103

2019年4月の音楽

音楽、なんだかんだでよく聴いてる。

アドビの安西さんがTwitterで紹介されていた↑を見て、うは、面白いな、と思ってしばらく見ていたら、キーボードもそうだけどとにかくベースの人がカッコイイ。

で、このカッコ良さはどこかで見たなあ・・と思ったら、岸野雄一さんが以前にTwitterで紹介されていたこちら。

Sam Wilkesさんというんですね。とにかく目が離せない・・。

ちなみにそのSamさんは出てこないですが、別のSamさんが出てくるLouis Coleのこのビデオもカッケー!!

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さて、冒頭のScary Pocketsに話を戻すと、とにかくそういう超カッコイイカバーが目白押し。

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ということで、ここからはその彼らのチャンネルで「これは・・」と思った好きなやつを並べます。

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とりあえず一番はこれ。↑こんなに何度も聴き返しているのは去年紹介したThe Internetのビデオ以来かも。

note103.hatenablog.com

その次によく聴いてるのはこれ。↓

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この歌ってるRozziという人がすごすぎ。なんなん!

ちなみにこれらからもわかるとおり、このScary Pocketsって固定のボーカルはいなくて、曲ごとにいろんな歌手とやってるみたい。

それからこれもよかった。

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ウケる・・。

あとこれ。

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先ほどのRozziさんですけども。

あとこれとか。

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止まらない・・最後にもう1個。

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これはもう曲がいい。原曲はケイティ・ペリーさんですか。サビの転調が異常!今時のポップミュージックはこんなんかい!と思ったけど、じつは原曲の方はそういう感じではなく・・異常な雰囲気はカバーの方が勝手に色付けた感じみたいでした。

しかし総評として、とにかくボーカルがすごい。アレンジも演奏もすごいんだけど、ボーカルを聴くとそのなんというか「違い」みたいのが明らかというか。明らかな「何か」がある。ああ、なんというか、知らないことばっかりなんだな・・自分、という感じ。こんなすごい表現者がゴロゴロいるんだなアメリカ・・という感じ。ケタが違う。

ぼくは最近、会社づとめを始めた副次的な影響でお昼ご飯をよく食べるようになったんですが、以前だったらカップラーメンとかコンビニ弁当で済ませていたようなところ、会社があるのはオフィス街みたいな感じなので、飲食店が店の前で売ってる弁当をよく食べるんですが、同じ「弁当」でも全然レベルが違うんですよね。

とくに中華屋さんが出してる弁当はいちいち本気っていうか。コンビニ弁当との圧倒的な違いがあって。その違いって何だろう、飲食店が出す弁当には「何か」があるとも言えるけど、もう少し具体的に言うならおいしい弁当にはいつも「驚き」があって。ぼく的にはその驚きというのがいわゆる「感動」なのかな、と。

いつもその中華屋さんとか、インド料理屋さんが出す弁当の料理をひと口食べたときに思うのが、別に変わった食材とか種類の料理じゃなくても、普通の野菜炒めみたいなやつでも、何か他にはない手がかかっていて、口に入れたときに「あ」って一瞬体の機能や挙動が止まるような、時間が止まるような感じがあって、「なるほど〜・・」みたいな。知らなかった、こんな味があるんだ〜・・みたいな。

それで話を戻すと、上記の一連のお気に入り動画・演奏にはいちいち「そう来たか〜・・」っていう驚き、新鮮味、それまでに体験したことがないような何かが提示されていて、それで見た時・聴いた時に体全体が一瞬止まってそのまま記憶しちゃうみたいな、そういうすごさがありました。

コンビニ弁当とか、ある種のポップミュージックの場合は(べつにそれらを悪く言うことによって好きなものを引き上げたいわけではなくて、単純にその違いを描写するために言うんだけど)、そういう驚きみたいなものはなくて、「うん、そうだね、こんなだよね、知ってる」みたいな。けっしてまずいとか不快とかではなくて、むしろよく出来てるなって感心するぐらいなんだけど、ただそれって同時に淡々と目の前の文字を機械的に読み上げていくだけみたいな、「作業」として体験しているような。そういう感じがあったんだな〜・・って、その驚きがある方のそれらを体験したことによって後から気づくみたいな。そういう感覚がありましたね。

逆に言うと、そういう比較対象としてのスゲーものに触れる前は、本当にべつにコンビニ弁当を味気ないものなんて全然感じていなかったんだけど。後から気づかされる感じ。・・ってこういう話を以前にもしたような・・いつだっけ。ああ、思い出した、プログラミングの話だ。このページですね。

https://speakerdeck.com/note103/the-non-programmers-programming-techniques?slide=30

ともあれ、まあそう、まだ音楽、聴いてますね。知らないものばっかりだ。知っていると思っていたものの中にも知らないものはあるし、今回みたいにそんなものがそんなところにあるとも知らなかったようなものもあるし。

ひとまず現在進行形の音楽状況をメモしておきました。

ヴェルク株式会社に入社して3ヶ月が経ちました

昨年11月にヴェルク株式会社に入社して、12月以降はフルタイムで出勤しています。

*入社時のエントリーはこちら。 note103.hatenablog.com

その12月から数えて3ヶ月が過ぎたので、現時点での印象その他、考えていることを書いてみたいと思います。

自由

入社して一番変わったのは、「自由が増えた」ことだと思います。

会社員からフリーランスになって「自由が増えた」ならわかりやすいですが、その逆なので「え?」と思う人もいるかもしれません。

でも、たぶん何割かの人は「だよね〜」と言ってくれる気もします。フリーランスはたしかに「自由」な働き方で、朝は遅くまで寝ていられるし、満員電車にも乗らなくていいし、そういう意味では素晴らしいわけですが、じつは同時に、少なからぬ不自由というか、制約にも覆われていると思います。

まず、基本的には何から何まで自分でやらないといけません。スケジューリングや各所との連絡などの仕事に直結することはもちろん、請求書を作ったり、確定申告をしたりといったいわゆるバックオフィス業務も自分が担当者ですし、仮に請求を忘れても「請求漏れてるよ」なんて言ってくれる人はいません。

稼いでくれるのも自分だけです。稼いだ分を使えるのも自分だけですが、閑散期に他のメンバーが稼ぎを補充してくれるようなことはないので、その「自由に使えるお金」にも限りがあります。

言ってみれば、フリーランスとは「自分」という社員を食べさせるために「自分」という会社を経営しているようなもので、経営に興味がある人なら面白みを感じられるかもしれないですが、とにかくやることが多くて、一部の業務だけに集中できないのがつらいところです。

いわゆる不労所得というのか、たとえば過去に書いた原稿の印税が何もしなくても入ってくるような状況ならばともかく、ぼくの場合は働かなければ何も入ってきません。

誰も「働け」なんて言ってこないので、毎日寝ていることも可能ですが、そうすればするだけ次の収入が遠のくので、実際にはそんな恐ろしいことはできません。むしろ考えようによっては、毎日が出勤日です。24時間x365日、少しでも収入を確保できるように作業する、という感じの毎日でした。

言い換えると、フリーランスって毎日を休日にすることもできれば、毎日を出勤日にすることも可能で、ぼくはほとんど後者だったということですね。

会社に入って一番変わったのはその部分です。会社では、「ここからここまでが勤務時間。あとはお休み」ということが決まっています。フリーの時のように全部を自由時間にすることはできなくなりますが、その代わりに全部が勤務時間になることもなくなります。

時間だけでなく、収入の位置づけも変わりました。フリーのときは、次の仕事が決まるまでは収入のアテがないので、何か買いたいものがあっても「一旦保留」が当たり前でした。仮に口座にある程度の余裕があったとしても、「とりあえず買わないでおく」方が安心なんですよね。

でも会社に入って、その方針も変わりました。今は、次の仕事が入るかどうかという基準ではなく、純粋に「それが必要なのかどうか」という基準で考えて、必要ならパッと買ってしまいます。これってまさに「自由が増えた」感じだと思います。

カスタマーサポート

今まで自分が携わった商品についてお客さんとやり取りすることなんてほとんどなかったので、「カスタマーサポートなんてできるかな……?」という不安も少しはありました。

しかし幸いなことに、始めてみると自分でも意外なほどスムーズに適応できているように感じます。

ぼくがサポートチームの一員として、実際にお客さんへの回答を始めたのは1月半ば頃だったと思います。本格的に勤め始めた12月から数えると、1ヶ月ちょっとの準備期間を経ての始動となったわけですが、それにしては、大きな適性のズレや致命的なミスなどがない状態で対応できていると思います。

サポート業務への順応が思いのほか早かった理由は、以前のフリーランス編集の仕事というのが結局のところ、すべての関係者に対するカスタマーサポートみたいなものだったから、ということではないかと思っています。

ライターさんや、座談会の参加者の皆さんなどに要件を提示した上で、考えられるかぎり最少のやり取りで原稿を回収する。というのがぼくが10年続けてきたことで、そのときには常に「相手の中の常識」と「こちらの常識」との差分を確認しながら、いかにして双方共通の常識を構築し、その上に双方共通の目的を満たす成果物を実現できるか、ということを考えていました。

ここで必要なのはとにかく「想像力」で、相手が今どこにいて、その相手はこれからどこに行けるのか、こちらが求める方向に行けるのか、行けるならどう導けばいいのか、行けないならどうすれば行けるようになるのか、といったことをいつも想像している必要があります。これがまさに、カスタマーサポートそのものだったな、と。

実際にサポートの仕事を始める前は、いわゆるクレーム対応のような感じもあるかな、と想像していました。怖いお客さんに責められるような場面もあるかしら・・と。でも実際には、そういうことはほとんど皆無で、お客さんはどなたも丁寧で感じが良いです。

これはたぶん、boardが中小企業や個人事業主のような社会性のあるお客さんに使われているからで、言い換えると、BtoCではないBtoBの業態であることによるのではないかと思っています。

質問者は誰もが個人としてではなく、会社の看板を背負って問い合わせをしてくるので、一定のプロトコルというか、連絡作業をする上での暗黙の取り決めみたいなものをきちんと踏まえていて、その分対応しやすいのかなと。

ちなみに、ぼく自身はユーザ・お客さん側に立った場合にけっこう怖い、難しいお客さんになると思っています。ちょっとでも誠意に欠けるような態度を取られたら、すぐカチンと来るみたいな。

で、ぼくはすべてのお客さんが自分のような難しいお客さんである、という前提を持つようにしています。なぜなら、人間って本来そういうものだろうと思うからです。だから余計に、実際の丁寧なお客さんを前にして、思いのほかやりやすさを感じている、ということなのかもしれません。

編集

カスタマーサポートのかたわら、boardのヘルプをはじめとするテキスト編集の作業もやっています。

これに関連して、一番象徴的なのはヘルプのバージョン管理が始まったことで、これについては田向さんの以下の記事が詳しいです。

tamukai.blog.velc.jp

じつはこれまでのフリーランスの編集業でも、文章はGitで管理していました。

具体的には、GitとBitbucketですね。最近ではGitHubも無料でプライベートリポジトリを使えるようになりましたが、以前はそうではなかったので、Bitbucket一択でした。

Bitbucketを使っていた理由はいくつかありますが、一番は差分が見やすくなるということです。

上記の田向さんのブログでも、この話題に触れたぼくのコメントを掲載してもらいましたが、結局文章の編集って、1文字単位の細かさで、かつ膨大な変更を繰り返していくものなので、どこを変更したのか自分で覚えていることなんてできません。

なので、ひとしきり修正してプッシュしたら、それをブラウザのBitbucketの画面で眺めながら、「ああ、ここを直したんだな」と確認していきます。これができることがそれらのツールを使う一番の理由でした。

そういったことを以前からやっていたので、今回のヘルプのバージョン管理にしても、これといった問題もなく取り組めていると思います。

編集関連でもうひとつ言えるのは、フリーランスのときとは「編集」の内容がだいぶ違うということです。

というのも、フリーランスのときの編集作業ってそれこそフルスタックというか、あれもこれも全部やるみたいなところがあって、とくに大きな比重を占めていたのは、著者さんをはじめとする関係者との連絡作業でした。

この連絡の大半はメールですが、とにかく朝から晩までメールばっかり書いていた、という印象があります。

逆に、著者さんからもらった原稿を精読したり、編集したりという、一般の人が「編集者の仕事」としてイメージするような作業はほんの数割で、なんというか、そういうのはオマケみたいな、ご褒美みたいな感じでようやくできる、みたいな感じがありました。

ぼくが今ヴェルクでやっている編集作業はその逆で、まさにその「いわゆる編集者的な作業」が7〜8割ぐらいで、残りの数割がGitやSourceTreeを使ったプルリクエストのやり取り、という感じだと思います。

このGitを使った作業も非常に面白いです。ぼくは今までそれを「だいたいの感覚」でやっていたのですが、どうすればどうなるのか、ということがここ数週間でだんだんわかってきた気がします。

しかも、普段から開発でGitやプルリクエストを使っている本職のプログラマーにそのやり方を教えてもらっているわけで、こんなに効率的で面白いことはありません。

副業

ぼくは今まで坂本龍一さんの音楽全集や、山口県山口市のアートセンター「YCAM(ワイカム)」のWebページ編集といった、美大生の頃の自分に聞かせたらひっくり返ってそのまま起き上がってこれなさそうなぐらい素敵なお仕事に恵まれてきましたが、とはいえ、それだけで今後もずっと食べていけるとは思っていませんでした。

そういうワクワクできる仕事がある一方で、あまり気乗りしない仕事でも進んでやっていかないと、生きていくことはできないな、と。フリーランスのときにある意味で一番不安に感じていたのはそのことでした。

気乗りしない仕事であっても、生きていくためにはやる必要があって、しかしそれをやっていれば、本来やりたかった方の仕事は手薄になります。いわば限られたリソースをそれぞれの仕事が取り合うかたちになって、結局どちらも中途半端になるだけではないか・・と。

でも会社に入って、その「食べるための編集仕事」はする必要がなくなりました。もちろん使えるリソースも大きく減りましたが、とはいえ今後仕事に慣れるにつれて、多少はその余裕も増えてくると思っています。その時には、あくまで副業のレベルではありますが、純粋に自分が興味を持っている分野の仕事だけを引き受けられるようになるのではないか、と期待しています。

その他

この記事を書くにあたって、事前に考えていたトピックは以上です。

でも上記を書きながら、「ああ、あとこんなこともあったな」と思い出したことがいくつかあったので、以下に書き足しておきます。

風邪をひいた

フリーランスのときには、ぼくはほとんど風邪をひきませんでした。

その一番の理由は、普段はずっと自宅で作業をしていて、1年に数回大事な用事がある以外は、ほとんど外に出なかったからだと思います。

それがいきなりほぼ毎日、朝夕ともに満員電車に乗ることになって、おそらく10年以上ぶりに、いわゆる普通のあの風邪をひきました。

ぼくは自分が風邪をひかないことには気づいていましたが、そしてそれはほとんど外に出ないからだろうとも思っていましたが、一方で薄々、自分の体が丈夫だからではないか、とも思ってました。でもやっぱりそうではなくて、単に人混みに行かずに済んだからだった、ということが今回の風邪でよくわかりました。むしろ、簡単にダウンする方だな・・と。

昼食

昼食も入社によって大きく変わったことの一つです。

自宅で作業をしているときは、昼どころか朝もほとんど食べなくて、食事は大体、夕食の1回だけでした。

と言いつつ、それは単に小食というよりは、夕食以外の時間はずっと何かしら(お菓子やパンなどを)間食し続けている、ということなのですが。

しかし会社に出るようになると、大体いつも同じぐらいの時間に昼休憩を取ることになって、また会社のそばには中華・エスニック・洋食その他、いろんな飲食店が立ち並んでいて、なおかつその多くは店の前で弁当を売ってくれているので、とにかくそれらを食べるのが日々の楽しみです。

今まで自宅で昼を取らなかったのは、外出が面倒だったからというのも大きいですが、そういう「食べるのが楽しみになる」ようなお店が近所に少なかったから、という理由もあったと思います。

それに加えて、ぼくはあまり1回あたりの食事で量を食べないので、店内で出てくる量というのはちょっと多くて、その意味でも自分で量をコントロールできるテイクアウトメニューの方がありがたいのですが、基本的にそういうテイクアウトメニューってオフィス街でもなければあまり無いというか、基本コンビニの弁当ぐらいしかないので、だったらナシでいいや・・という感じでした。

それが上記のとおり、毎日あちこちでプロが作ったテイクアウトメニューを食べられるわけで、この嬉しい変化は事前に予想していなかったものでした。

大人の世界

これはヴェルクの特徴というより、社長の田向さんの特徴かもしれないですが、田向さんはアメリカのテキサスの大学を出たというだけあって(・・とも限らないですが)、考え方がすごく合理的で、いわゆる日本的な「空気重視」みたいな要素が薄いです。

もちろん(というか)空気を読めないわけではなくて、それをちゃんと把握はするけど、その空気を基準には動いていない、ということですね。

それの何が良いかというと、「引きずらない」というか、ねちねち考えない、他人の顔色に左右されない、無意味なことに時間をかけすぎない、みたいなことで、「そんなことより意味のある仕事をしよう」みたいなところが、自分とはある意味真逆で、そういう傾向にカルチャーショックを感じるとともに、関わるのが非常にラクです。

この状況をまた言い換えると、「大人になりましょう」みたいな感じ。しょうもないことに割く時間を減らして、意味のあることをやろう、そのためにはみんな自分の頭で考えましょう、他人から指示されるのを待ってないで、自分で考えて自分から動きましょう、みたいな感じ。

ぼくは今までそれなりに、そういう自立心みたいなものはある方だと思っていましたが、ヴェルクに入って、ああ、そうでもなかったな、と思わされました。いやまあ、わかっていたことですが、ようは子供だったな・・と。でもそれじゃ生きていけない、自分で考えて自分で動いていかないと、周りにも損害を与えるし、自分としてもバリューを出していけないな、と。そんなことをよく考えるようになりました。

結局、ぼくがこれまで積み上げてきた能力や経験って、本当に局所的なものに過ぎなくて、ちょっと俯瞰的に周りを見回せば、本当に世間知らずというか、常識がない、井の中の蛙だったんだなと。

いやそんなのわかってるよ、というつもりだったんですけど、でも実際にヴェルクで働いてみると、やっぱり知らないことがめちゃめちゃ多くて、でも中小企業や個人事業主の人たちとも関わるその仕事をしながら、今まで全然知らなかった、自分の人生の流れからごっそり抜けていたいろんな要素を一気に吸収することができて、それがとにかく楽しいやら、ありがたいやら、会社に入って得たいろんな恵みのうち、その「常識知らずだった自分が得た常識」みたいなものはとくに大きなものだなと思っています。

まあ、それを遠い目で振り返るように言っているわけではなくて、今なお吸収中なわけですが。

おわりに

ということで、入社後四半期が過ぎた現時点での感想をいろいろ書いてみました。

半年後、1年後にはまた全然別のことを考えているかもしれませんが、その時にはあらためて、考えや状況をまとめて差分を眺めてみたいと思います。

失敗という御馳走を食べずに捨ててきた

先日、会社の社長がTwitterでRTしていたので知った以下の記事。

simplearchitect.hatenablog.com

すさまじく、すさまじかった。すごい記事。去年も含めてベスト記事。

以前にこのような感覚を覚えたのは以下の記事で、

gihyo.jp

たしか2015年の年末にこれを読んで、今年読んだすべての記事の中でベストだ、と感じたのを思い出したぐらいだから、3年以上ぶりぐらいのそういう、あれだった。

ストーリーについて詳しい解説はしないけれど、とにかく驚いたのは、そこで示される「日本人的な考え方」というもの。それはぼくそのものであり、ぼくをずっと覆い続けてきたものでもあった。

というか、それが普通で、常識で、それが世界、それが人生というものなんだと思っていたけど、そうではなかった、それはあくまで、いろんな価値観や考え方がある中のほんの一部に過ぎなかったんだ・・と相対化されてしまった、そのことに驚いた。

ああ、なんということだ。ぼくはずっと、失敗を恐れ続けてきた。いや、というより、失敗の存在をそもそも見ないように、感じないように、知り得ないように、してきたのだった。そんなものはない、目に入らない、自分の世界にはないものなのだ、と・・。

失敗とは悪いものだと思ってきた。いやそうは言っても、ぼく自身は今まで、リスクをそれなりに取ってきたじゃないか、と言い張る自分もまたぼくの中にはあるけれど、全然そんなことはない、ずっと避けてきた、ずっとやっぱり、失敗なんて無きものなんだと、思おうとしてきたのだと、その記事を読んで初めて(たぶん初めて)わかった。

失敗は、本当は必要なものだった。人生にとって、楽しい人生にとって、豊かで、かけがえのない人生を得るために、絶対に必要なものだったんだと、その記事を読んで初めて思った。知らなかった。ああ、なんてことだ。ぼくはそれを知らなかった。目の前にある、膨大な量の、大変な重さのそれらを、それと知らずに、そんなに大事で貴重なものだとは知らずに、全部捨ててきた。見もしなかった、触りもしなかった、ましてや、絶対に口に入れたりはしなかった。それはかけがえのない、人生を豊かにしてくれる御馳走だったのに。

失敗をしなければ、成功もなかった。それを知らなかった。失敗とは劇場の入り口のモギリのようなものだった。モギリにチケットを切ってもらわなければ、劇場には入れなかったのに、モギリが嫌だからって劇場に入ることを拒んでいた、その中で行われているものを見もしない、聞きもしない、いやそもそもその中で行われていることを知ろうともしなかった。馬鹿なことをした。その向こうに人生があったのに、それをまったく、知りもしなかった。

ぼくは自分がリスクを取っていると思っていた。果敢に失敗を取りに行っていると思っていた。でもそんなことはなかった。ぼくが自ら向かっていった失敗はほんのわずかなものに過ぎなくて、実際にはその何十倍、何百倍もの失敗を事前に恐れ、避けてきた。ああ、馬鹿なことをした。

目の前には、皿に盛られた大量の御馳走があった。それはエネルギーの源で、それは食べ物で、ぼくはそれを食べなければ「生きる」ことができなかったのに、食べなかった、食べずに、全部そのままゴミ箱に捨てていた。

馬鹿なことをした。貴重な人生を捨ててきた。人生は失敗の向こうにあった。にもかかわらず、ぼくは向こうに行かなかった。失敗が怖かったからだ。人生は失敗とともにあったし、楽しさも面白さも豊かさも幸福も全部失敗とともにあったのに、失敗が嫌だからってそれらを全部捨ててきた。ああ、なんてことだ。馬鹿なことをした。ああ、どうしてそんなことを、でも、それに気がつくことができた。その記事はとんでもなく大切な話だった、それを読むことができた、長い記事だったが、途中で読むのをやめなくてよかった、43から44になろうとしている今、それに気づくことができた。人生はまだ終わっておらず、終わる前に気づくことができた、間に合った、もう間に合わないと思ったときにはまだ間に合っているのだと思っていたが、それだった、まだ間に合った、まだ失敗できる。多くの御馳走を捨ててきたが、まだ目の前にはそれが残っている。あと何年生きられるかはわからないが、ぼくの前にはまだそれが残っていて、それを食べることができる、今までそれが食べられるものだなんて知らなかった、だから捨ててきた、でもようやく今までずっと何も食べずにいた人生から、好きなだけそれを食べられる人生になる。

失敗は人生そのもので、いわゆる成功も幸福も、楽しみも喜びも何もかも、それと一緒にあった、それを知らなかったが、それをもう知った。もっと失敗しなきゃいけない。それは入り口にすぎない、失敗とともにその向こうに行ければ、その向こうにあるものにようやく触れられるだろう。