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嫉妬をこじらせない

以前から、同世代か年下の世代の人たちが活躍するのを見るたびに、自分が無価値な存在であるように感じられてしまって、その感覚を嫉妬と呼んでいた。

嫉妬はあまり愉快な感覚ではないから、自然に「嫉妬は良くないな」と思ってもいたけれど、これを完全に排除するのも難しいよな、と最近では思っている。

誰か自分より優れた(ように見える)活躍をしている人がいた時、自分が惨めに思えるのは、その相手と自分とを比較しているからで、つまり嫉妬は「比較」から生じていると言えるだろう。

となれば、嫉妬を排除するには比較を排除しなければならないことになるが、比較を排除するということは、「世界記録を1秒でも更新したい」とか、「昨日の自分より少しでもマシでありたい」みたいな向上心をも排除することになってしまう。

向上と比較は不可分で、となれば向上心と嫉妬心もまた不可分というか、それはコインの裏表のように、同じ現象が持つ別の側面なのだと思えてくる。

同世代や年下の人たちに嫉妬を感じるのは、それが自分との比較対象になりやすいからだろう。逆に、年上やそもそも能力がかけ離れたような人に嫉妬を感じないのは、比較対象として認識しづらいからだろう。

(百歳の人の気持ちを想像できなかったり、メジャーリーガーが自分より野球が上手くても当たり前だと思えたり)

嫉妬をこじらせる、という表現が世の中にあるかどうかは知らないが、そのように言える状況があるとしたら、それは「自分の中に生じた嫉妬を認めない」みたいなことだろう。

自分の中に嫉妬が生じたことを認めないということは、実際には自分にそのように感じさせた他人の能力の高さを(あるいは自分がそう認識したことを)認めないということになるけれど、そのようにしても自分の中の不愉快な感情は解消されず、滞留したままだから、その解消のために相手をおとしめるような言動に至る、というパターンがあるように思える。

何かと何かを比較しなければ向上を図ることは難しい。その向上心や比較能力のいわば副作用のようなものとして、嫉妬という現象があるのだと思える。

現実的に困った現象が生じるのは、だから嫉妬という感情自体が原因なのではなくて、嫉妬を隠そう、誤魔化そうとすることに起因するのではないかと思っている。

時々Twitterを見ていると、若く才能ある女性が心ない言葉を浴びせられていたりして、多くの場合それを言っているのは男性だったりするのだけど、ああ、これは嫉妬を受け入れられず、不適切な形で解消しようとしているのだな、と思ったりする。

ちなみに、前提となる概念にズレがあると話が適切に伝わらないので、一応ここで念頭に置いている「嫉妬」を定義しておくと、Macのデフォルト辞書の「嫉妬」の項目に書かれている以下で大体一致している。

【嫉妬】
① 人の愛情が他に向けられるのを憎むこと。また,その気持ち。特に,男女間の感情についていう。やきもち。「―心」「夫の愛人に―する」
② すぐれた者に対して抱くねたみの気持ち。ねたみ。そねみ。「友の才能に―をおぼえる」

しかしこの2番の説明、普通に読むとあまり説明になっていないというか、「じゃあ、〈ねたみ〉って何?」という感じなので、「ねたみ」を同辞書で引くとこうなる。

【ねたみ】
① 他人の幸福や長所がうらやましくて,憎らしいと思う。「仲間の出世を―・む」
② 腹を立てる。くやしく思う。

これも今回念頭に置いている「嫉妬」の内容とほぼ一致していると思う。

commmons: schola を卒業します

2008年9月に発売された第1巻「J・S・バッハ」から、今年3月に発売された第17巻「ロマン派音楽」まで、10年にわたり携わってきました坂本龍一さんのCDブック音楽全集『commmons: schola(コモンズ・スコラ)』の編集担当をこのたび退任することになりました。

今までお世話になりましたスタッフの皆さん、坂本さんをはじめとするコアメンバーの皆さん、各巻のゲストの皆さん、執筆家・アドバイザーとして関わってくださった専門家の皆さん、デザイナーの中島英樹さん、第1巻から13巻まで校正を担当してくださったアサヒエディグラフィさん、第14巻『日本の伝統音楽』以降の校正を担当してくださったキモト読物工舎さん、印刷会社のプロストさん、音楽業界では異例とも言える、会社同士の枠を越えて音源や資料の提供にご尽力くださったレコード会社各社の皆さん、そしてぼくをこのプロジェクトに呼んでくださった後藤繁雄さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

読者の皆さんにも感謝しています。ぼくがscholaを作るときに考えていたのは、いつも読者のことでした。

なにしろ税別で8,500円の商品です。17巻に至っては、2枚組ということもあって税込みで1万円を超えてしまいました。これだけのお金があったら、他にもできることがたくさんありますよね。でも、それをせずにscholaを買ってくれた読者の皆さん。中には、1巻からすべて揃えてくれている人もいます。

ぼくは、そういう人たちを大切にしなければならないと思ってきました。それは義務を負うような感覚ではなく、この人たちを大切にしないでいられるわけがないという、「当たり前に大切なのだ」という感覚でした。

お金を払うということは、命を削る行為だと思います。上にも書いたとおり、そのお金でご飯や着る物を買うこともできるわけですから。その大切な元手を使って、scholaを買ってくれる人たちがいました。
そのような人たちのために、ぼくが自分の使命として考えていたのは、次のようなことでした。

  • 坂本さんの濃度を、坂本さんと読者の間に入る自分が薄めないこと。
  • 坂本さんが心から良いと思うものを作ること。

ぼくは坂本さんが満足するものを作りたいと思っていました。それはもちろん、坂本さんのためになることであり、坂本さんのためにやることでもありましたが、でも本当に大事な目的はその向こうにあって、読者が喜ぶのはそういうものであるはずだから、だからこそ、それを作らなければならないと思っていました。

「坂本さんが心から良いと思うもの」は、坂本さんに喜んでもらえるだけでなく、読者に喜んでもらえるものになると思っていました。ここで言う「読者」には、今を生きる人たちだけでなく、これから生まれてくる人たちも含まれます。その新しい人たちは、今とは違う価値観や、社会の空気の中でscholaに触れるでしょう。今を生きる人にも、未来を生きる人にも届くコンテンツを作るためには、ただひたすら、坂本さんが「良い」と思うものを作ることに集中するしかないと思っていました。

結果は……どうだったでしょうか。わからないですね。もちろん、たくさんの時間や労力を注いできましたが、どこまで限界に近づけたのか、どれだけ突き詰めて作業をできたのかといえば、確たる自信はありません。

でも、手は抜きませんでした。「もっと誠実に作れたかもしれない」とは、少なくとも今のところ、どの巻に対しても思っていません。もっと良いものはできたかもしれないけれど、それは自分が担当している間はできなかっただろうと思っています。

commmons: scholaは、現在も制作が続いています。ぼくの後任は決まっていて、すでにバリバリ制作に入っています。後任はすごいです。こういうときには、前任者が「後任は自分よりすごい」と言うのが常ですが、本当にぼくよりすごいです。18巻以降、scholaのクオリティは必ず今までのそれを超えます。

退任の理由について、どう書いたらいいか、いま手を止めて少し考えましたが、「一身上の都合」と言うのが一番適切かもしれません。様々なタイミングが合ったのだと思います。「17巻で交代」と言うとめちゃくちゃ中途半端に聞こえますが、「10年」と言えばこの上なくキリが良いようにも感じられます。

任を離れるにあたって、「卒業」と表現するのはいかがなものか? と少しは思いました。それってなんだか、現場の大変な部分を誤魔化したり、美化したりしているようではないか? と。でも、scholaは「音楽の学校」ですし、ぼく自身にとってもやはり「音楽の学校」でした。

scholaの仕事をしていなければ知りえなかったこと、出会うはずもなかった人たちとたくさん出会いました。知らないジャンル、知らない時代、知らない地域、知らない人々による演奏や録音、文献に触れ続けた10年でした。それもこれも、まずは何よりも先に坂本さんのフィルターを通した候補曲や話題があって、そこから始まる音楽の旅でしたから、いつもこの上なく効率が良かったですし、しかし1ミリ先には常に知らないものが待っているという、猛烈にタフで、刺激的な旅でもありました。知らないことに触れ続け、音楽を通して人や自然を学び続けた10年でした。そんな学びの場から離れるわけですから、やはり「卒業」で良いのでしょう。

11月からは、今までとは異なる環境で、次の活動をスタートします。これについては、またアナウンスをします。

これからのscholaを楽しみにしていてください。これまでのscholaがなければ実現しなかった、でもこれまでのscholaでは見ることができなかった、新しい世界への入り口が示されるはずです。ぼくも楽しみにしています。

commmons:schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

多数派は奪われる

時々読み返している森博嗣さんの日記本で、以下のような文章に出くわした。

セクハラが話題になるごとに感じますが、森よりも上の世代は、やはり子供のときからの環境がどっぷりセクハラ社会だったために、よほど意識が高くないかぎり、ほとんど罪悪感を持っていない、という人が多いようです。口では「最近はセクハラになるからね」と言って苦笑し、でも心の中では、「何が悪いんだ?」と反発しているわけです。たとえば、小学校のときには、スカートめくりなんてものが普通に行われていた社会でした。「短いスカートを穿く方が悪い」「女性だって喜んでいるはずだ」と本気で信じている世代なのです。それを怒る女性を、変人のように見てしまうわけです。
(略)
男女平等などの流れで、「女性ばかりを優遇しすぎではないのか? それでは平等ではない」と反発する声もあるのですが、これは、これまでの歴史を知らない発言だと言われてもしかたがないでしょう。つまり、それくらい女性を優遇する仕組みを押し出しても、まだまだ平等ではない、という歴史です。真っ直ぐ走るためには、ハンドルを真っ直ぐにすれば良いわけですが、今まで右に進んでいたら、左にハンドルを切らないと真っ直ぐにはなりませんからね。
(略)
テレビなどで男性のタレントが、なにげなく話している内容、ちょっとふざけたときに出る言葉、そして態度などに、ときどきもの凄く不快なものがあって、それらは、たいてい上記の「勘違い世代」に根ざした「無意識」です。そういった世代に育てられて、同様の感覚を持たされた若者もいることでしょう。テレビ局はよくああいったものを電波に乗せるな、と思います。おそらく見ている人の大半が、その世代なのでしょう。結局はジェネレーションが変わるまで待たないといけない、のかもしれません。特に悲観的になっているのではなく、言いたいことは、「昔は風紀が乱れていたな」ということです。
(※太字は原文ママ/2001年12月27日の日記より)

ハンドルの喩えはとてもわかりやすい。明快にして適切。自分の中でも感じていた、でもうまく表現できていなかった現象をあっさり言い当てていて、やはり森さんはすごいなと思わされた。

とくに悲観的になっているわけではない、という部分にも共感する。現状を肯定するわけではないけれど、少しずつ良くなってきていることは確かだと思える。

少し似た話で、以前にTwitterで見た以下の表現もこの辺の状況をうまく言い当てている、と思った。

2ページ目にある、ピラミッド型の図説は上記のハンドルの喩えとつながるところがある。

自分なりの言い方でこういった現象を説明すると、「多数派はつねに奪われる」ということになる。

多数派に所属する人は、多数派ゆえの優遇を受けていながら、自分が優遇を受けているとは認識していない(または認識しづらい)。だから、その優遇が抱えている不当さを解消しようという動きが始まると、「すでに平等であるはずなのに、なぜ自分だけが利益を奪われるのだ?」と反発してしまうのではないか、と想像している。

客観的に見れば、「いや、あなたはこれまでわけもなく優遇されていたのであって、それを平等に戻すのだよ」ということになるのだけど、優遇を受けている側からすれば、自分が優遇されているという感覚は持っていないし、社会はすでに「平等」になっている。

タバコの問題にはそれが象徴的に表れている。

受動喫煙を減らそうとか、路上喫煙はやめましょうとか言っても、昔はどこでも気にせず吸える方が「普通」だったわけで、普通のことができなくなれば、その普通による利を享受していた人にとっては、自分が「普通よりマイナス」の環境に追いやられたと感じても不思議はない。

夫婦別氏制度の議論についても似た状況があると感じている。客観的に考えれば、見ず知らずの夫婦が異なる氏(姓)を名乗ろうともそれで不利益を被る人などいないように思えるけれど、夫婦であれば誰もが同じ姓を名乗ることが普通だった社会で長く過ごし、その一員であった人の中には、その「普通」を構成するメンバーが減ることに不安を感じる人もいるかもしれない。よその夫婦が異なる氏(姓)を名乗ることに反対するのは、その「多数派であるところの自分を支えていた状況」が崩れることへの不安が作用しているのではないかと思っている。

しかしながら、いずれにしても、多数派とは物事を任意の範囲で切り取ったときに生まれる暫定的な割合のことであって、もともと不変のものではないだろう。人々の嗜好(指向)や傾向、属性といったものは細かく見ていけば必ずどこかズレているはずで*1、そのズレを「大体同じ」と見るか「全然違う」と見るかの問題であるとも思える。

ちょっとのズレを「いいじゃん、同じで」とひっくるめれば多数派が形成され、その中でもとくにその特性にフィットする人は優遇を受けられるが、「違うんだけどなあ・・」と感じる人は不利益を被ることになる。

逆に、そのちょっとのズレに注目して、違いを価値としてアピールしたり、そこにビジネスチャンスを見出したりする人が増えると、多数派は多数派を保持することが難しくなるかもしれない。そして基本的には、人の指向や傾向といったものは細分化されていくものだと思える。件のタバコにしても、ぼくが子供の頃にはそれほど選択肢はなかった。ハイライトならハイライトだけ。マルボロならマルボロだけ。それが次第に、同じブランドでもマイルド系、ライト系などちょっと軽めのものが出てきて、やがてウルトラマイルド、スーパーライト、3ミリ、1ミリ・・どこまで刻んでいくのかと思っていた。

「大体同じ」から「細分化」への動きはおそらく止められない。人間が自らの快適さのためにそれを求めている。そして細分化されるごとに新たな多数派が生まれ、その多数派はまた奪われる。

*1:同じ人間ですら、時間が経てばかつて好きだったものを嫌いになったり、その逆になったりする。

2018年8月の音楽

そろそろ9月になりますが・・最近よく聴くいてる音楽(おもに@Spotify)です。

Fog Lake "Almost Fantasy"

めっちゃイイ。こういうのだけ一生聴いていたい。

Paul Cherry "Like Yesterday"

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最高。ここ1〜2週間で聴いた音楽の中では一番スキですね。このヴィデオもねえ・・大学生が一時の熱狂に浮かされて一気に作ったような雑さと計算とエネルギーがとてもいいです。

Her's "What Once Was"

この曲、気がつくと頭でヘビロテ。他の曲を聴くとあまりピンとこないのもあるんですが・・この曲はほんとになんかハマる。名曲だと思います。

Beach Fossils "Sleep Apnea"

これも気がつくと頭で流れてる系ですね。記憶から消えてしまわないうちにここに記しておきます。

最初にも書きましたが、大体の好きな曲は最近はSpotifyで教えてもらいます。Apple Musicとかでもいいとは思いますが、いずれにしてもこうした優れたサブスクリプション音楽サービス、新たな音楽体験を提供してくれて大変ありがたいです。

20世紀の名曲・名盤と言われた作品も、これのおかげでフラットに聴き比べることができて、かつてのような「大金払って買ったんだから良いに決まってる(というか良くなきゃ困る)」みたいなバイアスから逃れた場所で、純粋に音楽として付き合いやすくなったと思います。

まあ実際には、そうした名盤バイアスみたいなものから完全に逃れることなどできないと思いますし(他の音楽リスナーとまったく付き合わずに音楽を聴くことなんてできないので)、その必要もないとは思いますが。

それで思い出しましたが、他人が自分の記憶、かつての音楽体験と重ね合わせながら任意の音楽を良いとか悪いとか評する行為って、ビールを「うまい」とか「夏に合う」みたいに言う行為に近いな、と最近思っています。ビールってべつに、そんなに味として感動するほどおいしいものではないと思うんだけど、それでも楽しい過去の体験とセットになった飲み物だから今なおメジャーであり続けている、という気がするんですよね。

音楽もそれに似て、自分が若かったとき、初めて見聞きするものに囲まれてドキドキしながら失敗したり成功したりした、そのときにBGMとして流れていた音楽がかけがえのないものになっていて、それを想起させるものを高く評価したり、良きものとして他人に勧めたりするってことがあるんじゃないかな・・と。

言い換えると、こうした文化には「誰かが美化して語った記憶を他人が真に受けながら追体験する」みたいな側面がある気がします。それを悪いことだとも思いません。

では、最後に一つ、8月に聴いたグレイト音楽。これはぶっ飛びましたね〜・・岸野雄一さんが着実に地ならしをなさった末のひとつの未来が現実化したのだなと思っています。

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わたしのメール作法

メールの作法についてぼんやり考えていた。作法と言っても、言葉遣いとか定型文とかをどうする、という話ではない。どちらかというと、そういうマナー講座的なことは苦手というか、よく知らない。

考えてみれば、最初にscholaで編集作業を始めた頃も、文章の直し方などはそういう教本や講座で学んだわけではなくて、一般に出版されている本を数冊並べて、それらに共通するルールを抽出して、それに準拠するようにしていた。具体的なところだと、三点リーダ(…)などは通常の出版物では「……」で統一されている。だから、自分も「みんながそうしてるから」というだけの理由でそれにならった。今もそうしているし、妥当な検討方法であり判断だったと思っている。

(本格的な校正の工程に際しては、赤字の入れ方を日本エディタースクールが発行している薄い本で練習しながら学んだ。それは知人のデザイナーが厚意でぼくにくれたものだった。ありがたかった)

メールをパソコンで書くようになったのは2003年だったと思うが、2005年から共編著『大谷能生フランス革命』の制作関連で少しずつやり取りの数が増えてきて、しかしやはり一気に増えたのは2008年に音楽全集『commmons: schola』の制作に関わってからだろう。

メールの書き方を誰かに教わったことはなかったが、そうやって仕事で使っている人の文章を見ながら「みんながやっている」共通のルールを知るようになり、そのうち有効なものは取り入れ、非効率だと思うものはスルーした。

編集の仕事というのは原稿を読んだり手を入れたりすることがメインであるように思えるけれど、自分の作業を振り返るとそのようなことをしているのは全体のほんの数割で、残りの時間はメールを書いたり、そのメールを書くために必要なデータを作ったりしている。こうしたコミュニケーションの方が作業のメインだと感じている。

scholaでは多忙な方々にこちらから様々な内容に関する連絡をして、その回答を得ることが求められる。冒頭に記した、ぼくの考えるメール作法というのはここから関係してくる。

多忙な人に何かを質問するようなとき、ぼくがよくやるのは、先にこちらで選択肢を用意しておいて、その中から回答を選んでもらう方式だ。具体的には、ABCの三択を用意し、もしその中のどれでもなければ選択肢Dとしてその回答を教えてください、とする。

そうすると、大抵はABCのどれか、あるいはそれに新たな要素を付け加えた「B+」みたいな回答が戻ってくる。Dになるとしても、その時点で少なくとも「ABCのどれでもないD」ということになるので、先方としてもDを具体的に書きやすくなる。

また、そのときのABCに「捨て選択肢」はない。よくプレゼンのメソッドとして、あえてダメなやつを混ぜておく(それで提案者が選んでほしいものを選ばせる)、みたいなことが言われるが、そんなことをして「ダメなやつ」が選ばれて不幸になるのは最後にお金を払ってくれる読者である。そのような可能性を進んで作ってはいけない。

個人的に、「Bになればいいな」とか思うことはあるけれど、それはそれ。まずはどれを選ばれても問題のないような選択肢を作る。

もしも本当に「Bになるべきだ」と思うなら、選択肢を提示する際にそのこともきちんと伝えればいい。個人的な考えだったとしても、その旨を断って伝えれば少なくとも有害な情報にはならない。

専門家であるところの相手から意見をもらう前に、自分の意見を伝えることにはリスクが伴う。こちらは専門家ではないから、的外れなことを言う可能性があるし、場合によっては信頼を失う。自分の身を第一に考えるなら、必要最低限のこと以外は何も言わないのが安全だ。しかしそれをわかった上で、それでも伝えておいた方が良いと思ったことは言う。いずれにしても、「こうした方が作品が良くなり、読者のためになる」と思った方を取る。

メールで与える情報が多すぎると、先方がそれを解読するコストが高まるので良くないが、かといって少なすぎても必要な情報が共有できない可能性が高まるので良くない。適度に充実した情報を渡すことが理想だ。

もしも自分だったら、と考える。もしも自分がこの選択肢をもらったとして、そこにどんなコメントが付属していたら判断をしやすくなるだろう? と考える。そしてその架空の世界に向けて、有用と思える情報を1〜2文付け加える。

そのようなときには、自分の意見は重要ではない、必ずしも考慮してもらう必要はない、ということを自分で理解しながら書く必要がある。それが相手に伝わるようにも意識する。

ぼくがこうしてほしいんです、という風にではなく、「なんか、さっき道ですれ違った人がそんなこと言ってましてねえ〜」ぐらいの、街の声をレポートするような感覚で、あくまで参考情報だけれど、という感じで伝える。判断の行方を限定するものではないが、判断に影響する可能性があるものとして伝える。それはただそこにあるだけの意見であり、向こうから何をしてくるわけでもない精霊のような存在とも言える。従う必要はないが、参考にしたければできるもの。

選択肢を用意する、というのは考えてみるとユーザーインターフェースの問題なのだと思える。たとえば、Webサービスなどのアンケートで、自由に書けるテキストボックスが用意されている場合と、ラジオボタンで多肢択一式になっている場合とでは、回答者の負担は大きく変わる。どちらが良いということではなく、求める回答によって適切な形式が変わる。

ぼくの場合は、内容が複雑に込み入った話題であるときほど、こちらで選択肢を用意しておくようにする。その上で、こちらの想定できない回答がある場合を考慮して「もしこの中のどれでもなければその旨お知らせください」としている。

いずれにしても、心がけているのは、「YES/NO/その他」のいずれかで明確に答えられるようにする、ということだ。「その他」しかないような質問をしてはいけない。「YES」と「NO」が用意されていれば、仮に「その他」が選ばれてもそれは「YESでもNOでもない限定的な「その他」」ということになる。

「その他」を具体的に戻してもらえず、「YESでもNOでもないんだけど、かといってどう言えばいいかもわからないんだ」と言われたなら、「YESでもNOでもないなら、どうだということなのだろう?」と新たに想像して、そこから考えられる選択肢を考え出してまた質問すればいい。最初の質問時に比べれば、ずっと対象は限定されている。

選択肢を考えるのは、時間がかかる。選択肢の内容について「意味わからん」とか「テーマをわかってない」などと突っ込まれたらけっこう苦しい(幸いそういう経験はないが)。にもかかわらず、そんな面倒なことをするのは、メールの往復を減らすためだ。相手は多忙な人々だから、込み入った、やり取りに時間がかかりそうなメールだと思われたら後回しにされてしまうかもしれない。しかし「YES/NO/その他」を答えるだけなら、すぐに答えてもらえる確率が上がる。

メールの文章は短いほどいいか? と言えば、ケースバイケースだと思っている。それこそ、「YES/NO」を聞かれただけなら1行で返せるが、それは回答する側だからだ。

質問する側からの情報が少なすぎれば、回答する側は有効な判断をできなくなる。少なくとも、回答するために必要なだけの情報を知らせなければ非効率になる。

だから、ぼくは1回あたりの文章量にはあまりこだわらない。短いほど良いとは思っていない。それよりも、「回答するために充分な情報が揃っているかどうか」を考える。

先方からすれば、1つの案件に関してやり取りをする相手はぼくだけかもしれないが(1対1の関係)、scholaのように1冊の中で何人もの著者や関係者がいる場合には、一人で複数人とこうしたやり取りをすることになるので(1対多の関係)、「さっきのメール、どういう意味ですか?」みたいにメール自体の意味について質問し合うような事態が生じたら作業量が何倍にも増えてしまう。

scholaに参加したての頃は、いわゆる即レスというのか、いつ連絡が来てもすぐに返すようにしていた。真夜中でも、早朝でも、夕方でも、通知が鳴ったらすぐに返した。そうすべきだと思ったのでもなければ、そうしたかったわけでもなく、そういうものなのだと思っていた。それに、5分で返せるものを半日も1日も放置していたら、そのぶん進んだはずのプロジェクトが停滞してしまう。これに耐えられない。5分で返せばすぐに次のフェーズに移れる。そのスピードを重視していた。「いつ寝てるんですか?」とよく聞かれたが、そのことを少し誇らしくも感じていた。

しかし、そんなことを昼夜問わず、盆暮れ正月もなくやっていたら体がもたない。即レスではあっても、内容をおろそかにはできず、何周も読み直してから返信していたのだ。

スピードと内容のどちらもは取れない。と思って、両者を天秤にかけて、即レスにはこだわらないことにした。今は大体、メールをもらったら早くて同日中、それができなくても翌日の同じ時刻ぐらいまでに返せば充分、という感覚で対応している。

ただし、即レスを悪しきものとしているわけではないので、すぐに返せる場合は返しているし、相手が困っているようなときは優先している。逆に、プライベートの相手なら仕事よりも優先度が低い。これはすでに信頼関係があるから。

返事に時間がかかりそうだ、と思った場合には、初めに連絡を受け取ったことだけを返信しておく。これは調べ物を伴う場合などに多い。「要件は了解。調べる必要があるので、*曜日の*時頃までにあらためて連絡します」という風に、次の返信タイミングを予告しておく。この予告はなかなか効果的で、ぼくのような人にはお勧めできる。簡易的・心理的なリマインダー設定になっていて、不思議なことだが、大体予告どおりに終わるのだ。

この予告メソッド(と今名付けた)は、Slackなどのチーム内チャットでもよくやる。「15時ぐらいまでに確認してレスします」とか、よく言う。すると、14時53分ぐらいに完了している。半ば偶然だが、半ば当然なのかもしれない。

大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

commmons: schola vol.17 Ryuichi Sakamoto Selections: Romantic Music(2枚組)

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eメールの達人になる

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