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理想のチーム

特定の組織に所属するわけでもなく、フリーランスとして仕事をしていても、画家や小説家とも違うから、最初から最後まで自分一人でモノを作り上げるということはない。

仕事の現場には版元だったり、クライアントだったりという他者がいて、しかも多くの場合、その相手は複数人いるから、それは結局「チーム」ということになる。

様々なプロジェクトやチームに関わる中で、時々不思議に思うのは、一つひとつの作業はめちゃくちゃ早いのにチーム全体の生産性にはあまり貢献できてないような人がいたり、一人ひとりはさほど大したことをしているようには見えないのに終わってみればすごくスムーズに良いものができていたりすることで、このような違いの根本はどこにあるのかと考えると、それは結局メンバー全員が「言われなくても自分で考えてやる」かどうかという点にかかっているように思われる。

「この作業、お願いします」と渡すと、「ハイヨ!」とばかりに一瞬で仕上げて返してくれる、上記の前者のような人がいて、そんなときは「すげー!」と素朴に感激するわけだけど、その後にまたこちらから作業を振るまでピタッと音沙汰がなくなってしまうような感じだと、じつは周りの時間や集中力といった貴重なリソースがその人を軸に徐々に削られていく。

上記の後者、つまり誰か一人のスターが引っ張ってるわけでもないのに何となく全体がうまく回ってる状況、というのは、上に書いた「言われなくてもやる」人たちによって成り立っている。

誰かに指示をされなくても、「全体が目指している場所」と、「自分たちが現在いる場所」とを把握することで、その2点を結ぶ線上にある次の項目、つまり次にやるべきタスクをこれだろう、と見定められる人は誰かに言われなくてもどんどん作業を進めていく。

「言われなくてもやる人」は「何も言わずにやる人」ではないから、いつも自分が次に何をやるべきなのか考えて、わからなければすぐに聞く。

自分ひとりでわかっていることなんて限られたものに過ぎないから、本当に深く「次にやること」を考え始めたら、わからないことに突き当たる方が自然だ。

あるいは、その瞬間にやっていることに関してすら、やりながら事前には想定していなかった疑問が生じたりして、そういった時にも適切な判断をおこなうためには周りに聞くしかない。

だから、「言われなくてもやる人」はどちらかと言うとよくしゃべる。

黙々と仕事をするのは集中力が増して良い面もあるには違いないが、自分が何をしているのかを周りに知らせないまま進めるのは、じつはその都度の判断に自信がないからで、自分の間違いを周りから指摘されないために何も報告しなくなってしまうという印象がある。

「何も言わずにやる人」の間違いに気づくには、周りが自分の仕事の一部としてその人へアプローチするしかないから、本来周りの人が自分の仕事に向けるべきリソースを奪ってしまうことになる。

生産的なチームでは皆が自分の仕事の進捗を開示しているから、自然と皆の頭の中の情報が同期しているかもしれない。

「言われなくてもやる人」の質問はつねに「一旦自分で考えてみたけどそれでもわからなかったこと」だから、その頭の中にはすでに問題の前提が構築されているし、聞かれた側はそのわずかに抜けた穴を埋めるだけだから、時間をほとんど奪われない。

そのような、「言われなくてもやる」「自分で考えて動く」人たちによる仕事は、同じ方向へ皆で並走するラグビーのようなもので、一人ひとりが自分の役割を自覚しながら同時に作業を進めていくから効率が悪いはずがない。

・・などと言葉でいえば当たり前のようだが、そのような状況を実現することは、なぜか途方もなく難しいことであるような気がする。
掲題の「理想」というのはそういう意味でもある。

そういったことがなかなか実現しないのはなぜだろうか。
そこまでしなくても、ある程度の満足を得られてしまうのだろうか。
それとも、全体にとっての目的が明確に共有されていないのだろうか。

自分自身のことを考えると、ここで言う「理想」的な状況は時に出現する。
しかし、いつもそうなるというわけではない。

今のところ、法則は見出せない。どういう状況ならばそれが実現するのか、どうなるとそれが消え去るのか。

いや、本当は少しは思い当たるところもある。ああなればいいのだろう、こうやっては駄目なのだろう、と。
しかし、その必要な条件を揃えることがまた、ちょっと難しいのだ。

そのあたりの具体的な話については、また情報や経験が溜まったら書いてみたい。

アンガーマネジメント 〜 怒りの原理に関する感想

先日発行されたシノドス Vol.228 に掲載された「アンガーマネジメント」に関する記事は面白かった。

その前半部分は以下で読める。
synodos.jp

具体的なメソッドなどについて触れた後半部分を読むには、要購読。*1

α-synodos | SYNODOS -シノドス-

アンガーマネジメントについては、その言葉を耳にしたことぐらいはあったかもしれないが、まあよくあるライトなハウツーのたぐいだろう、程度の漠然とした印象しかなかった。

しかし、上記の記事はそれほど長くないにもかかわらず、インタビュー形式だったこともあってか、細かいニュアンスまでけっこう深く把握でき、自分でこれまで「怒り」という現象について考えていたことが裏付けられたような部分もあれば、今まで意識したこともなかった観点を教えてもらった、という部分もあった。

具体的な内容については本文を読んでほしいが、じつは一点、ちょっとわかりづらいというか、腑に落ちないというか、「そうかなあ」みたいに思ったところがあったので、その点をメモしておきたい。

気になったのは、以下の一文である。

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

これに似たことは、終盤のまとめのところでも繰り返しているので、

先ほども言ったように、私たちがイラっとするのは、自分の「べき」、つまり価値観が目の前で否定されている時です。

よほどこのメソッド(というか考え方というか)を教えていく上で重要なキーフレーズなのだろうと思える。

しかし、ぼくが違和感を覚えたのもそのフレーズで、果たして、ぼく自身が何かに怒りを感じたとき、その理由はぼくが「○○すべき」という価値観を目の前で否定されたときなのか? と想像してみると、ちょっとわかりづらい。

「そうではない」と言いたいのではなく、むしろ「たしかにそういうこと、多いかも」と思うのだけど、ただ「あなたが今怒っているのは、あなたが持っている『○○すべき』という価値観を目の前で否定されたからなんですよ」と言われても、本当にそれが「自分が怒った理由」と言えるのか? と考えると、説得力がない気がする、ということ。

じゃあ逆に、どう表現したら腑に落ちるのか? といったら、たぶん「自分に不利益が生じたとき」とでも言えば、「ああ、そりゃ怒るよね」とすんなり納得しそうな気はする。

ここで探している「表現」とは、「原理」のことである。

「原理」とは、いつ・どのような状況にあっても適用可能な、再現性のある表現ということだ。

自分自身を省みても、様々な状況、理由によって怒りを感じているはずだが、そのどの状況にあっても、「結局こういうことですよね」という共通項を取り出せるとしたら、それが「原理」ということになる。

で、自分が様々な状況で怒りを感じているとして、そのどれにも共通する要素は何か? といったときに、上記のような「価値観の否定」を提示されても、「んー、まあ、そうなのかもしれないけど、だから何だということ? どうしてそれが否定されたら怒りを感じるの?」という新たな疑問が湧いてしまう。

ここで求めている「原理」というのは、考え尽くした最後に出てくる考え方なので、それに対して新たな疑問が湧いてくることはない。新たな疑問が出てきたら、それは原理として考え尽くされていないことになる。

たしかに、現象としてはそうなのだろうと思う。人が怒りを感じたとき、その現象を描写すれば、「この人は自分の価値観を目の前で否定されたから怒っているのだ」と言えるかもしれないが、ぼくにはそれが「状況描写」にはなっていても、「理由の説明」にはなっていないように思える。

また、それが「描写」であるがゆえに、それを元に対策を立てることも難しい。そう言われても、ただ一言「そうですか」としか言いようがない。

一方、これがたとえば「自分に不利益が生じたと感じるから怒るのだ」ということならば、その視点を軸にして、「では本当に不利益をこうむったのか、あらためて考えてみましょう」という具合に、その怒りをしずめるための対策を立てることもできるかもしれない。

よって、「自分が信じてる『○○すべき』という価値観が目の前で裏切られたから」というのは「怒りの理由」の説明にはなっていないのではないか、としばらく思っていた。

ただ、その後も何度かそれについて考えてみるうちに、単純にそうとも言い切れないかな、と思うようになってきた。

というのも、たしかに様々な「怒りの現場」というものを想像してみると、そこにあらわれている現象は、単純に「その人が不利益をこうむったから」というより、「その人の価値観が目の前で否定されたから」と説明した方がフィットする場合が多いように思える。

より具体的に、誤解の余地がないように、「価値観」という言葉も使わずに言い換えてみるなら、それは「自分が理想とする社会(世界・環境)の実現を妨害されたとき」とでも言えるだろうか。

あるいは、さらに原理的な言い換えを試みるなら、「自分が理想とする社会」というのは、「自分がつねに快適に(快楽を享受しながら)過ごせる世界」とでも言えるだろうから、そうした状況を破壊する要素に対して、人は怒りをおぼえる、というふうにも言えるかもしれない。

しかしこのように書いてみると、これってまるで赤ちゃんである。
快適じゃないから怒る! って、赤ちゃんかよ、という……。

ともかく、このように考えるとやはり、先の

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

というフレーズは、「価値観」という表現がやや曖昧(未定義)に感じられるものの、充分に突き詰められた原理なのかもしれない、とも思えたということ。

それはそれとして、個人的にはやはり、その記事を読みながら、「ああ、なるほど。ぼくが怒りを感じるのは結局のところ、自分に不利益が生じたと感じたときなんだな」と思えたのは大きな収穫だった。

これはやはり原理と言えるもので、例外はすぐには浮かばない。

一見自分の不利益に見えることでも、回りまわって自分の利益になっているようなことなら怒らないかもしれないし、その逆も然りだろう。

また、上記の「自分の理想(価値観)が目の前で否定されたときに人は怒る」という話にしても、社会のいろいろなところで遭遇する怒りの現場をよく説明している。

世の中には、「そんなのは常識から外れてる(からダメだ)」などと、あたかも万人に共通する「常識」が自明に存在しているかのように、それを振りかざして怒っている人がいるが、それもまさに、自分が快適に暮らせる世界の構築を、その「常識外れ」な人によって妨害されていると感じて怒っているのかもしれない。

実際には、自分の理想とは相容れない生き方をする人なんて無限に近く存在し、そういう人たちがいても大抵の場合は自分の生活への影響などないわけだが、目に映るすべての人が「自分のいる世界」に多大な影響を与えうる、と思ってしまう傾向が、多かれ少なかれ人にはあるのかもしれない。

なお、上記の記事にも書いてあるが、アンガーマネジメントは、「怒るのをやめましょう」とか、「すべての怒りの感情は錯覚です」などと言ってるわけではない(らしい)。

そうではなくて、「本当に怒るべき事態なのかどうか、きちんと見定めましょう」とか、「なんでもかんでも怒るのはやめましょう」ぐらいのことを言っている(と思う)。

上では「人は自分に不利益が生じたと感じたときに怒るのだ」と言ってみたが、それは単なる思い込み(実際にはなんの不利益も生じていない)の場合もあれば、明らかに不当な搾取を受けている場合もあるかもしれない。

前者の場合は声を上げてもかえってトラブルが生じるだけだが、後者の場合にも黙っていれば、人生の少なからぬ期間にわたって不当な不利益をこうむり続ける羽目になるかもしれない。

その前者と後者との境界を見定める練習をしましょう、というのが、このアンガーマネジメントの主眼であるように思える。

ともあれ、これらの考え方はいろいろな「怒り」にまつわる現象を説明できており、何より自分がイラッとしたときに、「でもこれ、本当に自分に不利益を生じさせているのか? どんなふうに?」と考えることで、「あー、いや、とくに悪影響ないですね。いまカチンと来たの、ナシで」としずめやすくなった気がするので、それが一番ありがたい。

*1:本記事のような興味深い視点からの記事が月2回、かなりのボリュームで配信されて月540円とかなので関心が似ている人には勧められる。

堂々めぐり

あるひとつの問題に対して、AとBという2つの結論が考えられる場合、「Aにするか、Bにするか」と長い時間をかけて検討していると、その「時間をかけて検討する」ということ自体がなんだか悪いことのように思えてくる。

最初のうちは「Aの方が断然良い」と思っていたのが、少し考え直して「やっぱりBだろう」ということになり、しかしさらに考えを進めると「いや、やっぱりAだな」となったり。

あるいは、複数人で話し合っているうちに、最初はAが良いと言っていたのがBの方が優勢になって、それに決まりかけたと思ったら、最初と同じ理由でまたAの方が優勢になってしまったり。

そのような、いつまでも物事を決められない状況を、人は「優柔不断」、あるいは「堂々めぐり」と言うだろう。
いずれにせよ、あまり良い意味ではない。

最初の結論と、いろいろ考えた末の結論が異なれば、「考えた意味があったね」と納得しやすいが、堂々めぐりの末に結局最初の結論に戻ったりすると、「なんだ、最初のでよかったのかよ、じゃあいろいろ考えた時間が無駄だったじゃないか」と人は思ってしまいがちだ。

自分自身にそう思うぐらいならまだいいが、困るのは他人からそう言われてしまう場合である。

というか、現実の世界では、他人からそう言われるのがイヤだからこそ、AかBかでいつまでも悩むのが「よくないこと」とされがちなのではないかと思える。

しかしながら実のところ、堂々めぐりというのは反復横跳びのように、まったく同じ場所を行ったり来たりしているわけではない。

そこで実際に起きていることは、

判断材料が少ない段階で考えたら、Aの方が良さそうだった。

もう少し考えたら、新たな判断材料が加わった。それを元に考えたら、Bの方がいいとわかった。

さらに考えを進めたら、これまで考えてもみなかった別の判断材料も見つかった。それを考慮しないわけにはいかないから、それを加えて考え直したら、やっぱりAの方が妥当だった。

(以下しばらく続く)

みたいなことではないだろうか。

つまり、実際には考えれば考えるほど、また時間が経てば経つほどに、前提となる判断材料も変化していて、しかも大抵の場合は後になるほどより正確な情報が集まってくるから、外からパッと見て「単に同じところを行ったり来たりしているだけだろ」と思えても、現場で起こっていることは「毎回新たな問題に取り組んでいる」ような状況かもしれない。

あるいは、冒頭の例のように、一見「同じ理由で同じ案が再度採用された」ように見えても、その「同じ理由」とは実際にはいくつもの新たな議論を踏まえて生き返った根拠ということだから、同じように見えたとしてもその理解のされ方、存在の仕方は異なっているだろう。

「いつまでも結論が出ない状態」というのは、どうやら多くの人にとって不快なものであるようで、それはおそらく、その逆の「結論が出た状態」というのが一種の達成感というか、報酬を得たときのような快感につながるからだと思うが、そうした昂揚感を本来の目的とするギャンブルならばともかく、正しい(目的に対して最適な)答えを求めるための検討なり議論なりを行うのであれば、「一見すると堂々めぐり」のような状況を、「正しい答えを得るために正しい問いを作り続けている」のだと捉え直し、その「なかなか結論が出ない不安定さ」に耐える必要があるだろう。

このようなことを、最近では築地/豊洲の魚市場をめぐる一連の騒動を見ながらよく思った。

豊洲にするのか、築地にするのか、どっちでもいいから早く決めてくれ」とか、「結局豊洲にするなら今までに費やした時間が無駄だった、*億円分の税金をドブに捨てた」みたいなフレーズがたびたび聞かれて、心底うんざりしたものだった。

元々豊洲に市場を移す予定だったとしても、以前の知事時代にやっておくべき種々の処理をしていなかったのだから、上記のような「前提」が以前からは変わっているのだし、その後も日々刻々と「判断材料」としての情報が更新されているのだから、そこで行われている議論は「右か左か」のような二者択一のためのそれではなく、一段一段階段を登りつめていくような新たな観点の創出だったろう。

一見「最初に選んだ結論と同じ結論」のように見えても、それは「新たに生まれた別の結論」なのである。

もちろん、市場関係者の身になれば、当事者ごとに具体的な損害などもあり、簡単に語れるものではないが、「最初と同じ結論に至るなら議論や検討など不要だった」などという論理はないということ。

死後のブログ

もうどのぐらい前だったか、まだ1年は経っていないと思うが、以前にTwitterで以下のようなことを言ったら、*1

自分が死んだときのことを思うと、独自ドメインでブログ運営するよりも、ブログサービスで記事を公開しておいた方が長く世界に残りそうなので、ブログは独自ドメインではやらない。

tDiaryの開発者であるただただしさんから、「死ぬより先にそのブログサービスの方が終わってると思う(笑)」みたいなツッコミをもらったことがあった。*2

しかもこれはたださんだけでなく、ネットウォッチャーのおおつねさんからも同様のコメントをもらったので、「なるほど、ネットの古参の人たちはやっぱり見方が大局的だな〜」とそのときは普通に感心したのだったけど、よくよく考えると、元のツイートで言いたかったことは、そのツッコミの方向とはちょっとズレているようでもあった。

上記のたださんのツッコミというのは、たぶん今すぐの話ではなくて、たとえば今から30年後とか、どれだけ早くてもせいぜい10〜20年ぐらい先のことを想定して、ぼくで言ったらはてなブログを使っているから、「2030年頃にはもう『はてなブログ』自体なくなってるんじゃないの」みたいな意味だったと思うんだけど、ぼくが言いたかったのは「もし明日死んだとしたら、その時点から一番近い更新のタイミングでドメインが失効して、その後しばらくしたらもうそのサイトは見れなくなっちゃうんだから*3、それよりは今動いているブログサービスにデータを置いておいた方が記事が長生きするだろう」みたいなことだった。

つまり、今使っているブログサービスが、ぼくの寿命より長生きする必要はない。
そうではなく、もし死ぬ直前までブログを書いているのだとしたら、その記事は独自ドメインではないブログサービスに載せておいたいた方が、長く残るのではないか、みたいな話である。

以前にもこのブログで書いたかもしれないけど、時々興味がぶり返すのは、今後数十年のうちに、インターネットの草創期を彩った人々が鬼籍に入り始めたらどうなるのか、ということだ。

インターネットの土台は1960〜80年代頃に形作られたようだから(おぼろげな印象)、当時20代だった人ならまだ70〜80才ぐらいで、今の時点では現役で活躍していても全然おかしくないが、自然の流れとして、そういった人々から順に亡くなっていくだろう。

逆に言えば、まだ人類はそういう、インターネットが生まれてから活躍を始めた著名人たちの「死」というものをほとんど経験していない。

そして、それはやがて大きな波として、ぼくらの目の前に現れてくる。

おそらく、人々が本当の意味で「インターネット上の人間の死」を意識できるのはその頃からだろう。

身近に感じられる人、それも少なくない人々が、次々と亡くなっていく。

その波は、散発的に起きる大波のようなものではなく、水位全体が上昇しながらこちらへ向かってくる津波のように、しばらくの間は勢いを増し続けるはずだ。

すでにFacebookでは、それに類する対策が固まっているようだが、他のSNSや、ブログサービスなどでも、自分が死んだ後のデータのあり方について、ユーザー自身の希望を事前に選択させることが普通になっていくのではないだろうか。

ブログだったら、ユーザーの死後すぐに閉鎖するのか、それとも数年間残すのか、あるいは事前に決めておいたメッセージを掲示するのか、とかそういう。
選択肢によっては、前払いの有料サービスになるかもしれない。

そんなことをつらつら考えている。

*1:記憶で書いているので厳密には違うかもしれないが。

*2:これも記憶で書いてるので厳密には違うかも。

*3:実際には、利用者の死後にドメイン更新の手続きがどうなるのか知らないので、あくまで想像の話。

Twitterとタバコ

  • 近所に最近できたラーメン屋、店員がしょっちゅう外に出てタバコ休憩を取っている。
  • 1本吸って(時には携帯で喋りながら)、終わったら足元に捨ててつぶして店に戻る。
    • 自分の店の前なのに! ポイ捨て!
    • むしろ感心する。
  • 今どき、あそこまでタバコ依存の雰囲気を漂わす人めずらしいな・・と思っていたけど(しかもけっこう若い。せいぜい30代)、ふとそこで思ったのは、僕を含む多くの人が、仕事中にも関わらずポイポイTwitterに投稿している姿である。
  • そのタバコ休憩の人は、きっと店がちょっとヒマになるたびに、同僚に「ちょっとタバコ吸ってくる」と言って店を出てくるのだろう。
  • ラーメン屋でなくても、たとえば外回りのサラリーマンとか、あるいは事務職の人でも、「1本だけ吸ってから次行きます」みたいな感じのことが少なくないんじゃないか、と思う。
    • 実際そういう場面に遭遇したことが何度かある。
  • ぼくはタバコは吸わないし、自分がそういうことをしているとは思っていなかったが、しかし普段コンピュータを使って仕事をしている最中に、「あ、ちょっと思いついたことあるから一瞬ツイートしてくる」みたいなこととか、あるいは自分がツイートしなくても「んー、ちょっと煮詰まったから一瞬タイムライン見てくる」みたいになることは多々ある。
  • それって、まるっきり「ちょっと1本だけ吸ってきます」みたいな感じである。
  • ここに書いたこととも繋がるが

忙しい(はずの)人たちがその一方でボンボンTwitterに投稿しているの、投稿することによって脳内に何か快楽物質みたいなもの(アルコールとか麻薬みたいなやつ)が出ているからだと思うんだけど、そういう研究をしている人っているのだろうか。

  • やっぱりそれって、一言で言って依存ということなのだろう。
  • 今たまたま読んでいる『習慣の力』という本があるのだけど、そこではタバコ依存について、ニコチン自体の依存性というのはけっして高いものではなく(何日だったか、それほど多くない日数で抜ける)、しかし「これを吸えばあんな気持ちになれる」という、「報酬をもらった記憶・感覚」が習慣として体に染みついてしまっているから、そこから抜けるのが大変、みたいな感じで書いてあった。
  • Twitterにもやはり、そういう「ツイートすることによって得られるスッキリ感」というか、脳の報酬系を刺激するものがあって、それを求めて仕事中でも「ちょっと一服」という感じでやってしまうのかな、と思った。
    • この時の「報酬系」というのは、いいねやリプライのようなわかりやすいフィードバックもそうだけど、たぶんそれだけではなくて、それまで自分の頭の中だけにあった発想が外部にリリースされることによって、ある種の安心感というか、それが人類の歴史の一部に刻まれることでささやかな達成感のようなものが得られる、ということもあるのではないかと思っている。
    • その「明快な反応があるわけでもないけど確かに人類の記録として刻まれる感」みたいなことは、ココにも書いたけど、ようは

TLに流れてしまうということは、「べつにそれを見ようと思っていたわけではない人」の眼前にも強制的に置かれてしまう

  • という、その「強制性」とも言えるTwitterの性質が、地味ながら結果的にけっこうな影響を与えているのではないかと思いもする。
  • Twitterはだから、現代のタバコみたいなものと言えるだろう。

習慣の力 The Power of Habit (講談社+α文庫)

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