美容院
髪を切りに千葉へ。(千葉から)
数年前に東京から千葉へ戻ってきて、しばらくの間なかなか美容院が決まらなかったが、たぶん5件目ぐらいで見つかったのが今行っているところで、ほぼ同い年の美容師さんが1人でやっている。
いつもかかっている音楽はレディオヘッドとかROVOとかソニック・ユースとか、2000年代前後に流行ったテクノとロックとインプロヴィゼーションとアンビエントが混ざったような、BGMとしても聴けるその辺のがかかっていて良い感じがする。
しかしふと思ったのだけど、これはこの店に不満があるというわけではなく、ないものねだりのような感じで、「うちはお客さんから話しかけられない限り、店側から世間話はしません」みたいな店はないものか。
このイメージは先日行ったfuzkueからインスパイアされたものだけど、
結局、世間話というのはけっこう疲れる。それこそ即興演奏のように最適な回答を考えて返したり、何も考えていないときに話しかけられたら社交モードに戻ったりしなければいけないし、なんというか、楽しみというよりある意味仕事みたいになってしまう。
その点、「客が望まないかぎり話しかけられない」ということが最初からわかっていたら、かなりリラックスできるんじゃないかな、と思えてくる。アクションされないから、リアクションも不要。
もちろん、テクニカルな意味で「**はどうしますか」とか「**の希望はありますか」とか聞かれるのは問題なくて、問題なのは「想定外の話題を突然振られること」なので、そういうのが無ければいいんだけどな、と思ってしまう。
その店の雑談はまったくいやな感じではないんだけど、良いか悪いかとは関係なく、たんに「何も考えずに過ごしたい」ということ。
本
どちらもまったく買う予定がなかった本だけど、魅力的に見えたので。
同店の書棚は非常に意欲的。工夫があるし、手もかかっている。行くたびに何か買う、というほどではないけれど、今日のようにいろいろタイミングが合うと数冊買ったりする。(今日は4,000円超えた)
植本さんのこういう本があることは以前から知っていたけど、パラパラめくってみたらfuzkueのことなども出ていて、文章もどれも体に迫るものがあったから、これは逃げられないなと思って買った。
リービさんのもパラパラめくって、どれも見逃したくない、と思ったので。
少し離れたところに加藤典洋さんの対談本もあって、それも面白そうだったんだけど、上記2冊の訴求力というのか、強さがすごかったのでとりあえずそちらから。
音楽
移動中はひたすら以下をSpotifyで聴いていた。
午前はずっとこんな感じだったので、
Spotifyでカネコアヤノのアルバム聴いてたらそれが終わってから折坂悠太「抱擁」、中村佳穂「そのいのち」と勝手に続けてきてこれ一人で雑誌開いたりパッケージ買っててもまず辿りつかない最高体験でもうサブスクリプションサービスは少なくとも音楽ファンが敵視するものにはなり得ないなと思った
— note103 (@note103) 2020年2月8日
その続きというか。
中村佳穂さんのそのアルバム、ものすごい。どれもすごいが、とくに「そのいのち」はやばい。なんだかクラムボンの「Folklore」にも近い雰囲気だと思っていたら、Spotifyの関連レコメンドでその曲のNujabesのリミックス版(「Imaginary Folklore」)が流れてきてさすが、という感じだった。
そのいのち
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Imaginary Folklore
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それにしても、現代の音楽生活にSpotify(のようなサブスクリプションサービス)はもはや欠かせない。少し前まで、「やっぱりモノじゃないと!」という、パッケージ至上主義的な音楽ファンによるコメントを見ることがあったけど、強い実感として思うのは、本当に音楽が好きだったら、この手のサービスを使わずに限られた人生を過ごすというのは結構リスキーで、使えるなら使った方がいいよな、ということ。なぜなら、これがなければ出会えたはずの音楽に出会えないまま死んでしまう可能性があるからで、実際サブスクリプションサービスがなければ出会えなかった音楽がもう両手では足りないぐらい(というどころではないぐらい)たくさんある。
加えて、すでにCDなどのパッケージを持っていても尚、サブスクリプションサービスを通してその好きな音楽を再生すればそれに応じた見返りがアーティスト側には入るはずで、その仕組みがなければ、一度買ったパッケージを何度自宅で回転させたところでアーティストに新たな収入は生じない。
音楽2
カネコアヤノ「サマーバケーション」「アーケード」、中村佳穂「そのいのち」「きっとね!」等を聴いていると、そのつど頭の中身がぐるっと生き返る感じがある。眠っていたものが生き返る、あるいは今まで生きていたものが別のものに生まれ変わる感じ。ああ、これが「元気になる」ということなのではないか、と思う。
疲れているとき、「しっかりゴハンを食べれば元気になる」という言説があり、また「眠れば回復する」というイメージもあるが、自分の経験を振り返って、本当に「元気になった」と思えたときって、そういうことをした後ではなく、何か意識・認識がガラッと変わったときで、「そうだったのか!」とか「それでいいんだ!」とか「なんか出来そう!」みたいに思ったときな気がする。
良い音楽、好きな演奏を聴いていると、それに近い感覚に襲われる。「アーケード」のイントロはなんだかマシュー・スウィートを思い起こさせる。
アーケード
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ガールフレンド
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マシュー・スウィートはこれもいい。
精神に作用する何かの力で、疲れやストレスは消える。問題は、何を使ってそれをするかということだ。音楽は他のドラッグ類に比べたらだいぶ安全(合法性が高い)だろう。
考え
最近考えていること。フェミニズムの話題がまた少し盛り上がってきた。以前からそうでもあるけど、ぶり返す間隔が狭くなってきたような印象がある。
以前、女性擁護・権利回復みたいな話題についてTwitterで触れていたら、お互いにフォローしている人から「何が男女平等だ、日本ではそんなものはとっくに実現されていて、今はむしろ男性の方が苦しんでいる。このうえ女性を優遇するなら逆差別だ」と言われて、驚いた。
その人のことは普段から博識ですごいなあ、と思っていたので、自分が抱いていたその印象と発言とがまったく結びつかず、しばらく唖然としたままだった。どこからどう考えても、日本において男女平等はまったく果たされていないし(医大入試や夫婦別姓、痴漢被害だけでも根拠としては十二分だろう)、男性が苦しんでいるとしてもそれは男性が女性や社会から差別されているということではなく、性別によって人間の役割を規定・強制している社会のあり方に問題があることを示しているのであって、問題の根はむしろ女性差別と共通だと考える方が自然だろう。にもかかわらず、女性の地位向上や男女平等*1への取り組みが男性を苦しめるなんて、あまりにも短絡的というか身勝手というか、単純に間違っている。
しかし一方で、その発言を聞いてから思ったが、その人がそのように「俺たちのほうが女よりも苦しんでいる」と感じていること自体はその人にとって圧倒的に事実なのであって、それを他人が否定することはできない。フェミニズムは社会のあり方について語っているのであって、だからそれに対して「俺は苦しんでいる」というのは話がずれているけれど、ずれていることを脇に置いておけば、現実にそのように苦しんでいる人がいることは確かだろう、ということ。
つまり、フェミニズムや女性擁護等を語るときに、それに反発する男性(主には男性であるように見えるのでそう書くが)との間で話が噛み合わないのは、結局のところ、この「苦しんでいる男性」の存在やその苦しみの原因が今ひとつ明確に可視化されていないことに要因があるのではないか、と思いはじめている。
苦しむ男性の苦しみは確かにある、と認めた上で、しかしその苦しみを解消することと、女性の地位向上・平等などを実現することはべつに矛盾しない(どちらかを取ればどちらかが落ちる、というものではない)という共通の認識を持つためには、果たしてどうしたらいいのか。苦しむ男性は働きかける相手を、戦う相手を間違ってはいないか。戦うのではなく、共に創ることを目指すことはできないだろうか、と思っている。
*1:実際には男女間のみならず性的マイノリティを含めて取り組むべきことだけど。