんなつもりがなくても自分が大切にしているものを傷つけられたり、誰かのミスのせいで不本意な状況に立たされてしまったり、ということがあるたびに、いわゆるストレスというのか、心の中に、何かそれまでには存在しなかったはずの「邪魔なもの」が生まれて、それを胸の内から体の外に、どこかに放り出したい気持ちになる。

心の中に生まれたそれは、一般に「不快」とも言われるそれで、無くてもいいというか、無い方が良いという意味でぼくに言わせれば「ゴミ」でしかなく、しかし現実世界のゴミならばゴミ捨て場という「捨ててもよい場所」があるけれど、胸の内に生じた不快を「捨ててもよい場所」とはどこだろうか。

最も手っ取り早い方法としては、自分にそれを生じさせた誰かに突き返す、ということで、たとえば誰かに殴られたらそいつを殴り返すとか、自分を不快にした誰かを怒鳴りつけるとか、足を引っ張られたら引っ張り返すとか、そのような方法だろう。

このような方法をとれば、たしかに自分のそばからゴミはなくなり、それは同時に自分にゴミを押し付けた人間にゴミを突き返すことにもなり、そうなればそれは単に「返す」というだけのことでなく、「もうこんなものを俺のところに持ってくるなよ」という警告、メッセージとして相手に伝わり、同じことが再現される可能性を低くする効果があるかのように思えるかもしれない。

しかし、そうやってゴミを突き返された側からすれば、それが元々自分が生じさせたものだとわかる場合ばかりではなく、むしろ「俺はこいつからゴミを投げつけられた、それが今俺の手元にある」ということしか感じられず、また新たに、場合によってはそのゴミの総量を増やした上で、自分にゴミを投げつけてきた相手に投げ返すという帰結も大いに考えられる。

そのようにして、初めはゴルフボール程度だったゴミが、何度もラリーを繰り返すうちにソフトボール、バレーボール、やがて体を弾き飛ばすほどの巨大なゴミとなり、お互いを潰し合ってしまうかもしれない。

だから、いかにそれが手っ取り早い方法だとしても、自分にそれを生じさせた相手にゴミを突き返す、という方法は取らないに越したことはないと思う。

ゴミを突き返すことによって、「この俺に二度とこんなものを投げつけるなよ」というメッセージになる、ということにはたしかに一理あるけれど、そのメッセージはべつにゴミを突き返さなければ、つまり相手に負の感情を与えなければ、伝えられないというものでもないだろう。負の感情とセットで伝えることには、むしろ上記のような副作用の方が大きいように思える。

かといって、胸に抱えたゴミをいつまでも一人で抱え続けることにもまた大きな問題がある。それはたしかに、なるべく早く放出してしまった方がよいものだと思える。なぜなら、人は体の内に残ったそれを、知らず知らずのうちに、自分の心を少しでも軽くするために、身に触れる誰かに、ほんの少しずつではあっても、やはり投げつけ続けることになってしまうからだ。ストレスを抱え続ける人は、そのストレスを軽くするために、出会う他人に少しずつ自分のストレスを分け与え続けてしまう。そんな風に感じる。

では心に生じたそのゴミを、人はどのように、どこへ捨てたらよいのだろうか。ほかの誰かに押し付けることなく、他人を傷つけることなく、どのように捨てていったらよいだろうか。そのための道具を、方法を持つことが必要だ。誰かを傷つける以外の方法で、あるいはそれを最小限にとどめながら、自分の中の傷を癒やす方法を、個人各人が、作り出し、持たなければいけない。

たとえば、ゲームをするとか、体を動かすとか、遠くへ移動して見たことがない景色を見るとか、眠るとか、文章を書くとか、そういった何かが、きっと傷心を抱えたすべての人には必要なのだ。

光と影で描くのはたやすい

美大予備校に通っていた頃、評判がいいというか、いつも反応が良かったのは人の顔を描いたときと、陰影がはっきりした絵を描いたときで、でも陰影のコントラストを強くして印象的な絵を描くなんてある意味では誰にでもできることで、難しいのは陰影を付けないのに形や雰囲気を表せることだなとも思っていた。

誰にでもわかりやすく、評価されやすく、目を引きやすいのは陰影、つまり黒と白をはっきりさせることで、またその間にあるグラデーションのコントロールを絶妙に付けられたらより劇的になって文句ナシ、みたいに評価を得やすいんだけど、そういうのはなんというか、誰にでもできる下品な表現という感じがしていた。

簡単な例で言うと、ピカソの子供の頃の油絵やデッサンを見るとめちゃ上手いんだけど、それは光と影の表現。暗いところを真っ黒にして、明るいところに視線が集まるようにしているだけという感じ。でもそれが青の時代とか白の時代とかになるにつれて、もう暗いところはただ黒で塗りつぶしたものではなく、そこを見るだけでもなんだか「はあ」と息をついてしまう感じになっていく、みたいな*1

そんなことをなぜ今頃言っているのかというと、そのわかりやすい陰影の表現のように、人の善悪みたいなものもあって、あの人はいい人、あの人は悪い人、みたいにはっきりしていると、それに対してどう反応したらいいのかもわかりやすいし、ある意味で安心してそれを見られるというところがあるように思えるのだけど、実際の人間はそんなにはっきりしているものではなくて、いいところもあれば悪いところもあるものだから、本当にそれを描こうと思うならばやっぱり陰影とは結びつかない色で形を浮かび上がらせるようなことをしなければならないんじゃないか、みたいなことを思ったということ。

*1:しかしこのピカソの喩えも何十年もアップデートされていないので再考の余地がありそうだけど。

対象によって自分が変わる/遊びとしての勉強

最近、ハングルにハマっています。韓国語の勉強ですね。4月の半ばぐらいにEテレハングル講座を見て、あ、これできそうだな。と思って本を買ったり良い学校がないか調べたりし始めて、そしたら会社近くに老舗のハングル教室があることがわかって(会社と会社最寄駅の間にあった)、5月頭から(というか連休中から)そこに通い始めました*1。5月後半からけっこう忙しくてまだ5回ぐらいしか受講していないですが、長期的に楽しめればと思っています。

ハングルの勉強は水を飲むようにスイスイ自然にできています。これ、向いてるってことだなと感じます。プログラミングに近い。文章もそうかな・・つまり、大変な思いをしてそれをやっても、とくに苦しくないんですね。「大変だけど苦しくない」というのはある種の真理というか、なにかを成し遂げるには必ず通過しなければならないチェックポイントみたいな、そういう印象があります。

ハングルの勉強をしていると、時々、かつて取り組んでいた英語や簿記の勉強法についてまとめた本に書かれていたようなことを、自分から進んで、誰にその方法をやれと言われたわけでもなく、自然に作り出しては実行していることに気づきます。それで後から、「ああ、これ英語とか簿記のハウツー本に載ってた方法じゃん」と思うわけです。

いや、それって結局、その英語とかの本でかつて読んでた内容をただ思い出して実践してるだけじゃないの?という気もするんですが、いえ、自分の中の必要に迫られて自然に選択した方法がそれだった、ということが大事なんですね。それで思ったんですが、結局その英語とか簿記とかの本を書いた人たちというのも、今のぼくにとってのハングルみたいに、その人なりに自然に、必然的に選び取った効果的な学習法がそれだった、ということなんじゃないかな〜、と思っています。

言い換えると、それって要するにその本を書いた人たちが英語や簿記に「向いてた」ってだけで、その方法が誰にとっても効果的な英語や簿記の勉強法ってわけじゃない、ということじゃないの?って、そんなふうにこのハングルの勉強をしながら初めて思ったんですね。

勉強法の本、もちろん万人に効果があるなんて書いてあるものは今どき少ないかもしれないですが、でもこの、「勉強法の本を書いている人は勉強の対象がたまたまその人に向いていたからその方法がハマったってだけなんじゃないの」という視点は、今までのぼくにはなくて、今はある、ということです。逆に言うと*2、それに向いてない人がその方法を試したところで再現できないというか。ここ、けっこう大事なんじゃないかな・・と。

少し話が変わりつつ、でも繋がっている話なんですが、そのぼくにとってのハングルって、なんで自分に向いてると思うかっていうと、なんか気がつくとやってる、「言われなくてもやってる」からなんですよね。そういう風になってることに気づいて、「あ、向いてるな」と思ったというか。言われなくてもやってる、「ほっといても勝手にやる」という状態。これができるなら、その人はそれに向いてる。そう言えるんじゃないかな、と。

で、ぼくはよくプログラミング関連のことを何か言ったり書いたりしているときに、自分が「自走するプログラミング入門者」である、みたいなことを言ってたんですけど。で、それは確かにそうだろうと今でも思うんですが、それでも最近ちょっと認識が変わったのは、ぼくはそのようなことを言いながら、自分が「自走する種類の人間」なのであって、何をやらせても基本的に自分からどんどんやっていける人であって、そのような人であるところの自分が、いろんな選択肢の中からプログラミングを選んだのであって、だから仮に他の選択肢を選んでいたとしてもそのように出来るんだけど、今はプログラミングを選んだからプログラミング学習を自走しながらどんどんやってくることができた・・みたいに思っていたんですが。

でもそれはどうやら違って、ぼくはべつに「自走する種類の人間」でもなければ、もちろん「自走しない種類の人間」でもなくて、実際には、「自走することもしないこともある人間」であって、ただ、その選び取った対象によって、自走することもあればしないこともある、という事だったんじゃないかな・・と思ったんですよね。

これをまた具体的に言い換えると、ぼくの場合は対象がプログラミングやハングルであれば自走することができて、でも英語や簿記だったら、なんというか、どんどん後回しにして、自走できない人になる、さらに別の表現にするなら、ぼくを自走する人間にしてくれる対象もあれば(プログラミングやハングル)、自走しない人間にする対象もある(英語とか簿記)ということなのかな〜・・と。

それで、そこからまた少し飛躍っぽく連想するんですが。ええと、人間性とかもそういう感じなのかなと。この現実世界には「良い人」と「悪い人」が別個にそれぞれ生息しているんじゃなくて、「良い面も悪い面もどっちも持ってる人」がいるだけで、ただその人が付き合う相手、一緒にいる相手、あるいは身を置く環境とか、取り組む対象とかによって、良い人間にも悪い人間にもなる、ということなのかなと。

これも同様に言い換えるなら、たとえばぼくだったら、ぼくという人は良い人でも悪い人でもなく(あるいはその両方であり)、しかし世の中にはぼくを良い人間にする誰か(あるいはそれに類する何か)と、ぼくを悪い人間にする誰か(またはそれに類する何か)がいる、ということなのかな・・と。

最後に話をブンと戻して、ハングルのことですが、冒頭で「長期的に楽しめれば」と書いたように、基本的には確かに、これを「勉強」と言ったりもするんですが、でもぼくにとってプログラミングがべつに勉強ではないように、ハングルも実際は勉強ではないというか、いや勉強ではないと思った方が自然に、面白くできるなと思っているところです。

先日、ハングル検定というのに、超めちゃ忙しい状況下で普通なら行かないだろそれは、という中で行ってきたんですが*3、それはまあ、一応検定ということもあり、勉強という感じで多少準備はしていったんですけど、でもその準備的な勉強をしながら、「ああ、これ検定に受かることを目的にやっていたら、めっちゃつまんなかっただろうな〜!」と思いながら、自分なりにバランスをとって、面白く感じられる範囲で準備して臨んだんですけど、合格基準点60点に対して50点までいきなり迫れたので、あらためて「向いてるな」と思ったりしましたね。で、その時につくづく意識していたのは、その面白みっていうのもそうですが、とにかく「遊び」として頑張るということでした。遊びじゃなかったらやっちゃ駄目ぐらい。いや、駄目ってことはないか・・極端だった。とにかく、楽しいからやる、というのでないと、むしろ向上しないな、という意味です。

プログラミングもそうで、遊びだったし、誰かにやれと言われたわけではないからこそ続けられたと思っていて、まあ基本情報技術者試験とか頑張りましたし、それはめっちゃ勉強って感じもありましたが、たぶんそれって当時フリーランスで「さすがに何か資格ないと不安か・・」と思って、というのとも繋がってるんですけど、だけどやっぱり一方では「非エンジニアで基本情報持ってたらぜったいウケるだろ」とか「ましてや応用持ってたらもっとウケるだろ!」と思ってたからできたというか、そういう風に自分を外から見て面白がってるやつがいなかったらそもそもやってなかったし、その勉強も続けられなかったので、やっぱり遊びというか、ウケるから受けるみたいな*4感じが大きかったように思われ、だからそういう大らかさというか、風通しの良さというか、自由な雰囲気というか、それがここで言おうとしている遊びということで、そういうのこそが少なくともぼくにとっては、自分に向いてる何かを向上させるために必要な要素、生き物に必要な水みたいな、そういうものなんじゃないかな・・と思ったりしているところです。

*1:よくよく考えると、会社近くの教室なのに会社に行かない連休中に通うっていろいろおかしいのだけどそのぐらいやる気が高まっていたということ。

*2:この言い回し久しぶり。

*3:一番易しい5級です。

*4:言ってしまった・・駄洒落をとめられない年頃に入ってしまったかも。