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中立を装う男性に求められる革命的な意識の転換

韓国の大統領選では保守系の野党候補が当選した。津田大介さんのポリタスTVで解説を聴いていたら、様々な論点があるものの、女性の地位回復を求めるフェミニズム勢力とそのアンチというかバックラッシュ的男性中心の勢力に二分されている側面があるという話があった。結果として、前者が後者に負けたという構図だ。

韓国のフェミニストたちはすごい。中にはトランス差別に走る残念な人もいるが、大半は尊敬できる人ばかりだ。フェミニストには男性もいる。世界思想社が刊行したチェ・スンボムの『私は男でフェミニストです』はそれを象徴する一冊だろう。

版元のサイトではそのプロローグを読める。

web.sekaishisosha.jp

だからこれを単純に「男vs女」のような図式で語ることはできない。しかしそれでも、問題は男性にある。フェミニストとアンチフェミニスト(またはミソジニスト)という構図を思い描いたとき、この争いを引き起こしたのは男性中心の社会に揺さぶりをかけた女性のフェミニストたちだと考えるのは容易だが、実際にこの争いを争いとして成立させているのは男性だ。女性は失われた、奪われた権利の回復を求めているのであって、男性の取り分を奪おうとしているのではない。元々自分が持っていたものを取り返そうとしているだけだ。つまりこれは本来争いですらなかった。それを争いに変えているのは、元々自分の取り分ではなかったはずのものを元々自分の取り分であったものだと思い込み、それを返せと要求されたことを無理やり奪われることだと勘違いしている男性の方だ。そしてその争いを長期化・固定化させているのは、そのような状況に見て見ぬふりをしている(とくに明確な賛否を示しているわけでもない)大多数の男たちだ。

『82年生まれ、キム・ジヨン』、あるいは最近刊行された漫画『大邱の夜、ソウルの夜』などを読むと、夫の実家に帰省して強制的に働かされる韓国の女性たちが描かれている。そこで男たちは何もしない。女たちの家事を手伝おうとすれば、むしろ白い目で見られる。映画『はちどり』における家庭内の兄妹の関係も酷いものだ。このような名もない大勢の男たちが現在も女性たちを抑圧し、大統領選では保守候補を当選させた。(と私は感じた)

翻って、日本はどうだろうか。フェミニストへの風当たりは韓国のそれほどは目立たないかもしれないが、伊藤詩織さんや仁藤夢乃さん、北村紗衣さんや石川優実さんといった人たちに対する男性からの攻撃は熾烈なものだ。その大半は匿名で、顔も姿も背景もまるでわからない。攻撃の中身は稚拙で、論理性の欠片もない。たしかに匿名でもなければ恥ずかしくて言えないような、陰湿で卑怯なものばかりだ。今のところ、その問題は社会を大きく揺るがすほどには発展していないが、かといって以前より沈静化しているわけでもない。

日本におけるこの女性たちへの攻撃が、まだ韓国ほどには問題として表面化していない理由は、日本のフェミニズム自体が必ずしも大きくなっていないからだと思える。日本の男性が聡明だからでも、落ち着いているからでもなく、反対・反発する対象であるところのフェミニズム運動が一定の範囲内に収まっているから、それに応じて攻撃の方も一定レベルにとどまっているのだと思われる。しかし、女性の権利回復・地位回復のための運動は今後必ず高まっていく。それは不可避で不可逆な進み行きだ。賢いやり方を取ることで、大きな軋轢を避けることは可能かもしれないが、それを実現するためには生半可な工夫では足りないだろうし、けっして簡単なことでもないだろう。

2016年から2017年にかけて、アメリカでドナルド・トランプが大統領候補として名を挙げ始めた頃、フランスでは極右政党のル・ペンがあわや大統領というところまで支持を集めていた。それを見ながら、「日本は平和でいいなあ、さすがにあそこまで極右的で排他的な政治家はいないし。あえて言えば、一番近いのは維新だろうけどそこまでの力は持っていないし」と思っていたが、ほんの数年で維新はまさにそのような政党に成長してしまったし、当時の自分が無知だっただけで自民党も安倍政権のもと同種の性質を悪化させていた。日本に極右的な素地がなかったわけでは全くなく、成長する時期が他国よりも遅かっただけだった。

同様に、今韓国で起きているフェミニズムvsアンチ・フェミニズムの分断は必ず日本でも起きるだろう。今はその兆しも目立たず、どちらかといえば生活困窮者や在日外国人をはじめとする社会的弱者全般への差別の方がわかりやすいが、今後はとくに選択的夫婦別姓の議論が本格化していく中で、女性の地位回復・名誉回復、あるいはそれを訴える言説に不安を覚える男たちの必死の抵抗が発生するに違いない。

このようなとき、最も大きな役割を担うのは普段声を上げない男性たちである。このような状況に対して、取り立ててなんの感想も持たない男性が膨大に存在している。そしてその膨大な男たちこそが、男vs女という本来存在していなかった対立を固定化・長期化させている。どちらでも良いなら、関心がないなら、女性の味方をしなければならない。そうでなければ、今ある被害を肯定し、今後も継続させることになる。

大多数の男たちが女性の味方をしなければならないもう一つの理由は、女性を攻撃する男性は自分と同じ男性に対しては同様の攻撃をしないことにある。卑怯な男は女性に対してだけ強気で、男に対しては弱い。男は男から攻撃されるときにすら、女性よりも優位に立っている。

女性たちを攻撃する陰湿で卑怯な男性は、全ての男性から見ればごく一部かもしれない。しかし、そのような攻撃を存続させているのはその一部の男性を除く全ての男性であり、それは攻撃への加担と変わらない。どちらでも良いなら、関心がないなら、せめてその攻撃を止めなければ筋が通らない。

実際のところ、全ての女性が(あるいは女性に限定することなく、男とも女とも定められない人たちが)今の男性と同程度に生きやすい環境にならなければ社会は壊れていく一方だ。「男性だって生きづらい」とはよく聞くが、それは向いていないことを「男性だから」という理由で強引な役割固定に従ってやらされているからであり、女性に責任があることではない。女性の役割を固定・制限することによって男性の可能性もまた狭められている。そしてこの性別に応じた役割固定を推進しているのもまた、社会の中枢に立つ無能な男たちだ。その中枢に含まれない多くの男性が生きやすくなるためにも、女性が自らの適性に応じて生きやすい環境を作っていく必要がある。

解決策は単純で、上記の通り、大多数の「アンチ・フェミニズムなわけではない男性」が女性の味方をすることだ。たとえば、さっさと選択的夫婦別姓を実現しよう。それを後押しする具体的な行動を取ろう。

現在、日本では与党を中心に多くの国会議員が選択的夫婦別姓に消極的だ。しかし、政治家たちはもちろんわかっている。「今は選択的夫婦別姓に反対しておいた方が票を得られる」と思っているだけだ。時代の流れは夫婦別姓を認める方向に向かっていて、年を追うごとに、いや日を追うごとに選択的夫婦別姓に賛成する割合の方が増えている。この流れが不可逆であることを、当然政治家たちは知っている。

「今は反対しておいた方がトクだ」と思っているだけのそいつらが、一体いつ「そろそろ賛成しておいた方が良さそうだ」と思うだろうか。その時期を作るのが我々一人ひとりの市民であり、とくには結婚後も自分の姓を名乗っていられる約96%の男たちだ。この社会をより快適で合理的な空間に変えていく、最もレバレッジが効く場所に生きているその男たちが目を覚まさなければいけない。