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 ところで今日はバイトが夜だったので、昼はNHKの「のど自慢」を見た。出場者が皆歌い終わった後で、審査時間という事もあるのか、ゲストのプロ歌手が歌う時間があって、今日のゲストは吉幾三小林幸子だった。思ったのだが、吉幾三の『運河』という曲はかなりラテン・テイスト、というかタンゴのリズムが加わっていて、それが演歌と見事にトロけあっているのが凄い。運河、というのはもしかして水の都ベニスを指しているのかとも思ったが、それはイタリアなので吉的にはそれで正解かもしれないが、常識的には僕の見当違いだろう。また、歌詞に「北の」何とかとか出てきたので、ラテンでさえないのかもしれない。よくわからない。
 もう一人のゲストの小林幸子が歌ったのは『越後絶唱』という仰け反るタイトルで、しかし聴いてみればどうやら新潟での地震被災者を励ますような内容であるようだった。そしてそれは何というか、いい歌で、これを聴いて本当に励まされている越後の人は沢山いるだろうな、と思った。その事態(想像の中のその事態)は、僕に昨日読んだばかりの村上春樹著『意味がなければスイングはない』におけるウディー・ガスリーの項のこんな部分を想起させる。

彼が歌を歌うと、時には大の男たちが目をうるませ、合唱するときにはその声は震えた。母親から教わった感傷的な古いバラードが、同郷の人々の心を結びつける絆になった。そして今は流浪の民となった彼らにとって、そのような歌だけが、あとにしてきた故郷につながるよすがだった。(中略)それはただの娯楽にはとどまらなかった。彼は歌うことによって、人々の過去をそこによみがえらせていたのだ。

 プロの二人とは別に、中盤からちょっと後ぐらいに出てきた女子高生が、『エンドレス・ストーリー』という、僕の全く知らない歌を歌った。それが何と言ったらいいのか、もの凄く良かった。声も歌唱も素晴らしく、歌がまた凄い良い曲に聴こえた。多分実際良い曲なのだが、その女子が歌うことで全く新たな体験がTVを見ている僕の部屋を包んだ。隣で見ていた彼女に「これ、なんて曲?」と聞いたら、「あゆじゃない?」とサラリと言うのだが、悪口ではなくあゆには勿体ない曲だと思った。あゆに合う曲というのは別にあるのだ。関係ないけど、あゆの発声は石橋貴明のそれに近い。歌のメリハリを、声の大小を中心に変化させるのだ。相方の木梨の発生は、声の表情を用いて変化を生じさせるので初期はとくに「上手い!」と思わせたが、その後「演歌風」を飛び越えて一気に民謡のようになってしまったので「上手い」というか凄い。近田先生は『考えるヒット』をはじめ各所でビブラートが日本人にもたらすエトセトラについて書かれているが、木梨氏のそれはもはやビブラートではない何かだ。『エンドレス・ストーリー』の歌手が誰かは結局わからないが(あゆかもしれないが)、その歌は本当に素晴らしく、「これ絶対全国大会でまた歌って欲しいね」と言っていたらやっぱりチャンピオンになった。大分のチャンピオンの女子の歌をチェックして下さい。チャンピオン大会で。