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 普段このブログというのは、「どうせ誰も読んでいない」とか「読んでいるのは『どうせ誰も読んでない』と思って差し支えないほど知り合い」とかいう前提で書いているのだが、このエントリーに関しては若干よそ行きというか、まあ、内容の精度は変えようもないのだが、使う言葉とか、姿勢?みたいな物に関してはいつもとちょっとだけ違う。私信ではないがそのような意味さえ孕んでしまう内容で、いつもと一風違うかもしれないが(同じかもしれないが)よろしければ、こんな本の感想文。

タイアップの歌謡史 (新書y)

タイアップの歌謡史 (新書y)

 いろいろ見てたらとにかく評判というか感想というか書評、の連綿が面白くって仕方ない。僕は速水さんとそんなにすごい、交流がある、とかいうのではないのだが、2004年の春か夏か(もう遠すぎて)、菊地成孔大谷能生による東大講義録をサイトに載せ始めた時に一番最初にトラバというか紹介してくださったのが速水さんだった、という程度に知り合いで、そういう、知っている人の作品に知らない人があーだこーだと言っているサマ、というのはどうしてこんなに面白いのか。
 人間はたぶん、自分が知らないところで何と言われているのか、という事にもの凄い、えも言われぬ興味というか、いやそんなんじゃないな、何だ、それどころじゃない興味のようなものを持っていて、それと関係あるかもしれない。知らないことを知っていくことの面白さ、というのともそれはちょっと繋がっているかもしれなくて、ああ、あれかな、支配欲?というかコントロール欲求というか本性というか本能?もういいや。
 とりあえず本書、についてはずーっと語りの声、がすごいと思ってて、語りの声、っていうのは文章で、言い換えればこの本全体を「紅白」みたいな一つの歌謡ショーだとした時の司会というか、あるいは空き地でやってる紙芝居やインディアンの長老がする話、のように、次々現われる新たな事件や登場人物を逐一説明していく語り部役。みたいな感じで、んー、そういう意味ではニュースキャスターみたいな感じ、でもあるのかもとも思ったが、ともあれ僕は読みながらずっと、ホメロス・ダンテによる叙事詩、はたまた『カノッサの屈辱』を観ているような、さらにはあるいは先にも挙げた、東大ジャズ講義を聞いているような実感だった。
 小説でも何でも文章というのは「音」に変換されざるを得なくて(すべてではないが)、「この文章には映像喚起力が・・・」とかいう以前のそれは「音」で、楽曲の名前が紹介される・されないに関わらず、何よりまずこれは全編速水さんの歌なのだ。
 で、語りの声がすごい、というのは言い換えるとすごく変、歪、というか特殊というか独自だということで、読んでいてあまりにもその語りの声がニュートラルでフラットすぎるから怖いぐらいだ。まあ、僕はあんまり本は読まないというか、読むんだけど新書?とかはあまり読まず、そうだな、対談とか小説とか、すごく読みやすくて偏った自分向けのものしか読まないので「普通、本てこんな感じですよ」とか言われるとそうですか、という感じなんだが、とにかくなんて読みやすいんだ、この声は、と感じたことがここでの感想。
 新書、で思い出したが、最近書店でよく見かける新書の傾向はといえば、なんだかハーレクイン的というか、おクスリ的というか、快楽欲求に直結したポルノっぽい惹句のものが多い気がするが(現代の新書って多出版社に同時にポルノグラフィ部門が設けられた状況って気が)、それが悪いというのではなくて、単にこの本はその逆へ行ってるような印象だ。というのは、非常に趣味的というか求道的というか、これを「どうでもいい」、と思う人にはどこまでもどうでもいい内容になる書き方であるということで、そのある意味非・戦略的な方法で扱っている当の内容はしかし、まさに人間全体の欲望に連動して共通して関わる問題であり現象である、という点で面白い。
 ニュートラル、ということに戻りつつ続ければこれは歴史を主役にした非・私的な歴史書で、そういえばそんな仕事をされてるライター/編集者にばるぼらさんがいるなと思い出す。この自分語りを排除した、常に対象物やそれをとり巻く状況を過不足のない状態で晒すことに価値を見出す、それは自己表現を悪とするのでもなく、単に対象への魅力に取り憑かれているだけ、といったあり方にあって両氏は近い場所にいるように思われる。著者の感じるその面白さをもっとも効果的に文章化し現実へ押し出す際のツールとして採用された文体が、常にばるぼらさんのそれであり、速水さんの歪なまでに読みやすい、そういうキャラクターとしての語り口なのだと仮説する。
 自分語りを排除した、と言ったがそれは、主張がない、ということとはまるで関係がない。主張、とか視点、という事で言えば本書はすべて速水さんの視点であり意見であり感想であり、すなわち速水さんそのものが出ているはずだ。
 また、もしここに一つも一次情報と言えるものがなかったとしても、それと作品のオリジナリティの有無はとりあえず関係ないし、その並べ方において、紹介の仕方において、あるいは非・自己開示性や非・オリジナリティのあり方においてさえも、作者のオリジナリティはそこから抽出されざるを得ず、本書で扱われている内容を本書の構成や文章を経て表出できるのはこの著者だけである。と、言っても僕はここで著者を擁護したいのでもそのオリジナリティを担保したいのでもオリジナリティの重要性を訴えたいのでもなく、ただどこにでもオリジナリティはあるというだけのことを言っていて、問われるべきはそうして作られた作品が面白いかどうか、ということだけであり実はオリジナリティなんてどうでもいいし、さらに言えば新しい視点も誰も言ってなかった卓見も必要ない。
 時々目にする本書への感想を読んで、ああ、理解されてないなーと思うのは、そういった、本書を資料にあたっただけ(だから惜しい)的に捉えた意見のあることで、相当疑問なのだが、たとえば資料を集めて並べただけ(紹介しただけ)だったとしてそれの何が欠陥なのだろう。いや、それのどこが悪い?とか聞いているのではなくて、ただ言葉の通りに聞いている。要は僕はここに無根拠な、植え付けられた個性信仰、オリジナル至上主義的な気持悪い匂いを嗅ぎ取るのである。「資料にあたっただけだろう」という言説の含むところはつまり、「そんなの、誰でも出来る」という点に集約されるのではないか。そしてそこには、「誰にも出来ない事をやることが正しい」という無自覚な信仰が横溢しているのではないか、という話だ。
 たしかに本書で扱われている対象の多くは、筆者以外でもアクセス可能な情報が多いかもしれない。だが、仮に、すべてのソースが独自の調査を経ないものであったとしても、それが本書の価値や魅力を減じるとは僕には到底思えない。
 「二次情報を集めただけ」という編集手法で劣悪な作品が生まれるケースはあるかもしれないが、それは手法が抱える本来的な性質なのではないし、また「誰でもアクセスできる情報を集めてまとめただけ」ではない、そこへさらに独自の知見や他に見られない情報を練り込むことで、より良い作品が生まれることがあるとして、それが他の手法を無効化するわけでもないだろう。と、いうことで、安易な(本来の意味とは異なる形での)一次情報至上主義やオリジナリティ信仰はこの辺で打ち止めにして作品の価値を測れる社会にならんかな、とこれを契機に小さく呈するものである。
 歴史書、ということを途中で言ったが、本書の前半と後半、どちらが読みやすいかといった論もいくつか読んで、これは結構面白く、なぜなら問題は想像力にあるからだ。何であれ、それを面白いと思えるということは、それが自身にとって興味の対象であるということで、興味の対象であるということはそれについて想像力が働く、ということだ。戦前の話はつまらなかったという人はその時代をうまく想像できなかったからで、逆も然り。昔だから面白いのでも現代だから面白いのでもなく、その折々の読み手のコンディションによって、どこへ想像力が反応し扉が開くかという点に左右され面白いと思われる箇所は変わるだろうし、古典がいつ読んでも新しい、とか言うのもつまりそういうことだろう。
 とはいえその状況にも多少は傾向、というものが見られるはずで、思うに本書前半部の方をつまらない、と思った人は、興味の有無に関わらず頭から順に読んでいったのではないだろうか。それも当然、悪い読み方であるはずもないが、興味のあるところから、あたかも記憶を辿るように想像できる対象を掘り広げていったらまた印象は変わるのではないか。僕は今、菊地さんの生徒有志を集めて毎月合同ゼミというのをやっているが、そこのメインコンテンツは2本で楽理と歴史である。楽理は脇へ置いておくとして、歴史に関して試みているのは、現代から文化事象を観測定点として10年ごとに遡り、その時代に何が流行って誰が出てきてどんな音楽や文学が生まれ味わわれていたのか、ということを紹介し想像することだ。ちなみに今月は一昨日の土曜に行われてテーマ年代は1925年から1916年の10年間、トピックはチューリッヒ・ダダだったが来月はさらに遡って1915年から1906年の10年間を俯瞰する。
 話を戻すと、いわゆる歴史、生まれるよりもずっと遠い過去のことを想像するのに、いきなり鎌倉時代や原始時代を思い描け、といっても無理に近い。というかたぶん誰もが同じような像しか思い描かないだろう。なぜなら、関係ないからだ。歴史を面白く楽しむには、想像力を充分なだけ働かせる必要があって、では逆に、人は何に対して一番想像力を使えるかといったら自分の事や好きな事、あるいは今の事であってそれ以外はそこから触手が伸びるように穴を掘り広げるように辿られているはずだ。
 他人の言った事を鵜呑みにしない、わかりやすい特効薬に飛びつかない、自分なりの視点、史観を打ち立てること。それらは楽しく生きていくためにあまりにも重要である。200年前にこの同じ場所に立っていた人間の先輩はどんな人で、その時世界では何が起こり、文学は、音楽は、何を発していたのか。過去から伝う細い流れの先に立つ自分は何を面白がり何に不満でキーを叩いているのか。育てられた想像力をもって今ある苦痛を捉え直すこと、というのはたぶん出来て、本書は図らずも(かどうか)そういう縁になり得ている。
 と、いろいろ書いたわりに具体的な内容に触れられてないのは、まだ、読み始めて5日と経っていないからで、思うにウェブ書評というのは(ウェブに限らないが)大抵が一度書かれたら終わりなのが不思議だ。小説家の保坂和志氏は、評論家が評論のために読んでいる時の小説は小説とは別物だ、みたいなことを言っていて、それは半分そうで半分どうかという気もするが、とはいえ書評のために一回読んで終わりというのはつまらない。先の古典の話ではないが、本というのは読むたび別の感想が出てくるもので、その都度その本について書評をアップするということがあってむしろ自然だろう。つまり細かい内容については別の機会に。