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 ちらほらと、今月20日から現代美術館でスタートした加藤さん参加のグループ展『等身大の約束』の感想をネットで見たりする。言ってなかったけど加藤さんのご厚意で僕は開催前日のレセプションに行ってきたのだが、基本的に加藤さんのブース(というか)以外はちょっと脆弱すぎた。なんだ、美大の卒展か!?って感じだ。
 http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/86/
 しかしこれは各アーティストを悪く言っているのではまるでない。作者が好きなことをやるのは良いのだが、それがああいう何だ、「せっかくの場所」に並んでしまっているのが元気のなくなる痛さだった。たんに、場所との相性というか、あるべきところでの展示じゃない、という気がする。良い悪いとか、優劣とか上下とかいうことでなく、やはりあの場所にはあの場所に適した作品、作家というのがあったのではないか。作品や作者を責めるのではなくて、企画者やその企画者を選んだ人たちを責めたい。
 とはいえ、そういう人たちは公務員なんだろう。お仕事なのだ。そういうところにそういうものを期待するより、そんな中でも見ることのできる良い点を挙げていくことの方が重要だろうか。いやいやしかし、税金だろう、その運営費。勝手にやってくれ、ではすまない気も少し。
 加藤さんのは別格というか、キャプションのいらない唯一のフロアで、註釈ナシの面白さである。「なんだこれ(笑)」と思わず笑ってしまう楽しさがあった。
 あとは基本的にガイド(作者が作品の横に並んであれこれ経緯などを説明をする)がなければ成立しない。成立しない派の中でも、うーん、と落ち込みそうになる力無い作品もあり、青い写真みたいのやビーズのはとくにシュールな感興を呼んだ。これを現美に置く、というコンセプチュアルなアートだろうか、と。
 中山さんのはコーネリアスだ、と思った。デザイナーというか。美しい企画書を読んでいるような作品で、これはこれで良いと思ったが(という意味では誰に対してもそう言えるのだが)、でも「言い訳アート」って気がする。それで良いのか?良いのかもしれない。90年代はまだ終わってない。90年代の歌を聴いたって気がする。ねえ、その内容、文章でも良いんじゃないか?いや、良いんだ。でもちょっと、悲しいのだ。
 正しい方向性があるのかはわからない。ただ、芸術ってその誠実さの度合いによってある程度のことは測れるんじゃないだろうか。嘘や虚飾でぶくぶくに膨れ上がったものを見せられたら、「ふざけんな」と言っても良いのではないか。「これはアートです」と提示すればアートになるのか。ちょっと、そういうのが多すぎないか。