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アンガーマネジメント 〜 怒りの原理に関する感想

先日発行されたシノドス Vol.228 に掲載された「アンガーマネジメント」に関する記事は面白かった。

その前半部分は以下で読める。
synodos.jp

具体的なメソッドなどについて触れた後半部分を読むには、要購読。*1

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アンガーマネジメントについては、その言葉を耳にしたことぐらいはあったかもしれないが、まあよくあるライトなハウツーのたぐいだろう、程度の漠然とした印象しかなかった。

しかし、上記の記事はそれほど長くないにもかかわらず、インタビュー形式だったこともあってか、細かいニュアンスまでけっこう深く把握でき、自分でこれまで「怒り」という現象について考えていたことが裏付けられたような部分もあれば、今まで意識したこともなかった観点を教えてもらった、という部分もあった。

具体的な内容については本文を読んでほしいが、じつは一点、ちょっとわかりづらいというか、腑に落ちないというか、「そうかなあ」みたいに思ったところがあったので、その点をメモしておきたい。

気になったのは、以下の一文である。

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

これに似たことは、終盤のまとめのところでも繰り返しているので、

先ほども言ったように、私たちがイラっとするのは、自分の「べき」、つまり価値観が目の前で否定されている時です。

よほどこのメソッド(というか考え方というか)を教えていく上で重要なキーフレーズなのだろうと思える。

しかし、ぼくが違和感を覚えたのもそのフレーズで、果たして、ぼく自身が何かに怒りを感じたとき、その理由はぼくが「○○すべき」という価値観を目の前で否定されたときなのか? と想像してみると、ちょっとわかりづらい。

「そうではない」と言いたいのではなく、むしろ「たしかにそういうこと、多いかも」と思うのだけど、ただ「あなたが今怒っているのは、あなたが持っている『○○すべき』という価値観を目の前で否定されたからなんですよ」と言われても、本当にそれが「自分が怒った理由」と言えるのか? と考えると、説得力がない気がする、ということ。

じゃあ逆に、どう表現したら腑に落ちるのか? といったら、たぶん「自分に不利益が生じたとき」とでも言えば、「ああ、そりゃ怒るよね」とすんなり納得しそうな気はする。

ここで探している「表現」とは、「原理」のことである。

「原理」とは、いつ・どのような状況にあっても適用可能な、再現性のある表現ということだ。

自分自身を省みても、様々な状況、理由によって怒りを感じているはずだが、そのどの状況にあっても、「結局こういうことですよね」という共通項を取り出せるとしたら、それが「原理」ということになる。

で、自分が様々な状況で怒りを感じているとして、そのどれにも共通する要素は何か? といったときに、上記のような「価値観の否定」を提示されても、「んー、まあ、そうなのかもしれないけど、だから何だということ? どうしてそれが否定されたら怒りを感じるの?」という新たな疑問が湧いてしまう。

ここで求めている「原理」というのは、考え尽くした最後に出てくる考え方なので、それに対して新たな疑問が湧いてくることはない。新たな疑問が出てきたら、それは原理として考え尽くされていないことになる。

たしかに、現象としてはそうなのだろうと思う。人が怒りを感じたとき、その現象を描写すれば、「この人は自分の価値観を目の前で否定されたから怒っているのだ」と言えるかもしれないが、ぼくにはそれが「状況描写」にはなっていても、「理由の説明」にはなっていないように思える。

また、それが「描写」であるがゆえに、それを元に対策を立てることも難しい。そう言われても、ただ一言「そうですか」としか言いようがない。

一方、これがたとえば「自分に不利益が生じたと感じるから怒るのだ」ということならば、その視点を軸にして、「では本当に不利益をこうむったのか、あらためて考えてみましょう」という具合に、その怒りをしずめるための対策を立てることもできるかもしれない。

よって、「自分が信じてる『○○すべき』という価値観が目の前で裏切られたから」というのは「怒りの理由」の説明にはなっていないのではないか、としばらく思っていた。

ただ、その後も何度かそれについて考えてみるうちに、単純にそうとも言い切れないかな、と思うようになってきた。

というのも、たしかに様々な「怒りの現場」というものを想像してみると、そこにあらわれている現象は、単純に「その人が不利益をこうむったから」というより、「その人の価値観が目の前で否定されたから」と説明した方がフィットする場合が多いように思える。

より具体的に、誤解の余地がないように、「価値観」という言葉も使わずに言い換えてみるなら、それは「自分が理想とする社会(世界・環境)の実現を妨害されたとき」とでも言えるだろうか。

あるいは、さらに原理的な言い換えを試みるなら、「自分が理想とする社会」というのは、「自分がつねに快適に(快楽を享受しながら)過ごせる世界」とでも言えるだろうから、そうした状況を破壊する要素に対して、人は怒りをおぼえる、というふうにも言えるかもしれない。

しかしこのように書いてみると、これってまるで赤ちゃんである。
快適じゃないから怒る! って、赤ちゃんかよ、という……。

ともかく、このように考えるとやはり、先の

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

というフレーズは、「価値観」という表現がやや曖昧(未定義)に感じられるものの、充分に突き詰められた原理なのかもしれない、とも思えたということ。

それはそれとして、個人的にはやはり、その記事を読みながら、「ああ、なるほど。ぼくが怒りを感じるのは結局のところ、自分に不利益が生じたと感じたときなんだな」と思えたのは大きな収穫だった。

これはやはり原理と言えるもので、例外はすぐには浮かばない。

一見自分の不利益に見えることでも、回りまわって自分の利益になっているようなことなら怒らないかもしれないし、その逆も然りだろう。

また、上記の「自分の理想(価値観)が目の前で否定されたときに人は怒る」という話にしても、社会のいろいろなところで遭遇する怒りの現場をよく説明している。

世の中には、「そんなのは常識から外れてる(からダメだ)」などと、あたかも万人に共通する「常識」が自明に存在しているかのように、それを振りかざして怒っている人がいるが、それもまさに、自分が快適に暮らせる世界の構築を、その「常識外れ」な人によって妨害されていると感じて怒っているのかもしれない。

実際には、自分の理想とは相容れない生き方をする人なんて無限に近く存在し、そういう人たちがいても大抵の場合は自分の生活への影響などないわけだが、目に映るすべての人が「自分のいる世界」に多大な影響を与えうる、と思ってしまう傾向が、多かれ少なかれ人にはあるのかもしれない。

なお、上記の記事にも書いてあるが、アンガーマネジメントは、「怒るのをやめましょう」とか、「すべての怒りの感情は錯覚です」などと言ってるわけではない(らしい)。

そうではなくて、「本当に怒るべき事態なのかどうか、きちんと見定めましょう」とか、「なんでもかんでも怒るのはやめましょう」ぐらいのことを言っている(と思う)。

上では「人は自分に不利益が生じたと感じたときに怒るのだ」と言ってみたが、それは単なる思い込み(実際にはなんの不利益も生じていない)の場合もあれば、明らかに不当な搾取を受けている場合もあるかもしれない。

前者の場合は声を上げてもかえってトラブルが生じるだけだが、後者の場合にも黙っていれば、人生の少なからぬ期間にわたって不当な不利益をこうむり続ける羽目になるかもしれない。

その前者と後者との境界を見定める練習をしましょう、というのが、このアンガーマネジメントの主眼であるように思える。

ともあれ、これらの考え方はいろいろな「怒り」にまつわる現象を説明できており、何より自分がイラッとしたときに、「でもこれ、本当に自分に不利益を生じさせているのか? どんなふうに?」と考えることで、「あー、いや、とくに悪影響ないですね。いまカチンと来たの、ナシで」としずめやすくなった気がするので、それが一番ありがたい。

*1:本記事のような興味深い視点からの記事が月2回、かなりのボリュームで配信されて月540円とかなので関心が似ている人には勧められる。