103

ヴェルク株式会社に入社しました

2018年11月1日、ヴェルク株式会社(Velc Inc.)に入社しました。

www.velc.co.jp

会社と職種の概要

ヴェルクは日本武道館から程近い、東京は九段下に居を構える小規模なIT企業です。

事業内容はいろいろありますが、簡単に言うと、

ヴェルクは、システム開発・データ分析等の受託開発と
業務・経営管理システム「board」を提供している会社です

ということになります。(上記コーポレートサイトより)

こちらの会社でぼくが何をやるのかと言うと、上にも出てきました自社サービス「board」のカスタマーサポート、いわゆるCSです。

the-board.jp

IT企業で、それもCSなんて言うと、今までやってきたこととあまりにも違うようで、これまで積み上げてきたものはどうするの? みたいな反応をもらうこともあるのですが、ぼくは美大の油絵科に2浪で入って、卒業してからはペンキ塗りをしたり、レストランで皿洗いをしたり、かと思えば20代の最後に突然菊地成孔さんの私塾(ペンギン音楽大学)に通い始めたり(それも音楽理論! 転調という概念すら知らなかったのに)、かと思えば後藤繁雄さんの編集スクールに通い始めたり(ペン大に入った翌年)。つまり、メチャクチャ。

坂本龍一さんの音楽全集企画「commmons: schola(コモンズ・スコラ)」に後藤さんから呼ばれて参加したのは、32才の真冬でした。それから退任までの10年間にもさまざまな「メチャクチャ」を体験してきましたが、でもぼくにとってはそれが一番自然というか、導かれるように興味のある道を選んできた結果で、ヴェルクに入ったのもそういう意味では一貫しているんじゃないかなと思っています。

ヴェルクを知ったきっかけ

ぼくがヴェルクを知ったのは、時雨堂という会社を経営している @voluntas さんのTwitterで、たびたびヴェルクや社長の田向さんが言及されていたからでした。

ぼくは以前から @voluntas さんのツイートや文章(とくに「時雨堂コトハジメ」などのGist上のドキュメント)が好きでよく読んでいて、面白いなあ、尊敬するなあと思っていましたが、その @voluntas さんのツイートでヴェルクやそのサービス「board」が肯定的に言われることがあって、それでその会社やサービスを知るようになりました。

ちなみに、その @voluntas さんを知ったのは、こちらもぼくが尊敬する編集者の鹿野桂一郎さんTwitterでよく @voluntas さんとやり取りをしていたからで、だからぼくの中では「鹿野さん→ @voluntas さん→田向さん」という順番で、「この人は信頼できそうだ」という信頼の連鎖が繋がっていった感覚があります。

応募に至った経緯

そのようにして知ったヴェルクでしたが、もちろん初めから自分がそこに入社するなんて思っていたわけではありません。

上記のような理由で、ぼくがヴェルクや田向さんの情報を目にするのはTwitterが大半でしたが、当初から田向さんのツイートには共感するところが多くて、「こんなに離れた世界に住んでいるのに、考えていることはずいぶん近くて面白いなあ」と思っていました。

しかし7月のある日、田向さんの以下のツイートを見たときに、その「こんなに離れた世界」という距離感が一気に縮まったと思います。

この中の、とくに以下の部分。

限られた情報からユーザさんの状況ややりたいことを推測・理解して、業務に合わせて適切に説明できる

これって、ぼくがいつも編集の仕事をしているときに、著者さんや制作メンバー(坂本さんや小沼純一さんや浅田彰さんなど)に対して何をどう説明するか、というところでいつも考えていることに近いんですよね。

相手が何を思ってその発言に至ったのか、表に出てくる言葉は確かに動かぬ事実としてそこにあるんだけど、その言葉が「本当に発言者が思っていること」なのかっていうと、まあヒントにはなるんだけど、そのまま受け取ると壮大な誤解に陥ってしまうこともあったりして。

言葉のとおりに解釈しても、相手が思っていることと違えば仕事に支障をきたすわけで、「だって相手がそう言ったんだもん(だから俺は悪くない)」なんて言っても誰もトクしないので、だからリソースはもの凄く使うけど、「相手が何を思ってそれを言っているのか」を全力で想像しながら、対談記事の言い回しをこちらで調整したり、込み入ったメールを書いたり、それを何度も繰り返して物を完成させていく、というのが思えば10年間ずっとぼくがやってきたことでした。

なので、上記の田向さんのツイートを見て、「これ、ぼくでも出来るかもなあ……」と思ったのは、ぼくにとってはけっこう自然だったというか。

そしてその後、以下のツイートを見て、

へえ、また地味なページをしっかりメンテナンスしてて偉いなあ〜……って、そのときは上記のCSの話は一旦忘れていたんだけど(2週間ぐらい経っていたので)、エンジニアの募集ページってどうなってるのかな、と興味を持って見にいった先でCSの募集ページもあることに気づいて、「あ、例の件」と思い出して、それから程なくして応募に至った、という次第でした。

入社後1週間の感想

冒頭に書いたとおり、入社したのは今月1日ですが、実際には入社以前に請けていた編集仕事がまだ残っているので、現在は出社日を少なめにして、編集仕事との掛け持ちをしています。

そのように、並行稼動ながらも1週間出社して思ったのは、とにかく何から何まで新鮮、そして最高だな、ということです。田向さんはもちろんのこと、他の社員さんも皆イイ感じです。若い人が多くて、もしかするとぼくが最年長かも? と思うほどです。

ぼくは以前から、自分より若い人との仕事の相性が良かったので、会社でもその雰囲気を感じるというか、気楽というか、根拠のない理不尽な誰かのマイルールに振り回されるようなことも少なそうで、いわゆる心理的安全を感じているところです。

そして、そのような中で切実に思うのは、「今をピークにしたくないな」ということです。何しろ会社に応募して、採用されたばかりの頃というのは、喩えて言うなら恋愛結婚の直後のようなもので、お互いに相手の良いところや期待するところしか見えていないというか、逆に言うと、そこから先は減点方式みたいにならざるを得ないのではないか、みたいに思ってしまうんですが、一方で我々は、まだ知り合って間もないお見合い結婚のようなところもあるので、お互いの「今まで知らなかった良いところ」を見つけ合って、1年後には今以上に相手を信頼できているような、そんな関係を作っていけたらいいなと思っています。

編集的な仕事

同社では、ぼくが今までに培った経験を生かして、会社に関わるドキュメント類の整備・洗練などもやっていく予定です。わかりやすいところだと、boardのヘルプとか、その他のサイト上の文言とか。

ぼくはこういう、アイロンでシャツのしわを伸ばすような、地味だけど精神が上向くような作業が非常に好きで、かつこれまで本業としてやってきたことでもあるので、こういった部分で貢献できるのは嬉しいことです。

考えてみると、今まではそういう作業のメソッドだったり、考え方みたいなことを他人に伝える機会ってほとんどなかったので、その辺でどういう作用が生じるのか、今から楽しみです。

それから、これまで個人でやってきた編集やライティングなどの受注仕事ですが、上記の仕事がある程度落ち着いてきたら、ヴェルクの方に影響を与えない範囲で、部分的に再開することもあるかもしれません。

やっぱり世界で活躍するクリエイティブな人たちとの仕事というのはかけがえのないもので、そういう機会が自分の存在全体を塗り変えてしまうような面白さを持っているのも確かなので、今後の巡り合わせによっては、またそういうこともするかもしれないな、と。

あとは、ぼくがCSをやるそのboardというサービスは、見積書や請求書などをクラウドで作成&送付したり、売上分析をしたりできるものなので(一瞬宣伝でした)、自分が一人のユーザーとしてそれを使うことで、いわゆるドッグフーディングというか、開発陣に対してリアルなフィードバックをしたり、自分がお客さんに回答するときの助けになったりするんじゃないかな、という目論見も少しあります。

とはいえ、その辺はまだ先の話で、まずはboardのCSに集中することになると思います。非常に奥深く、なかなか一筋縄ではいかない、有機的で、即興的で、これはこれでまたクリエイティブな、やり甲斐のある仕事だと思います。

終わりに

ということで、前回の退任エントリーに続いて、入社エントリーを書きました。

こういうとき、エンジニアの人だとAmazonウィッシュリストを記事の最後に置いておいて、仲間や知り合いからお祝いを募ることがあるようですが、入社エントリーというのは、まだこれからどうなるのかまったく保証できない状態とも言えますから、この段階でお祝いを募るのはちょっと気が引けるな……と勝手に心配していました。

よって、もし1年後に、まだイイ感じで会社づとめを続けていられたら、その時にまた報告エントリーを書いて、そこにウィッシュリストを置いてみようかなと思っています。その時には、ぜひ何か良いものを買ってお祝いしてください(笑)。

あらためまして、これまでお世話になった皆さん、ありがとうございました。
そしてこれからお会いする皆さん、よろしくお願いします。

commmons: schola を卒業します

2008年9月に発売された第1巻「J・S・バッハ」から、今年3月に発売された第17巻「ロマン派音楽」まで、10年にわたり携わってきました坂本龍一さんのCDブック音楽全集『commmons: schola(コモンズ・スコラ)』の編集担当をこのたび退任することになりました。

今までお世話になりましたスタッフの皆さん、坂本さんをはじめとするコアメンバーの皆さん、各巻のゲストの皆さん、執筆家・アドバイザーとして関わってくださった専門家の皆さん、デザイナーの中島英樹さん、第1巻から13巻まで校正を担当してくださったアサヒエディグラフィさん、第14巻『日本の伝統音楽』以降の校正を担当してくださったキモト読物工舎さん、印刷会社のプロストさん、音楽業界では異例とも言える、会社同士の枠を越えて音源や資料の提供にご尽力くださったレコード会社各社の皆さん、そしてぼくをこのプロジェクトに呼んでくださった後藤繁雄さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

読者の皆さんにも感謝しています。ぼくがscholaを作るときにいつも考えていたのは、読者のことでした。

なにしろ税別で8,500円の商品です。17巻に至っては、2枚組ということもあって税込みで1万円を超えてしまいました。これだけのお金があったら、他にもできることがたくさんありますよね。でも、それをせずにscholaを買ってくれた読者の皆さん。中には、1巻からすべて揃えてくれている人もいます。

ぼくは、そういう人たちを大切にしなければならないと思ってきました。それは義務を負うような感覚ではなく、この人たちを大切にしないでいられるわけがないという、「当たり前に大切なのだ」という感覚でした。

お金を払うということは、命を削る行為だと思います。上にも書いたとおり、そのお金でご飯や着る物を買うこともできるわけですから。その大切な元手を使って、scholaを買ってくれる人たちがいました。
そのような人たちのために、ぼくが自分の使命として考えていたのは、次のようなことでした。

  • 坂本さんの濃度を、坂本さんと読者の間に入る自分が薄めないこと。
  • 坂本さんが心から良いと思うものを作ること。

ぼくは坂本さんが満足するものを作りたいと思っていました。それはもちろん、坂本さんのためになることであり、坂本さんのためにやることでもありましたが、でも本当に大事な目的はその向こうにあって、読者が喜ぶのはそういうものであるはずだから、だからこそ、それを作らなければならないと思っていました。

「坂本さんが心から良いと思うもの」は、坂本さんに喜んでもらえるだけでなく、読者に喜んでもらえるものになると思っていました。ここで言う「読者」には、今を生きる人たちだけでなく、これから生まれてくる人たちも含まれます。その新しい人たちは、今とは違う価値観や、社会の空気の中でscholaに触れるでしょう。今を生きる人にも、未来を生きる人にも届くコンテンツを作るためには、ただひたすら、坂本さんが「良い」と思うものを作ることに集中するしかないと思っていました。

結果は……どうだったでしょうか。わからないですね。もちろん、たくさんの時間や労力を注いできましたが、どこまで限界に近づけたのか、どれだけ突き詰めて作業をできたのかといえば、確たる自信はありません。

でも、手は抜きませんでした。「もっと誠実に作れたかもしれない」とは、少なくとも今のところ、どの巻に対しても思っていません。もっと良いものはできたかもしれないけれど、それは自分が担当している間はできなかっただろうと思っています。

commmons: scholaは、現在も制作が続いています。ぼくの後任は決まっていて、すでにバリバリ制作に入っています。後任はすごいです。こういうときには、前任者が「後任は自分よりすごい」と言うのが常ですが、本当にぼくよりすごいです。18巻以降、scholaのクオリティは必ず今までのそれを超えます。

退任の理由について、どう書いたらいいか、いま手を止めて少し考えましたが、「一身上の都合」と言うのが一番適切かもしれません。様々なタイミングが合ったのだと思います。「17巻で交代」と言うとめちゃくちゃ中途半端に聞こえますが、「10年」と言えばこの上なくキリが良いようにも感じられます。

任を離れるにあたって、「卒業」と表現するのはいかがなものか? と少しは思いました。それってなんだか、現場の大変な部分を誤魔化したり、美化したりしているようではないか? と。でも、scholaは「音楽の学校」ですし、ぼく自身にとってもやはり「音楽の学校」でした。

scholaの仕事をしていなければ知りえなかったこと、出会うはずもなかった人たちとたくさん出会いました。知らないジャンル、知らない時代、知らない地域、知らない人々による演奏や録音、文献に触れ続けた10年でした。それもこれも、まずは何よりも先に坂本さんのフィルターを通した候補曲や話題があって、そこから始まる音楽の旅でしたから、いつもこの上なく効率が良かったですし、しかし1ミリ先には常に知らないものが待っているという、猛烈にタフで、刺激的な旅でもありました。知らないことに触れ続け、音楽を通して人や自然を学び続けた10年でした。そんな学びの場から離れるわけですから、やはり「卒業」で良いのでしょう。

11月からは、今までとは異なる環境で、次の活動をスタートします。これについては、またアナウンスをします。

これからのscholaを楽しみにしていてください。これまでのscholaがなければ実現しなかった、でもこれまでのscholaでは見ることができなかった、新しい世界への入り口が示されるはずです。ぼくも楽しみにしています。

commmons:schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

多数派は奪われる

時々読み返している森博嗣さんの日記本で、以下のような文章に出くわした。

セクハラが話題になるごとに感じますが、森よりも上の世代は、やはり子供のときからの環境がどっぷりセクハラ社会だったために、よほど意識が高くないかぎり、ほとんど罪悪感を持っていない、という人が多いようです。口では「最近はセクハラになるからね」と言って苦笑し、でも心の中では、「何が悪いんだ?」と反発しているわけです。たとえば、小学校のときには、スカートめくりなんてものが普通に行われていた社会でした。「短いスカートを穿く方が悪い」「女性だって喜んでいるはずだ」と本気で信じている世代なのです。それを怒る女性を、変人のように見てしまうわけです。
(略)
男女平等などの流れで、「女性ばかりを優遇しすぎではないのか? それでは平等ではない」と反発する声もあるのですが、これは、これまでの歴史を知らない発言だと言われてもしかたがないでしょう。つまり、それくらい女性を優遇する仕組みを押し出しても、まだまだ平等ではない、という歴史です。真っ直ぐ走るためには、ハンドルを真っ直ぐにすれば良いわけですが、今まで右に進んでいたら、左にハンドルを切らないと真っ直ぐにはなりませんからね。
(略)
テレビなどで男性のタレントが、なにげなく話している内容、ちょっとふざけたときに出る言葉、そして態度などに、ときどきもの凄く不快なものがあって、それらは、たいてい上記の「勘違い世代」に根ざした「無意識」です。そういった世代に育てられて、同様の感覚を持たされた若者もいることでしょう。テレビ局はよくああいったものを電波に乗せるな、と思います。おそらく見ている人の大半が、その世代なのでしょう。結局はジェネレーションが変わるまで待たないといけない、のかもしれません。特に悲観的になっているのではなく、言いたいことは、「昔は風紀が乱れていたな」ということです。
(※太字は原文ママ/2001年12月27日の日記より)

ハンドルの喩えはとてもわかりやすい。明快にして適切。自分の中でも感じていた、でもうまく表現できていなかった現象をあっさり言い当てていて、やはり森さんはすごいなと思わされた。

とくに悲観的になっているわけではない、という部分にも共感する。現状を肯定するわけではないけれど、少しずつ良くなってきていることは確かだと思える。

少し似た話で、以前にTwitterで見た以下の表現もこの辺の状況をうまく言い当てている、と思った。

2ページ目にある、ピラミッド型の図説は上記のハンドルの喩えとつながるところがある。

自分なりの言い方でこういった現象を説明すると、「多数派はつねに奪われる」ということになる。

多数派に所属する人は、多数派ゆえの優遇を受けていながら、自分が優遇を受けているとは認識していない(または認識しづらい)。だから、その優遇が抱えている不当さを解消しようという動きが始まると、「すでに平等であるはずなのに、なぜ自分だけが利益を奪われるのだ?」と反発してしまうのではないか、と想像している。

客観的に見れば、「いや、あなたはこれまでわけもなく優遇されていたのであって、それを平等に戻すのだよ」ということになるのだけど、優遇を受けている側からすれば、自分が優遇されているという感覚は持っていないし、社会はすでに「平等」になっている。

タバコの問題にはそれが象徴的に表れている。

受動喫煙を減らそうとか、路上喫煙はやめましょうとか言っても、昔はどこでも気にせず吸える方が「普通」だったわけで、普通のことができなくなれば、その普通による利を享受していた人にとっては、自分が「普通よりマイナス」の環境に追いやられたと感じても不思議はない。

夫婦別氏制度の議論についても似た状況があると感じている。客観的に考えれば、見ず知らずの夫婦が異なる氏(姓)を名乗ろうともそれで不利益を被る人などいないように思えるけれど、夫婦であれば誰もが同じ姓を名乗ることが普通だった社会で長く過ごし、その一員であった人の中には、その「普通」を構成するメンバーが減ることに不安を感じる人もいるかもしれない。よその夫婦が異なる氏(姓)を名乗ることに反対するのは、その「多数派であるところの自分を支えていた状況」が崩れることへの不安が作用しているのではないかと思っている。

しかしながら、いずれにしても、多数派とは物事を任意の範囲で切り取ったときに生まれる暫定的な割合のことであって、もともと不変のものではないだろう。人々の嗜好(指向)や傾向、属性といったものは細かく見ていけば必ずどこかズレているはずで*1、そのズレを「大体同じ」と見るか「全然違う」と見るかの問題であるとも思える。

ちょっとのズレを「いいじゃん、同じで」とひっくるめれば多数派が形成され、その中でもとくにその特性にフィットする人は優遇を受けられるが、「違うんだけどなあ・・」と感じる人は不利益を被ることになる。

逆に、そのちょっとのズレに注目して、違いを価値としてアピールしたり、そこにビジネスチャンスを見出したりする人が増えると、多数派は多数派を保持することが難しくなるかもしれない。そして基本的には、人の指向や傾向といったものは細分化されていくものだと思える。件のタバコにしても、ぼくが子供の頃にはそれほど選択肢はなかった。ハイライトならハイライトだけ。マルボロならマルボロだけ。それが次第に、同じブランドでもマイルド系、ライト系などちょっと軽めのものが出てきて、やがてウルトラマイルド、スーパーライト、3ミリ、1ミリ・・どこまで刻んでいくのかと思っていた。

「大体同じ」から「細分化」への動きはおそらく止められない。人間が自らの快適さのためにそれを求めている。そして細分化されるごとに新たな多数派が生まれ、その多数派はまた奪われる。

*1:同じ人間ですら、時間が経てばかつて好きだったものを嫌いになったり、その逆になったりする。