103

話はどうしてズレるのか

前回の記事には、思いのほか反響があった。

note103.hatenablog.com

ここで言う「反響」とは、主にはてなブックマーク数とはてなスター数のことである。

これまでの記事でも、はてブが多くついたことは何度かあったが、今回のそれがいつもと少し違ったのは、第一にブックマークコメントに否定的・批判的なものが多かったことで、第二にはてなスターが普段よりずっと多かったということだ。
ようは、賛否両論ということか。

中でも印象深かったのは、どうも否定的な意見には、話の論点というか、前提というか、元々こちらが言おうとしていることに対して、じつはあまり関心がなさそうというか、簡単に言えば「ズレている」と思えるものが少なくないことだった。

別の言い方をすると、そこで起きている現象というのは、一見同じ対象について話しているようで、実際には別の何かを念頭に置きながら話している、といった状況である。

別々のことについて話しているのであれば、別々の意見が出てくるのはもっともなことである。

たとえばはてなブックマークというのは、特定の誰かが書いた記事を追いかけながらコメントするというより、ネットサーフィンのようにあちこち見回る中で自分の関心に近いものをブックマークし、興が乗ればコメントもする、みたいに使う人が多いだろう。

この際、元の記事を書いている側からすれば、自分の記事の方がメインというか、起点として存在していて、それに付いたコメントは派生的な、記事に従属する(記事がなければそもそも存在しない)ものだと考えるのが自然だろうが、コメントする側としては、まず自分の考え方や、自分なりの意見の示し方(スタイル)といったものの方が起点としてあって、その自分が取り上げるブログ記事などは、案外従属的な、交換可能な存在なのかもしれない。

仮にその「自分なりの考え方」の方が起点にあったとしても、読んだ記事に応じて、そこにある他者の視点というものを想像できるのであれば何も問題はないのだが、元々の自分の考えというものが揺るぎない(不変の)ものとしてあった場合、初めに「この記事はこんな内容だろう」と予感した内容と、実際に読み始めたときの印象との間に多少のズレを感じても、とくに気にせず読み続け、そのまま読み終え、さらにはその先入観とともにコメントを付ける、といったこともあるかもしれない。

それは喩えてみるなら、バナナジュースを好きな人が、黄色く着色されたリンゴジュースを見て、「お、バナナジュースだ」と思って飲み干した後、「なんか思ってた味と違うな」とは思っても、それがバナナジュースであること自体は疑わないようなものである。

冒頭で述べた、ぼくが「ズレてるな」と思ったコメントというのは、その「当初の先入観に変更を加えないまま読み終える人」によって付されたものではないか、と考えている。

とは言っても、これはそういう読み方をする人が悪いという話ではない。
はてブでコメントするなんていう行為は、誰も仕事としてやっているわけではなく、ようは趣味というか、遊びというか、暇つぶしに過ぎないのだから、他人を傷つける目的さえなければ、それはそれで良いと思う。

ただ、その読み方だと、筆者の意図を読み取ったり、記事の目的を共有したりすることは難しいかもしれないな、ということ。
それをするためには、読み手が記事の内容によって変化するかもしれないという、読者の可変性が求められると思う。

さてしかし、話のズレる経緯がそういうものだったとしても、そこから生じる問題というのはもう少し複雑で、たとえばちょっと困るのは、「お互いにズレていることに気づかない」場合である。

じつは前回の記事でも、ブログの方にひとつコメントがあって、それは微妙に(しかし確実に)本題からズレた関心に基づいた内容だったのだけど、その内容自体は興味を誘うものだったから、もしそのときにぼくがボーッとしていたら、あたかも「最初からその話をしていたかのように」返答していたかもしれないな、と思っている。

そういうことはよくあって、後から「あの話、最初の話とズレてたじゃん。なんでその時に気づかなかったんだろう」と思ったりするが、なぜそういうことが起きるのかと考えると、上記の例で言ったら、ぼくからすれば当然、ぼくの頭の中にある内容が「本題」なのだけど、コメントする人からすれば、その人の頭の中にある内容こそが「本題」というか、よもや自分が対象をズレて捉えているなどとは思ってもいない、ということが根本的な要因になっていると思える。

どちらも自分が正しく「本題(議論の対象)」を捉えていると思っているから、そこには必然的に「思い込み」同士の会話が生じるわけだけど、思い込む力が強い人の言いぶりを見ていると、「まあ、そうなのかな」という感じでつい引っ張られてしまう。

「筆者の意図からズレているのに筆者すらそっちに引っ張られてしまう」という状況は、それだけを聞くとまったく理に適っていないように思えるが、よくよく考えてみると、これはこれで避けがたいことのようにも思えてくる。

なぜなら、ぼくらは普段の生活において、いつも「他人」が「本当のこと」を言っているという前提で過ごしているからで、もちろんニュースなどを見れば、常に誰かが誰かを欺いているし、そこまで極端ではなくても、服屋では似合わない服を「似合う」と言って売りつけたりする日常もあるかもしれないが、それでも通常の対人関係においては、「相手は本当のことを言っている」という前提にしておいたほうがスムーズに過ごせる社会を生きている。

だからおそらく、「この人は自分を騙しているわけではない」と考えるクセが多くの人には身についていて、そこに真剣な面持ちでいろいろ意見を言われると、実際にはちょっとズレていたとしても、それ以上に真実味というか、信憑性というか、現実味のようなものが存在感を増してきて、元々の「本題」を、後から来たその「ちょっとズレた本題」の方が覆って上書きしてしまう、という感じになるのではないかと想像する。

まあ、中には、本心からそう思い込んでいるわけではなく、交渉術というか、現実歪曲空間のようなもので、意図的に話をズレさせてしまう人もいるかもしれないけど、そういう人はやはり例外的で、通常、そのように話がズレていることに気づかないまま議論を進めてしまうのは、

どちらも自分が正しく対象(本題)を捉えていると思っているから

ということになるのではないだろうか。

さて、それとは別に、そもそも「話がズレている」とはどういう状況なのか? という問題(というか個人的な関心)があるので、それについても書いておく。

ぼく自身はこれまで、「話がズレている」という状況は、たとえば論理演算を示す以下のベン図*1のように、お互いの話している対象が上下左右にズレて、重なったり重ならなかったりしているイメージを思い描いていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Relation1011.svg

しかしながら、前回の記事へのブックマークを見ながら頭に思い浮かべたのは、そういった「対象自体がズレている」状況ではなく、「対象は同一だが、焦点(ピント)がズレている」という状況だった。

ここでまたひとつ、その違いを示す喩え話を考えてみると、たとえばAさんがテレビで二階堂ふみを見て、「この人、宮崎あおいに似てるね」と言ったのに対して、Bさんが「いや、耳の形が全然違う」と言うような状況が近いかもしれない。

このとき、AさんもBさんも確かに二階堂ふみ宮崎あおいを見比べているのだが、フォーカスの当たっている部分というか、焦点の合っている場所というか、ズームの倍率がぜんぜん違う。

Aさんは顔の表情とか、骨格とか、見た目の第一印象とかについて論じているのだけど、Bさんが見ているのはそこではなくて、自分が関心を持っているディテールに集中して意見を述べている。

このときに重要なのは、Bさんの方もべつに誤ったことを言っているわけではない、ということである。
Aさんと同様にその二人の見た目について話しているし、述べられている情報にも間違いはないが(たぶん)、「そもそも何の話をしたいのか?」という目的や、「似ている」とはどういう意味か? といった定義や前提が異なっている。

これはあるいは、定規で引かれた直線をどんどん拡大していくと、線が力の加減で微妙に細くなったり太くなったりしているような場合に、それを遠目に見た人は「直線だ」と主張し、顕微鏡で見た人は「曲線だ」と主張するような違いにも近いかもしれない。

そのどちらも間違ったことは言っていないし、主張の対象も一致しているが、「だいたいどのあたりに焦点を絞って、どのぐらいの正確性にもとづいて話すのか」という精度の基準が異なっている。

このような行き違いが、上述の「自分こそが本題を扱っている」という主観とともに生じた場合、そのスレ違いはなかなか解消しづらいものになるのではないか、という気がしている。

さて、ここまでの話を踏まえて、ではどうすれば、そういったズレを避けながら話し合えるのかと考えてみると、結局のところ、それは「目的を共有する」ということに尽きるだろう。

逆に言えば、目的が共有されてさえいれば、意見が一致する必要すらないとも言える。
あなたの目的を達成するには、その方法は適していませんよ、その知識は間違っていますよ、こっちの方を知るべきですよ、みたいなリアクションは、意見の内容は異なっていても、意図や前提はズレておらず、同じ目的を達成するための考え合いになっている。

はてブでもTwitterでも、限られた文字数で言い切られた話(意見、エピソード、喩え話など)に対して、ほとんど喧嘩と言ってもいいような言い合いが行われていたりするけれど、どう見ても目的が一致していない、と思えることが少なくない。

一種のエクササイズとして、自らの気分を昂揚させるためにあえてやっているならそれも良いかもしれないが(いや良くないか)、そうでないなら、そもそも自分はどういう目的でそれをしているのか、と意識してみることが役に立つかもしれない、という気がする。