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選挙雑感

参議院選挙が終わった。実感としては、思ったより望ましい結果が出たじゃないか、という感じ。

  • れいわの障害者の候補者さんが当選したこと。
  • 自民・公明・維新で3分の2に届かなかったこと。
  • 立憲が議席を増やしたこと。
  • 山田太郎氏が当選したこと。

ぼく自身は選挙区は立憲の候補者、比例は山田氏に投票した。どちらも当選し、これも良かった。

山田氏に入れるのはもちろん躊躇した。今の与党に憲法改正など無理であり、無理であることを自覚していないという点でそれをさせてはいけないと思うから。現在の草案は惨憺たるもので、これはスペインのキリストのフレスコ画を描き直して(?)しまった人を想起させる。

Botched Restoration of Ecce Homo Fresco Shocks Spain - The New York Times

自分は直せると思っているのが怖い。とてつもなく怖い。そのような党に、山田氏を通して票を入れることになるのだから、それは躊躇する*1

しかし結果として、少なくともすぐには実現しないことになった。少なくとも、今すぐには。それがよかったことである。

投票率の低さが話題になった。これはいつも言われることだが、今回はいつにもまして言われているようだ。

しかしこの件、このブログでは前にも書いた気がするが、憂いてもあまり意味がなく、どちらかというと有害な効果しかもたらさない気がしている。

今回投票に行っていない人は、べつに日本語がわからないのでも、選挙なり政治なりというものを知らないわけでもない。知ってはいるけど、行ってない。そこにはある種の積極性がある。理由というほどの理由ではないかもしれないが、それでも一人の人間が自分で決めてそうしていることだ。

それに対して、上から目線で、リスペクトのかけらもない態度で、「お前らも行け」なんて言って、言われた側が「あ、わかりました、そうします」なんて思うだろうか? 思うわけがない。

言ってみれば、「北風と太陽」における「北風」みたいな態度である。逆効果。

そもそも、投票率が低いほど与党に有利だということを前提にすれば、「選挙に行け」と言ってる人は大半が野党支持だと思われ、その本心は「お前も野党に投票しろ」ということだろう。

しかし、よくよく考えてみれば、ここには「投票率が上がれば野党の得票率が上がる」という本末転倒な前提がある。実際の現象は、「投票率が上がったから野党の得票率が上がった」ではなく、「野党に投票する人が増えたから結果的に投票率も上がった」ということだろう。

であるなら、本来そこで言われるべきことは「お前も野党に入れろ」であり、「選挙に行け」ではないはずだ。なぜ素直にそう言わないのか、と思う。ぼくが以前から「選挙に行け」という言い方に違和感を感じるのにはそういった理由がある。

加えて言うなら、「選挙に行け(行こう)」という言い方には別の違和感もあって、そこでは「選挙に行け」というより「選挙に来い」というニュアンスの方が強い。「俺がいるこの場所に、お前も来い、そしてお前も野党に入れろ」と言っているように聞こえる。

つまり、自分は何も変わることなく、他人だけを変えようとしている。自分は絶対に正しく、間違っているのはその他人だと思って疑わない。そして、投票していない人を人間ではなく、自分が支持する政党への「票」としか見ていない。そういう雰囲気を感じている。

NHKが云々という党から当選者が出たという。恐ろしい。しかし、現実だ。あんな党に誰が入れるんだろうとか、棄権するやつがいるからその分その党の得票率が上がったのだとか、そういう意見をいくつか見て、そのとおりだと思ったが、とはいえ、投票する人の一部の気持ちを想像できなくもない。

たとえば、自分の1票になんてなんの価値もない、なんの影響力もない、と思った人が、その党に入れたらどうなるか。当選確実、あるいはそれを争うような有名な候補者に投じる1票なんて、ほとんどゼロに等しいと感じられるかもしれないが、どう考えてもそんなに票が集まるわけがないような政党に入れたら、自分の1票の重みを少しは感じられるかもしれない、なんて思うかもしれない。

あるいは、Twitterで流れてきた政見放送の動画を見て、おもしれーやつがいる、ウケる、これに入れよう、そしてその事をあとでネタにしよう、なんて思った人もいたかもしれない。またあるいは、そのギャグのような取り組みを見て、自分もそのデタラメぶりに加担したいと思った人もいたかもしれない。もしそんな人がいたなら、それはTwitterでその動画をアップした人だけでなく、RTした人、いいねした人もまたその当選に加担したことになるだろう。

気がついたら、無意識のうちにその党に入れていた、なんて人はいない。意識的に、自覚的にそれに入れたのであって、それが結果につながっている。その党に入れた人も、今回投票しなかった人も、すべて一人一人の人間で、それぞれの理由をもって投票したり、棄権したりした。

だから必要なのは、そういう人たちを見下したり攻撃したりすることではなく、まともな政党や候補者に投票したらどんなに良いことがあるのか、という具体的で直感的な、ありありとした希望を示すことだろう。他人の自由な意思を軽んじることが社会を良くすることにつながるとはまったく思えない。

加えて言えば、ぼくは投票率が高ければよいとも必ずしも思わない。選挙よりもっと大事な自分の用事がある、という人は、それだけ大事にしているものがあったり、とりあえず現状ママでも構わない、と思ったりしているわけで、もしもこの国に住む大多数が「今すぐ社会を変えなきゃ」と思うほど切迫した非常事態ならばそれなりの投票率になるだろうが、そうではない(と少なくとも半数以上は感じている)わけだから。

ぼく自身は、現在の日本を「切迫していない」とは思っていないし、どんどん恐ろしい方向に向かっている、まったく油断できない、安定していない状態だと思っているし、だからかなり考えた末の投票をした。でも、それをべつに偉いことだとは思わないし、これもまたぼくという一人の自由意思に基づく行動に過ぎないと思っている。そのような過不足のない尊重を、当たり前にできる社会であってほしい。

*1:一方で、確かに山田氏は野党にいては意味がない。自民党であればこそ最大の力を発揮できる。つまりそのようにして、本人も支援者もそれなりのリスクを取っている。