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Twitterとタバコ

  • 近所に最近できたラーメン屋、店員がしょっちゅう外に出てタバコ休憩を取っている。
  • 1本吸って(時には携帯で喋りながら)、終わったら足元に捨ててつぶして店に戻る。
    • 自分の店の前なのに! ポイ捨て!
    • むしろ感心する。
  • 今どき、あそこまでタバコ依存の雰囲気を漂わす人めずらしいな・・と思っていたけど(しかもけっこう若い。せいぜい30代)、ふとそこで思ったのは、僕を含む多くの人が、仕事中にも関わらずポイポイTwitterに投稿している姿である。
  • そのタバコ休憩の人は、きっと店がちょっとヒマになるたびに、同僚に「ちょっとタバコ吸ってくる」と言って店を出てくるのだろう。
  • ラーメン屋でなくても、たとえば外回りのサラリーマンとか、あるいは事務職の人でも、「1本だけ吸ってから次行きます」みたいな感じのことが少なくないんじゃないか、と思う。
    • 実際そういう場面に遭遇したことが何度かある。
  • ぼくはタバコは吸わないし、自分がそういうことをしているとは思っていなかったが、しかし普段コンピュータを使って仕事をしている最中に、「あ、ちょっと思いついたことあるから一瞬ツイートしてくる」みたいなこととか、あるいは自分がツイートしなくても「んー、ちょっと煮詰まったから一瞬タイムライン見てくる」みたいになることは多々ある。
  • それって、まるっきり「ちょっと1本だけ吸ってきます」みたいな感じである。
  • ここに書いたこととも繋がるが

忙しい(はずの)人たちがその一方でボンボンTwitterに投稿しているの、投稿することによって脳内に何か快楽物質みたいなもの(アルコールとか麻薬みたいなやつ)が出ているからだと思うんだけど、そういう研究をしている人っているのだろうか。

  • やっぱりそれって、一言で言って依存ということなのだろう。
  • 今たまたま読んでいる『習慣の力』という本があるのだけど、そこではタバコ依存について、ニコチン自体の依存性というのはけっして高いものではなく(何日だったか、それほど多くない日数で抜ける)、しかし「これを吸えばあんな気持ちになれる」という、「報酬をもらった記憶・感覚」が習慣として体に染みついてしまっているから、そこから抜けるのが大変、みたいな感じで書いてあった。
  • Twitterにもやはり、そういう「ツイートすることによって得られるスッキリ感」というか、脳の報酬系を刺激するものがあって、それを求めて仕事中でも「ちょっと一服」という感じでやってしまうのかな、と思った。
    • この時の「報酬系」というのは、いいねやリプライのようなわかりやすいフィードバックもそうだけど、たぶんそれだけではなくて、それまで自分の頭の中だけにあった発想が外部にリリースされることによって、ある種の安心感というか、それが人類の歴史の一部に刻まれることでささやかな達成感のようなものが得られる、ということもあるのではないかと思っている。
    • その「明快な反応があるわけでもないけど確かに人類の記録として刻まれる感」みたいなことは、ココにも書いたけど、ようは

TLに流れてしまうということは、「べつにそれを見ようと思っていたわけではない人」の眼前にも強制的に置かれてしまう

  • という、その「強制性」とも言えるTwitterの性質が、地味ながら結果的にけっこうな影響を与えているのではないかと思いもする。
  • Twitterはだから、現代のタバコみたいなものと言えるだろう。

習慣の力 The Power of Habit (講談社+α文庫)

習慣の力 The Power of Habit (講談社+α文庫)

てにをはの混乱=視点の混乱

  • 意味のわかりづらい文章のいくつかは「てにをは」で失敗しているだけではないか、とふと思った。
  • 「てにをは」が間違ってる、というのはどういう状況かと考えると、主語が無秩序にコロコロ入れ替わってしまう、ということではないかとこれまたふと思った。
  • 主語が変わると、「てにをは」も変わるし、能動・受動も変わってしまう。
    • 私は手紙を受け取った。→OK
    • 手紙は私に受け取られた。→まあOK
    • 私は手紙に受け取った。→NG
  • 主語が変わるということは、ある状況を描写する際の「視点」というか、何を中心にその現象を描くか(筆者が何に関心を持ちながらその現象を描くか)、という意味での「話の重心」とも言えるものが変わるということでもある。
  • で、その視点とか重心とかをなかば無意識のうちにコロコロ替えてしまいながら(コントロールできないまま)、対象を描写する人というのがいるように思える。
  • 上記のとおり、視点が変われば主語も変わり、必然的に「てにをは」も適切に変換していかなければならないが、それはなかなか面倒というか、煩雑な操作を必要とすることだから、それが追いつかないままリリースされた文章が読みづらくなりがち、ということではないかと思った。
  • 逆に言うと、そのあたりの秩序をある程度保ちながら書かれた文章は読みやすい、ということかもしれない。
  • あるいは、そうした「視点」や「話の重心」が変わったときに、変わったよ、と読者に明示している文章が読みやすい、ということかもしれないが。

片岡義男「ボーイフレンド・ジャケット」

  • 片岡義男さんの「ボーイフレンド・ジャケット」を少し読み返していた。
    • 小説にかぎらず、片岡さんの文章はむちゃくちゃ読みやすい。べつに砕けた喋り方とか口語体とかを使っているわけではなく、どちらかといえばむしろまどろっこしいような、冗長とも言えそうな「〜なのですけど」みたいな言い回しの方が多く感じられるが、論理が綺麗に流れているので、読んでいてギモンが生じない。
    • あれ、この作者は結局なにを言いたいんだ? という無用な迷路にはまらずに済む。
    • 作者が赤と言いたいのでも黒と言いたいのでもよくて、あるいは「自分でもよくわからないんだ」と言いたいのでも構わないのだけど、作者が本来言いたいことを自分で言えてない(黒と言いたいのだけど読者に伝わらない)、みたいな文章は読んでいてけっこう困る。というか、時間が無駄になりやすい。
    • 片岡さんの文章は読んでいてそういう感じにならない。
      • 片岡さんが実際に何を言いたいかはもちろんぼくにはわからない(あるいは読み終えるまで何とも言えない)のだけど、「これ、どういう意味だろう」みたいに思うことがほとんどない。
    • 逆に、「何を言いたいのかよくわからない文章」がなぜ生まれてしまうのかと考えると、たぶん「言いたいこと」や「伝えたいイメージ」というのが強すぎて、それをうまく表現できないまま、うまく表現できていないことを修正しきることなく公開してしまうからではないか、と思える。
      • だとすれば、その気持ちというか状況はよくわかるし、というかぼく自身そういうことはよくある。
    • 片岡さんの場合は、そういう「伝えたいイメージ」のようなものを文章で言い当てる技術が大変高いか、上記のような混乱を上手く収められるまで公開しないか、その両方か、あるいはそのどれとも関係ないのか、どうなんだろう。
  • そうした技術的(?)なことだけでなく、特徴的だと思えるのは、登場人物に紋切り型の性格の人が出てこない、というのがあると思う。
    • 単純な悪者や、正義の人はおらず、出てくる人はみな「自分なりの」考えとかスタイルとかを持っている。
    • いや、それではうまく言い当てられていない。
    • ここで言いたいのは、ほとんどそういう人だけで物語が構成されている、ということだ。
    • 片岡さんの書くものにかぎらず、面白い小説にはどれも魅力的な登場人物が出てくるものだけど、同時に大抵の小説には、読者に憤りや不安を与えるような「悪者」とか、その場限りの脇役などが出てきて、それらがなんというか、読者の想定どおりに動いたり喋ったりしてしまうことが少なくない。
      • 読者の想定通りに動いたり喋ったりするというのはどういうことかというと、他の作品で誰かのやったり言ったりしたことをそのまま使ってしまう、みたいなことで、それ自体の良し悪しよりも、「こういうキャラクターはこういう場面でこういうことを言うだろう」みたいな、『型』から出ない人物であることに問題がある。
      • それの何が問題なのかというと、そこで登場する悪役なり脇役というのは、あくまで「悪役が必要だから」という理由で出てきただけのことで、その悪役が「人間」として扱われていない(描写されていない)ことに問題がある。
    • 悪役が必要だから「悪役っぽいやつ」を出す。あるいはただ偶然そこを通りがかかって、ふとその後の展開を大きく変えるヒントになりそうな一言だけを呟く脇役がほしくなったから「毒にも薬にもならない脇役っぽいやつ」を出す。
      • どこかで見たようなキャラクターが、どこかで見たようなセリフを言う。
    • こういうことをしていると、読者は作品世界から簡単に脱出できてしまう。
    • 片岡さんの作品の中には、そういう登場人物はほとんど(あるいは多分まったく)出てこない。
    • そこには、その作品世界への通行許可証を持った人だけが出てくる。
      • 普段、他の作家の作品に出入りしているようなキャラクターは、そこへ入ってはこれない。
    • と同時に、その人物たちはどこまでもリアルであるように思える。べつに荒唐無稽な、非現実的な人ばかりというわけではない。
      • すぐ隣、電車でシートに座ったらたまたま隣りに座ったその人かもしれない、というような人が出てくる。
  • そして、さらに言えることとして、片岡さんの作品に出てくる登場人物というのは、単に「紋切り型のことを言わない」というだけではなく、すでに登場人物どうしで同じコンテキストを共有している、というようなところがある。
    • 個人的には、その点こそが片岡さんの作品の大きな特徴であるように感じられる。
    • そこで言う「コンテキスト」というのは、文脈とか前提とか言うこともできるが、より言葉を費やして言うと、そのそれぞれの人が人生を生きる上で大事にしていることが同じというか、似ているというか、近いということを指している。
    • 片岡さんの作品の中では、登場人物が皆同じものを人生を生きる上で大切にしている。
    • 一方、現実世界では、むしろそれらをすり合わせることにこそ多くの時間や労力を費やすことになるわけで、その作品の中で実現している世界、行為、会話は、まるで夢のようだ。
      • つまり、それは夢のようだからこそ、現実世界の中で読んで面白いし、現実を忘れられるし、しかし登場する人たちそれ自体は上記のとおり、どこにでもいそうな、もしかしたら自分もそうあることができるかもしれない人たちだから、本を閉じたらなんとなく気分がリフレッシュされて、もう少し頑張るかみたいになりやすいのかもしれない。
    • 本を読んでいる間、現実逃避できるというのは大切なことだ。
      • 昔、中島らもの本を読んでいたら、アントナン・アルトーの引用だったか、
      • > 詩は歴史に対して垂直に立つ
      • みたいなことを言っていた記憶があるのだけど、そこで言う「歴史」はここで言う「現実」であり、「詩」はここで言う片岡さんの作品なのだろうと思う。

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