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嫌いなまま許容する

全人類と仲良くする必要はないし、できない。その努力も、取り組みもしない。

一方で、全人類と仲違いすることも難しい。きっと誰かとは、上手くいってしまう。仲良くなってしまう。

意見が異なる誰かと出会ったとき、自分が相手に合わせるか、相手が自分に合わせるか、ゴールはそのどちらかのみであり、片方が折れるまで戦い続けなければいけないのだと思っていた。

しかし、仮にそのようにして一人を倒したとしても、その向こうには無限のように多くの意見が異なる人たちがスタンバイしていて、だからそんなことをしていたら、一生戦い続けなければいけなくなってしまう。

そんな人生でよいのだろうか。自分が好きなことをして、それを味わい、限られた人生を生きてゆきたかったと、思いはしないだろうか。

たった一つの狭い部屋に、意見が異なる人たちといつまでも暮らし続けなければならないのならばともかく、実際には、道を1本曲がればもう一生、二度と会わないような人たちとの間で、意見を一致させるための戦いが本当に必要だろうか?

長い戦いの末に、ようやく意見の一致を見たとしても、その後に自分の考えが変わってしまったらどうなるだろうか。またイチから、これまで意見を統合し、納得し合ってきた相手たちと、新たな戦いをしなければならないのだろうか。

つまり、他人と意見を一致させることに大した価値はない。自分自身の中ですら、考えは常に変わる。考えが変わらないということは、考えていないということだ。

価値があるのは、意味があるのは、我々の誰もが、自分の人生を豊かに、思い通りに、自由に生きるということだ。それを実現するための方法を考え、実践することだ。

ラーメンが好きな人と、カレーが好きな人がいるなら、それぞれで食べればいい。どちらかが無理に相手に合わせて、食べたくないものを食べる必要はない。

相手のことが嫌いでも、わざわざ好きになる必要はなく、また好きになるために相手を変える必要もない。嫌いな相手のまま、互いに生きていることを許容し合える社会が理想だ。

つねに今が最新型

若者と年寄りの争いは絶えない。若者は社会においてさまざまな面で年寄りに負けていて、しかし若さゆえの魅力とか、新しいものに関する知識とかではもちろん勝っているから、その点で年寄りに対抗しようと考える。

年寄りは自分が一番欲しい若さを日々失っていて、それを持っている若者に嫉妬しているが、そんなふうに言えば負けを認めることになるから、まず言わない。その代わりに、10代の若者に対しては自分の10代の頃の記憶をもとに、20代に対しては20代の頃のそれをもとに、当時の中でも最もパフォーマンスが良かった瞬間の自分と、現在を生きる若者全般の抽象的なイメージとを比べて、いかに自分の方が優れていたかを語る。

年寄りであれ、若者であれ、つねに現在がそれまでの人生で最新型の自分であるから、過去のどんな時点の自分よりも今の自分の方が絶対的に「正しく」生きているのだと思いこんでいる。以前は馬鹿だったが、今はそうではないのだと。そう思うことを繰り返しながら日々を連ねている。

この点においては、若者よりも年寄りのほうがたちが悪い。人間として生きた時間はいつでも年寄りの方が長く、上記のような思い込みがより強くなるからだ。

昨日の自分よりも今日の自分の方がマシだと考えることは悪いことではなく、時に生きることを助けるが、それは自分の中でのみ成り立つ論理であり、他者を含む社会全体の中でも「年寄りである自分の方が若者である誰かよりも優れている」ことにはまったくならないから、「今が最新型である」という思いがそのような勘違いにつながると、多くの人がつらい思いをする。

匿名・実名問題の立て直し

周期的に、匿名か実名か、みたいな問題が現れては消えていく。

今この時点ではとくにそういった話は出ていないと思うが(あるいはもう、周期的というより常時・恒常的に、微震のように現れ続けているのかもしれないが)、以前からこれについて、ぼんやり思っていたもののまだきちんと書いたことがなかった気がしたので(もしかしたら書いたかもしれないが)、ちょっと時間ができた今のうちに書いておきたい。

一般的に、匿名による文言、投稿、表現などには価値がないというか、無責任な立場からの発言であるがゆえに、実名でリスクを負ったそれよりも下のものとして扱ってよいかのような共通認識があるように思われ、それ自体は全体像としては同意なのだけど、細かい部分ではいろいろと例外も出てくる。

たとえば、内部告発みたいなこととか、少し前だと保育園に落ちた話とか、あるいは単に王様の耳はロバの耳的なウサ晴らしのためだとしても、その目的が他人を攻撃することにはないケース(結果的には誰かに損害を負わせることがあるとしても、一義的には別の目的があるということ)もあるわけで。

逆に、実名や職場を公表しながらも普通にヘイトを繰り返す人もいるわけで、これを上記のような「必然性のある匿名(空間)」よりも価値があるとはとても言えない。

またそれとは別に、いや匿名でも、一意に特定できる立場というのもあって、これはほとんど実名と同等の価値を持つのだという言い方もあり、これはブログやTwitterの有名アカウントで、普段何をしているのかはわからないけど専門的な背景を前提に一定の信頼を得ている人とか。これはペンネームで活動している(実名を公表していない)作家や団体なども含まれるだろうか。

さてそのうえで、上記のような腑分けや問題点を含めて、いやまあ、でも結局こう考えればシンプルじゃないの、という分け方があるように前々から思っていて、それは「収入を失う可能性に結びつく情報を公表しているかどうか」ということ。

たとえば上に挙げた、ペンネームで活動する人であれば、その人の実名や年齢、性別や出身地などがわからなくても、ネット上でおかしな発言をして信頼を失えば、仕事・収入の道は断たれてしまう。そういうリスクを背負って(逆に言えば、仕事や収入を増やしうる可能性も踏まえて)そういう人はネットで発信しているわけで、だからそういう人はそれなりの「責任」を持って立っていると評価して良いと思う。

一方で、仮に実名や住所その他の個人情報をすべて公開しているような人でも、おかしな発言、攻撃的な発言等によってとくに失うものがないような立場にある人は、「実名だから」といって「責任」を負って発言しているとは言えない。

あるいはそのバリエーションとして、ヘイト発言をするほど仕事や立場を確固たるものにし、少なくともそれによって職を追われるとか、収入を断たれるような状況にはないような人も、その発言にさしたる重みはないと言える。

言い換えると、どの程度自分の命と引き換えに発言しているのかということ。

大抵の場合、「変なことを言ってもべつに失うものはない・収入も命も断たれない」という半ば無敵な人と「匿名」の人は重なるから、その意味で匿名による発言の信頼性を低く見積もることは可能だが、それだけでは時々上述のような「例外」に遭遇することもあるから、その場合にはその「どれだけ自分の収入・生命と引き換えに発信しているのか」を見れば、その人に対する態度も定めやすくなるように思っている。