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それで、君は何をやっているの?

scholaの編集をしていた頃、何度か坂本さんをはじめスタッフや出演者の人たちと打ち合わせをしたり、その後の食事会に参加させてもらうことがあった。

打ち合わせは仕事の一部だから、出るのは当然というか、多少の緊張はあるもののびびってる場合ではないというか、モードを切り替えて集中して取り組むだけだったが、食事の席というのはまた別の緊張感というか、料理が喉も通らないというようなことはないものの、とくに初期の頃は「右も左も普段からTVや雑誌で見る人ばっかりで、なぜここに自分がいるのか・・」なんて思うこともあった。

実際には、そういう場にいる人というのはある意味でそれが自然というか、普通のことでもあって、だから一緒にいてもヒリヒリするような非日常感などはなく、むしろリラックスしていろいろ喋ったり話を聞いたりもできたものだったけど、今にして思えばそれも坂本さんや同席する人たちのホスト力(りょく)というか、周りへの気遣いが高いレベルで存在する場だったからかとも思えてくる。

しかしだからといって、そのような席で旧知の人間と過ごすようにざっくばらんな態度や心境でいられたのかといったらそういうわけでもなくて、なんというか、いつもそんな面々に混ざりながら、「それで、君は普段なにをやっているの?」と聞かれている気分になっていた。

「何をやっているのか」という質問は、職業やそのプロジェクト内での役割を聞かれているということではなく、もう人生全般の話というか、自分という一人の人間が、世界全体に対してどのような貢献をしているのか、しようとしているのか、できると思っているのか、みたいな話。

もちろんというか、実際にそんなふうに聞いてくる人は一人もいなかったが、普段から様々なメディアを通して勝手に知っているその人たちは、皆そういったものを持っているように見えて、「自分にはそれがない」ということを同じ場にいることによって避けがたく突きつけられるように感じていた。

だからそういった人たちを目の前にして、「サインください」とか「いつも見てます」みたいなお客さん視点の接し方はなかなかできず、なぜならその人たちはそういう評価を求めて何かをしているというよりは、自分の取り組みによって少しでも世界を良きものにしていこうとしているのだと思われ、ぼく自身もまたその同じ目的を実現するためのメンバーとしてその場にいるように感じられたから、その人たちから何かを「もらう」のではなく、自分の持ち物を「提供する」必要があり、では一体何を提供できるのか? と問われているように感じていたということ。

当時は自分には何もない、何も提供できないし世界への貢献もできない、と思っていたが、果たしては今はどうだろうか。「君は何をやっているの?」という問いは厳しいが、人を対等に扱う心地良い問いでもある。他人が作ったものをただ受け取るだけではない、自らもまた何かを作り出せる人間だということを思い出させてくれる。