103

横断歩道にはたらく力

ひと気のない道を歩いていたら、横断歩道の赤信号につかまった。

右を見ても左を見ても、車がやってくる気配はない。

そのようなとき、普段ならサラサラっと渡ってしまうところだが、その日は渡ることができなかった。

体が金縛りにあったように、あるいは横断歩道に斥力がはたらいているかのように、足を踏み出すことができない。

通りの向こうに人が一人、信号が変わるのを待っていたからだ。

その人はこれまでに会ったこともなければ、おそらく今後も二度と会わないであろう人だった。
ようするに、赤の他人。

だから本来、その人がいるからといって渡れない、なんていうのはおかしなことのように思えるのだけど、やはり実際のところ、「その人に見られているから渡れない」。

いや厳密には、その人が見ているのはぼくではなくて、ぼくの頭上にある歩行者用信号であるはずだ。
少なくとも、その人がぼくに「渡るな」と言っているわけではないし、そう思ってもいないだろう。

にもかかわらず、なぜぼくは信号を渡れないのか。

不思議な力がはたらいている、とそのときに感じる。
この横断歩道には、何か目に見えない力がはたらいている。

あるいはそこには、何かが降りている。天使のような、精霊のような何かが……。それがぼくらに対して(もはや対岸のその人をも巻き込んで)、赤信号を渡らせないようにしているのだ。

いやそんな、オカルトチックなことを言うのはやめよう。
そうではなく、もっと現実的な、具体的で、事実にもとづいたことを言いたいのだ。

なぜ渡れないのか? ともう一度考えたい。

もしもぼくが赤信号を無視して渡ったら、対岸のその人は、ぼくに対して悪感情を抱き、場合によっては暴力を振るってくるかもしれない、という妄想をぼくはうっすら持っている。

もちろん実際には、そんなことをする人はいないだろう。
しかし、そういうことが起きてもおかしくない、と想像してしまう。

その想像を誘発するものは何か?

そのヒントは、以前にこのブログで書いた以下の記事にあるように思える。

note103.hatenablog.com

人はなぜ怒りを感じるのか? という疑問に対し、アンガーマネジメントの専門家はこのように言っている。

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

おそらくぼくが想像してしまうのは、このような理由によって、「信号を無視するやつに怒りを感じる」ような人なのだ。

しかし果たして、「信号を守るべき」(車が来ないとわかりきっていても尚)という価値観を深く信じる人というのは本当にいるのだろうか?

まあ、いるだろう。

では、なぜいるのだろうか? あるいはなぜ、いると思えるのだろうか?

それは、そう教えられるからだ。少なくともぼくが子供の頃にはそう教わったし、今も多くの子供がそう教わっているだろう。

実際、子供は近づいてくる車の速度と、自分が横断歩道を渡りきるまでの時間とを正しく比較することができないだろう。(これは高齢者も同様かもしれないが)

そうであるなら、子供はやはり一律に信号を守るべきだ。

しかし同時に、その後の成長していく間に「まあ、あれは子供のときの話だ。大人になるにつれて、その辺のことは自分で判断するようにすればいいんだ」なんて、わざわざ教えてくれる人がいるとはかぎらない。
子供の頃に教えられたことを、ずっと信じて疑わない人もいるかもしれない。

その人はきっと、「信号を守るべき」という自分の価値観を目の前で否定されたら、怒りを感じるだろう。そう思わずにいられない。

さらに言えば、現実はもっと複雑でもある。

たとえばぼくは、信号をつねに守るべきだとは思っていない。ケースバイケースだと思っている。
しかし、対岸の人は、狂信的な「赤信号待機主義者」かもしれない。となれば、待っているのが得策である。

一方、じつは対岸の人も同じことを考えている可能性がある。その人もべつに信号をつねに守るべきだとは思っていない。ケースバイケースだと思っている。
しかし、その人はぼくのことをまったく知らないし、たぶん今後も二度と会わないぐらい無縁の人だから、ぼくのことを「狂信的な赤信号待機主義者かもしれない」と思っているかもしれない。

もしそうだったら、ぼくらはどちらもその信号を守るべきだとは思っていないのに、お互いの気持ちを忖度することで貴重な時間をつぶしてしまっていることになる。

不幸だ。

ちなみに、対岸にいるのがもし子供だったら、ぼくは進んで待つだろう。子供に示してやるのだ、「赤信号ではけっして横断歩道を渡ってはいけない」と。

そうしてその子もまた、狂信的な赤信号待機主義者になっていくのだ。

客観的な視点を共有する

A地区に住む人々は地区の外へ一歩でも出たら体が溶けてしまう。

あるとき、A地区の住民とB地区の住民が一緒にハイキングをすることになり、目的地であるA地区の丘まで皆で歩いていたら、A地区の住民であるXが急に腹を押さえて、トイレに行きたいと言い出した。

幸い、そこから数十メートル離れたところにコンビニがあり、それを見つけたB地区民のYが「コンビニがあるから、あそこに行こう」とXの手を引いて連れていこうとしたら、A地区民のZがそれを止めて、「行ってはいけないんだ。あそこはC地区だから」と言った。

Zはそこから数百メートル離れたA地区内の公園にトイレがあることを知っていたから、そこへ行けばいいとXを送り出した。

YはA地区民の体の問題を知らないはずはなかったが、自分の提案が目の前で却下されたことに加え、以前に「A地区とC地区の住民は対立している」という噂を聞いたことがあったから、頭に血が上って「そんなくだらないことにこだわってる場合か!」と憤りを覚えた。

Zとしてはもちろん、トイレに行きたいぐらいのことでXの体が溶けたら困るからそれを阻止したわけだが、Yはそのことに思い至らないまま、Zを愚かな人間だと思っている。

これは極端な例だが、現実の世界にはこれのもっと微妙なバリエーションというのが無限に近く存在している。

そのような場合に必要なのは、客観的な視点を共有することだろう。

ZはYよりも客観的な視点を持っていたから、仲間の体が溶けることを止められたけど、Yに見えていたのは苦しそうなXと、目の前のコンビニだけだった。

Zが(あるいは状況を理解している他の誰かが)Yに助言してあげられればいいのかもしれないが、「全体を見る」とか「客観的な視点を得る」みたいなことを他人から教えてもらう、なんていうことがどれだけ可能なのかはわからない。

ある種の行為を完遂するためには、客観性を捨て、地べたを這い回るように集中的にそれをしなければならないこともあるが、それだけの集中力と労力をかけてやったことが無駄にならないかどうか、言い換えれば「正しい方向に向けて行われているかどうか」を知るには、やはり客観的な視点が必要になる。

それは高い場所にのぼって、町全体を見下ろしながら、町のどこに何があるのかを把握することに近い。
そのようなときに、仲間も同じ高さまで来てくれれば話をしやすくなる。

  • 一番近いトイレはあのコンビニにある。
  • でもあれは地区外だ。
  • じゃあ公園に行くのがいい。

みたいなことを、その見晴らしのよい場所から指をさしながら確認していけると効率がいい。

2017年11月の音楽

ここ数ヶ月、よく聴いた音楽を記録しておく。

まずはアウスゲイルのLeyndarmál。なんと読むのかはわからないが・・。

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最初に知ってからしばらく経つけど、時々むしょうに聴きたくなる。見事な曲。

それからChet Fakerの1998。

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ふざけた名前だけど曲はすごい。何度も聴いた。

なつかしい感じ。大学のとき、こういうのが好きだった。
途中から入ってくるBanksという女性ボーカルも良い感じ。

同じChet Fakerのこれもいい。ブラックストリートのNo diggity のカバー。

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それから何と言っても、Homeshake。
この夏から秋にかけて、一番の衝撃を受けた。

曲はどれもいいんだけど、最初にビデオクリップを見てひっくり返ったのがこれ。

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で、「へえ・・」と思ってそのままいろいろ見たらこれも良かった。

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これも大学生っぽい。よくよく考えると、ぼくの好きな音楽っていうのはだいたい大学のときの趣味で止まってる。

同じくHomeshakeのGive it to me。
とくに9〜10月頃はずっと彼らのアルバム及びその関連アーティストをひたすらSpotifyで聴いていた。

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それから、たしかその関連アーティストという流れで知ったと思うのだけど、現在一番リピートしてるアーティストと言ったらこれかも。SALES。

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Spotifyでこれが入ってるアルバムをずっと聴いてる。すごい。超すごい。何これ。

ライブセッションもある。けっこう長い。

youtu.be

上のChet Fakerでひとつ紹介し忘れていた。このビデオクリップも面白い。

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最後に、NAO という人のDYWMという曲。

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これもSpotifyで知ったのかな。引き込まれる。

いずれも個人的には「今」の音楽という感じ。単に演者が若いだけかもしれないけれど。
しかしまあ、それでいいのか、という気もする。新しい様式である必要はない。
新しい人が音楽を作ればそれは今の音楽になり、そのうちのいくつかが結果的に新しい音楽になる、というだけのことかもしれない。

Fresh Air

Fresh Air

  • アーティスト:Homeshake
  • Captured Tracks Rec.
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In the Shower

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  • アーティスト:Homeshake
  • Omnian Music Group
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1998

1998

  • Future Classic
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FOR ALL WE KNOW

FOR ALL WE KNOW

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In the Silence

In the Silence

  • アーティスト:Asgeir
  • Hostess Entertainmen
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話はどうしてズレるのか

前回の記事には、思いのほか反響があった。

note103.hatenablog.com

ここで言う「反響」とは、主にはてなブックマーク数とはてなスター数のことである。

これまでの記事でも、はてブが多くついたことは何度かあったが、今回のそれがいつもと少し違ったのは、第一にブックマークコメントに否定的・批判的なものが多かったことで、第二にはてなスターが普段よりずっと多かったということだ。
ようは、賛否両論ということか。

中でも印象深かったのは、どうも否定的な意見には、話の論点というか、前提というか、元々こちらが言おうとしていることに対して、じつはあまり関心がなさそうというか、簡単に言えば「ズレている」と思えるものが少なくないことだった。

別の言い方をすると、そこで起きている現象というのは、一見同じ対象について話しているようで、実際には別の何かを念頭に置きながら話している、といった状況である。

別々のことについて話しているのであれば、別々の意見が出てくるのはもっともなことである。

たとえばはてなブックマークというのは、特定の誰かが書いた記事を追いかけながらコメントするというより、ネットサーフィンのようにあちこち見回る中で自分の関心に近いものをブックマークし、興が乗ればコメントもする、みたいに使う人が多いだろう。

この際、元の記事を書いている側からすれば、自分の記事の方がメインというか、起点として存在していて、それに付いたコメントは派生的な、記事に従属する(記事がなければそもそも存在しない)ものだと考えるのが自然だろうが、コメントする側としては、まず自分の考え方や、自分なりの意見の示し方(スタイル)といったものの方が起点としてあって、その自分が取り上げるブログ記事などは、案外従属的な、交換可能な存在なのかもしれない。

仮にその「自分なりの考え方」の方が起点にあったとしても、読んだ記事に応じて、そこにある他者の視点というものを想像できるのであれば何も問題はないのだが、元々の自分の考えというものが揺るぎない(不変の)ものとしてあった場合、初めに「この記事はこんな内容だろう」と予感した内容と、実際に読み始めたときの印象との間に多少のズレを感じても、とくに気にせず読み続け、そのまま読み終え、さらにはその先入観とともにコメントを付ける、といったこともあるかもしれない。

それは喩えてみるなら、バナナジュースを好きな人が、黄色く着色されたリンゴジュースを見て、「お、バナナジュースだ」と思って飲み干した後、「なんか思ってた味と違うな」とは思っても、それがバナナジュースであること自体は疑わないようなものである。

冒頭で述べた、ぼくが「ズレてるな」と思ったコメントというのは、その「当初の先入観に変更を加えないまま読み終える人」によって付されたものではないか、と考えている。

とは言っても、これはそういう読み方をする人が悪いという話ではない。
はてブでコメントするなんていう行為は、誰も仕事としてやっているわけではなく、ようは趣味というか、遊びというか、暇つぶしに過ぎないのだから、他人を傷つける目的さえなければ、それはそれで良いと思う。

ただ、その読み方だと、筆者の意図を読み取ったり、記事の目的を共有したりすることは難しいかもしれないな、ということ。
それをするためには、読み手が記事の内容によって変化するかもしれないという、読者の可変性が求められると思う。

さてしかし、話のズレる経緯がそういうものだったとしても、そこから生じる問題というのはもう少し複雑で、たとえばちょっと困るのは、「お互いにズレていることに気づかない」場合である。

じつは前回の記事でも、ブログの方にひとつコメントがあって、それは微妙に(しかし確実に)本題からズレた関心に基づいた内容だったのだけど、その内容自体は興味を誘うものだったから、もしそのときにぼくがボーッとしていたら、あたかも「最初からその話をしていたかのように」返答していたかもしれないな、と思っている。

そういうことはよくあって、後から「あの話、最初の話とズレてたじゃん。なんでその時に気づかなかったんだろう」と思ったりするが、なぜそういうことが起きるのかと考えると、上記の例で言ったら、ぼくからすれば当然、ぼくの頭の中にある内容が「本題」なのだけど、コメントする人からすれば、その人の頭の中にある内容こそが「本題」というか、よもや自分が対象をズレて捉えているなどとは思ってもいない、ということが根本的な要因になっていると思える。

どちらも自分が正しく「本題(議論の対象)」を捉えていると思っているから、そこには必然的に「思い込み」同士の会話が生じるわけだけど、思い込む力が強い人の言いぶりを見ていると、「まあ、そうなのかな」という感じでつい引っ張られてしまう。

「筆者の意図からズレているのに筆者すらそっちに引っ張られてしまう」という状況は、それだけを聞くとまったく理に適っていないように思えるが、よくよく考えてみると、これはこれで避けがたいことのようにも思えてくる。

なぜなら、ぼくらは普段の生活において、いつも「他人」が「本当のこと」を言っているという前提で過ごしているからで、もちろんニュースなどを見れば、常に誰かが誰かを欺いているし、そこまで極端ではなくても、服屋では似合わない服を「似合う」と言って売りつけたりする日常もあるかもしれないが、それでも通常の対人関係においては、「相手は本当のことを言っている」という前提にしておいたほうがスムーズに過ごせる社会を生きている。

だからおそらく、「この人は自分を騙しているわけではない」と考えるクセが多くの人には身についていて、そこに真剣な面持ちでいろいろ意見を言われると、実際にはちょっとズレていたとしても、それ以上に真実味というか、信憑性というか、現実味のようなものが存在感を増してきて、元々の「本題」を、後から来たその「ちょっとズレた本題」の方が覆って上書きしてしまう、という感じになるのではないかと想像する。

まあ、中には、本心からそう思い込んでいるわけではなく、交渉術というか、現実歪曲空間のようなもので、意図的に話をズレさせてしまう人もいるかもしれないけど、そういう人はやはり例外的で、通常、そのように話がズレていることに気づかないまま議論を進めてしまうのは、

どちらも自分が正しく対象(本題)を捉えていると思っているから

ということになるのではないだろうか。

さて、それとは別に、そもそも「話がズレている」とはどういう状況なのか? という問題(というか個人的な関心)があるので、それについても書いておく。

ぼく自身はこれまで、「話がズレている」という状況は、たとえば論理演算を示す以下のベン図*1のように、お互いの話している対象が上下左右にズレて、重なったり重ならなかったりしているイメージを思い描いていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Relation1011.svg

しかしながら、前回の記事へのブックマークを見ながら頭に思い浮かべたのは、そういった「対象自体がズレている」状況ではなく、「対象は同一だが、焦点(ピント)がズレている」という状況だった。

ここでまたひとつ、その違いを示す喩え話を考えてみると、たとえばAさんがテレビで二階堂ふみを見て、「この人、宮崎あおいに似てるね」と言ったのに対して、Bさんが「いや、耳の形が全然違う」と言うような状況が近いかもしれない。

このとき、AさんもBさんも確かに二階堂ふみ宮崎あおいを見比べているのだが、フォーカスの当たっている部分というか、焦点の合っている場所というか、ズームの倍率がぜんぜん違う。

Aさんは顔の表情とか、骨格とか、見た目の第一印象とかについて論じているのだけど、Bさんが見ているのはそこではなくて、自分が関心を持っているディテールに集中して意見を述べている。

このときに重要なのは、Bさんの方もべつに誤ったことを言っているわけではない、ということである。
Aさんと同様にその二人の見た目について話しているし、述べられている情報にも間違いはないが(たぶん)、「そもそも何の話をしたいのか?」という目的や、「似ている」とはどういう意味か? といった定義や前提が異なっている。

これはあるいは、定規で引かれた直線をどんどん拡大していくと、線が力の加減で微妙に細くなったり太くなったりしているような場合に、それを遠目に見た人は「直線だ」と主張し、顕微鏡で見た人は「曲線だ」と主張するような違いにも近いかもしれない。

そのどちらも間違ったことは言っていないし、主張の対象も一致しているが、「だいたいどのあたりに焦点を絞って、どのぐらいの正確性にもとづいて話すのか」という精度の基準が異なっている。

このような行き違いが、上述の「自分こそが本題を扱っている」という主観とともに生じた場合、そのスレ違いはなかなか解消しづらいものになるのではないか、という気がしている。

さて、ここまでの話を踏まえて、ではどうすれば、そういったズレを避けながら話し合えるのかと考えてみると、結局のところ、それは「目的を共有する」ということに尽きるだろう。

逆に言えば、目的が共有されてさえいれば、意見が一致する必要すらないとも言える。
あなたの目的を達成するには、その方法は適していませんよ、その知識は間違っていますよ、こっちの方を知るべきですよ、みたいなリアクションは、意見の内容は異なっていても、意図や前提はズレておらず、同じ目的を達成するための考え合いになっている。

はてブでもTwitterでも、限られた文字数で言い切られた話(意見、エピソード、喩え話など)に対して、ほとんど喧嘩と言ってもいいような言い合いが行われていたりするけれど、どう見ても目的が一致していない、と思えることが少なくない。

一種のエクササイズとして、自らの気分を昂揚させるためにあえてやっているならそれも良いかもしれないが(いや良くないか)、そうでないなら、そもそも自分はどういう目的でそれをしているのか、と意識してみることが役に立つかもしれない、という気がする。

無償で仕事をしてはいけないという論理

優秀な人間が安い賃金で働くと相場が下がって周りの人が困る、みたいなことは以前からよく言われる。

「高い技術には高い報酬を要求しましょう」という意味だと考えれば真っ当な話ではあるし、技術力は高いが無知でもある人が損をしないようにと与える助言としては有効かもしれないが、それによく似た別の話なのではないか、と思った事例があったのでメモしておく。

比較的最近公開された以下の記事に対して、

cybozushiki.cybozu.co.jp

以下のようなブックマークコメントがついて、

f:id:note103:20171031094334p:plain

インタビューを受けた西尾さん自身や徳丸さんから以下のような回答もあったのだけど。

お二人の反論(というか)というのは、どちらも「いや、もらってますから」という内容なので、結局ブックマークコメントにあった「無償で仕事するな」という主張にはむしろ同意であって、その上で「誤読ですよ」と言ってるわけだけど、このやり取り(というか)を見て思ったのは、「んー、まあ、でも無償でやる人がいてもそれはその人の自由では?」ということだった。

そもそも、元の記事ではそのタイトルにもあるように、「相応の見返りがあれば、それがお金でなくても構わない」みたいなことを言っているのだから、回答するのであれば「今回のケースではたまたまお金出てるけど、自分が納得すればやっぱりもらいませんよ」でいいのではないだろうか。

しかし実際には「いや、お金出てますので・・(誤読ですよ)」みたいな反応になっていて、それだと結果的に記事の主旨(お金が出なくても自分に利益があればやる)とは反対の方に向かってしまうのでは、とも感じる。

まあ今回の場合、仮に西尾さんが金銭報酬を受け取っていなかったとしても、それで困る「他の方」がいるとはちょっと想像できないし、その意味で当のブックマークコメントというのは記事の作り手側とずいぶん前提がずれているようにも思えるので、本来であれば反応のしようがない話であるようにも思えるのだけど。
(前提がずれたまま反応するから変な回答になってしまう、ということ)

その上でもう少し続けると、冒頭にも書いたとおり、「優秀な人が安い賃金(または無報酬)で働くと相場が下がって周りが困る」というのはよく聞く話で、それが「搾取されている優秀な若者」に対するアドバイスとかなら意味はあると思えるが、「お前がそんなだとコッチが迷惑するんだよ」ということになると、ちょっと話がおかしくなってくる。

「周りが困るからそんなことをするな」と言ったところで世の中それを聞いてくれる人ばかりではないし、その頼みを聞いてくれない人が悪意を持っていようといまいと誰もその流れを止められない、ということもあるわけで。

かつて馬車を作っていた人たちは自動車が発明されて「そんなもの作られたらウチの商売が成り立たなくなるからやめてくれ」と思ったかもしれないけど、そんな願いが聞き届けられることはなかったし、ガラケーで商売していた人たちはdocomoまでもがiPhoneを売りはじめるとは思っていなかっただろうし、つまり「やめろ」と言ってやめてくれる人ばかりではなく、誰もが自分のことを一番に優先して生きている以上、それは自分にとっても相手にとっても息苦しい、出口のない要求という気もする。

どこかの誰かが、他のすべての人が困るとわかりきっているにもかかわらず自分の利益を最優先して「無償で良い仕事」をしはじめたとき、「悪いのは市場を荒らしたアイツであって自分ではない」と思いたくなるのは自然だし、そう言ってみるのも自由だが、それを聞いて誰かが助けてくれるとも限らない。

「君は本当はもっと多くの報酬をもらえるのに〈やりがい搾取〉されているよ」という忠告と、「俺が困るからお前はお前のやりたいようにやるな」という要求との間には、わかりづらいが確かな違いがあるのではないだろうか。