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 想像してみる。ほとんど総ての人は自分のことを誰よりも大切にしていて、尚且つ他人からもそう扱われたいと思っているのではないだろうか。それはもう、食や性といったいわゆる「本能」としてある事態なのではないか。と、そんなような事を、最近僕は考えている。
 なんてことを言うと、前者の「人は自分のことを誰よりも大切にしていて」に頷いてくれた人がいたとしても、後者の「他人からもそう扱われたいと思っている」という部分には苦笑されてしまうかもしれないのだが、でもそれは概ね間違いないところなのではないか。と、そんなような事を、最近僕は考えている。
 勿論実際には、ある程度生きていればわかる事として、数少ない例外的な人物を除いた多くの人は、他人からは「誰よりも大切に」はされない。おそらく、その事実を身に沁み込ませていくことが、「大人になる」ステップのひとつであるという事も、やはり概ね間違いない気がする。
 とはいえそれも程度の問題で、いつまでも「家族の中では王様のように大切に育てられた子供が家の外でも王様のように振舞ってしまう」ように、家の外でも振舞ってしまういい年をした人もいるわけで、「大人になる」ステップをどれだけ進んでいるかという実態は、人によって異なっている。
 そうした現実をよく生きる上で重要なことは、自分が「自分にとって誰よりも大切な存在」である事実を知る事であり、また同時に、その事実が自分以外の人においても生じているという事実を認識することだ。

 今註釈レポートを少しずつ進めている「大谷能生フランス革命*1第2回(2005.9.19)のゲストはばるぼらさんだったので、見に行く前の予習として、『ユリイカ増刊・オタクVSサブカル』と『教科書』を総て読んだのだが、とくに『教科書』において一番強く印象に残ったのは、やはり暗黒掲示板等アンダーグラウンド方面でのインターネットの歩みである。というのも、そこにあるのはこれまで僕がその人生においてなるべく見ないようにしてきた人間のイヤーな部分であり、また言うまでもなく僕の中にもあるものだったからだ。そこには、「いじめ」や「優越感(と劣等感)」や「エロ」といった、この狭くも果てしなく続く(ように思える)人間社会において隠蔽されがちな、ちょっと扱いづらい事実がいくつも篭められていて、それを避けて生きるのもひとつなのだけど、しかし一方では否定しようもなく確実にあるよ?と言われているような感じだった。(と言っても、『教科書』という本がそういうテーマを訴えているわけではおそらくない。それは僕が僕を目の前のその本に映して自分に対して言っていたことなのだ。)

 そこで仕方なく、というか必然よりも少し弱めの強制を受けるようにして、僕はこれまでかなり苦手分野としていたそれら(いじめ、優越感、エロ)について考え始めた。ところが、なんと(というか普通に)その途中で第3回「大谷仏革」が入ってしまい、しかもその時のゲスト、チェルフィッチュ主宰の岡田さんのお話と、ご厚意により実現した公演間近の稽古見学を経ることで(これはかなり大きかったマジで)、僕の関心は「人間社会」を飛び越えて(少なくともそのように見える気がするのだが)、「時間とは?」とか「宇宙の始まりとは?」とか、「そんな宇宙のただ中にあって僕はなぜ生きようとしているの?」とか「しかも、どうせ死ぬのに?」といった問題へ移ってしまった。
 そうした新たな問題はしかし、面倒ではあったが苦手ではなく(むしろ面白く)、しかも「人間社会」に関するそれに比べてよほど切実かつ必然的な問題として僕に回答を迫ってきたので(僕が迫ったのだが)、ひとまずそれについて答えが出るまで考えざるを得なかった。
 それでひとしきり何日か頭を巡らすうちに、それに対するとりあえずの回答が出たのでここに書いてみる。

■ 時間の始まりも宇宙の始まりも、今のところ誰にもわからない。それは証明することが出来ないし、説明しようとすれば、フィクションを用いないわけにはいかない。だから、それについてはっきり言える事は、「誰にも証明できない」という事実だけだ。
■ しかしその事実は同時に、僕らの生きるこの世界が、その「証明できないもの」の上に立っていることを教えてくれる。つまり、どんなに確かに見えるものであっても、その構築は常に、「わからないもの」を土台・背景・要素として成されているし、言い換えれば、人はいつでも「わからないもの」を抱えて、或いは背中にひっつけたまま生きている(だから、総て「わかっている」なんて人間は理論上どこにもいないし、自分でそう言う人間は信用しない方がいい)。
■ 「なぜ生きるのか」とか、「生きる意味」といった問いは、「なぜ能動的に生きようとしているのか」という問いと、「なぜどうせ死ぬのに死のうとしないのか」というそれぞれ別の問いを混同してしまっているように思えたので別々に考えてみたのだが、前者においては「生きる事が気持良いから(或いはそれが含まれているから)だ」というところまで。
■ 後者の「どうせ死ぬのになぜ死なずにいるのか」に関しては、多分「生きている間には少なくともその気持良さを享受出来ることを知っているから。勿体ないから」だろう。問い自体がキャッチーで、且つ考えるのが難しいのは後者の問いだが、重要なのはむしろ前者の問いにおける「能動性の理由」であるような気がする。

 そんな寄り道(というか)を経てようやく、改めて懸案の苦手な問題に取り組んだわけだが、その結論が冒頭の、「人は自分を誰よりも愛している」(ちょっと言い方は違ったが)であり、そこからまた新たにいろんなことを説明できたり考えが進んだりする。
 思うに人は、自分を誰よりも愛するのと同時に、(冒頭でも言ったように)他人からもそうされたいと思っている。しかし、他人は他人で自身のことを一番に大切にしているので、その願いはあえなく破れる。しかしさらに同時に、フォーカスを自分の人生一個に絞れば、人は最初から最後まで一番重要な人間でしかあり得ない。子供や、自分にとってのカリスマを持つ、という例外はあるのだがそれは後述するとして、基本的には、自分の人生における主役は他人では代用出来ない。つまり人は、或るひとつの世界においては常に主役であり続けながら、それと同時に別の世界(他人の世界、ないし共有される世界)において自分が主役ではないことに対して不満を持ちがちであり、結局のところ人間社会で起きている諸問題の多くは、その切実な2本線(自分が主役である世界とそうでない世界)を軸に、ある程度説明することが出来るのではないだろうか。

 さて、ばるぼらさんの『教科書』を読んだ際に出てきた暗黒掲示板に関する印象に戻れば、それをひと言で表して「幼児性」ということが出来ると思う。僕は実際、そうした主に匿名掲示板での陰湿な遣り取りに対して「この子供っぽさは何だろう?」と思わずにはいられない。でも僕は別に、それが悪いことだと言っているのではない。というか、悪いことでさえないのだ。なぜならそれはひとつの現象であり、生物の営みであるに過ぎないからだ。
 そして結局のところ、この「幼児性」にしても「いじめ」にしても「エロ」にしても、これら隠蔽される性質を共通して持ったトピックは、先に挙げた2本線の軸を用いて説明する事ができる気がする。つまりそれは、自分という存在が自分の人生にとって一番大切な存在であることをすっかり忘れながら、その一方で他人の人生において自分が一番重要な存在であろうとする欲望から生じている現実なのではないか。
 といった言い方をすると、何だか「エロ」に関してまで、それを「いじめ」のような解決/解説されるべき問題であると言っているようだが勿論そんなことはなくて(隠蔽性質を持つものとして並べたわけだけど)、実は「エロ」は、むしろ諸問題を解決する突破口のひとつであるのかもしれない。というのは、それが音楽におけるライブ体験だとか、凄い美味しいものを好きなだけ(大量にという意味では必ずしもなく)食べるとかいう事とよく似たものであるようで、それは外の共有される世界にあっても、自分を一番重要な存在だと自覚できる為の装置であるように思えるからだ。
 おそらく「エロ」が現在において隠蔽される性質にあるのは、人前で自分を一番大事にするように振舞うことが「恥かしいこと」として浸透しているからで、それぞれが自分を大事にする事は勝手だとしても、人前でそんな風にするなよーっていう気持が多くの人の意識に刷り込まれているからなのではないか。であればこそ、例えばライブ会場で忘我にある人や、電車の中でバクバク物を食べている人を見ると、(僕は)軽く引いたりするのではないか。
 しかし、隠蔽性質を持たされたそれらは、上手い形で解放されることで、なんというか豊かなものを多くの人生にもたらすはずだ。なんといってもそれは本能と言って表されるほど体に合った自然な行いであって、気持良いに違いないからだ。先に挙げたライブ体験や食事といった行為がしばしば性的なものとして喩えられる事は、その証左なのではないだろうか。
 というそこで出てくるのが、唐突気味だが「応援(チアー)による快楽」というもので、人は何かを共有したり、目の前の自分ではないものに自分を投影したりしながら、自分ではないそれを真剣に応援することが出来ると思う。その流れには、ライブ鑑賞の体験(モッシュに限らない燃えるような体験の事だが、ここでは例として、矢沢永吉コンサートを見る人々や、演歌を歌うスターを見てじんとする人を羨望のまなざしと共に想定してみている)とか、「子供を守る為ならいつでも身を投げ出す!」と公言する親の人の話とかがあって、そういう事を人生の可能性のひとつに加えるという事は、良いことのような気がする。

 という事で話は一段落なのだが、実はここら辺までの事というのは、もっと「主役」という言葉を使って説明したかった。しかし「主役」というのは演劇が人類史に登場してから出来た言葉・概念のはずで、そういった「恣意的に設定されたもの」を用語として使用すると、それが設定された以前の人たちがこういう考え方についてどう考えていたのか、ということを想像しづらくなってしまう気がしたので、わざわざ「主役」という言葉を使いたくなるたびに「自分を一番大事に思うこと」とか何とか回りくどいような言い方にしてみた。かえって読みづらくなったかもしれないけれど、長い目で見たら多分この方が良いだろうと思う。
 とはいえ、今後は面倒なので、文中で「2本線の軸」と言ったりした概念を「主役概念」みたいな考え方として、それこそ軸に据えて使っちゃっていきたい。そのようにして次に出てくるのは例えば「野蛮なるものとの関わり方」で、最近に拘わらず毎日毎日陰惨な事件が起こっている。
 人間とは言っても動物の一形態に過ぎない僕らはおそらく野蛮を理性でコントロールして、何とか日々を過ごしている。ムカついてもその都度パシパシ相手の頭をハタかないでいられるのは「我慢しろ、俺!」という声を出すもう一方の理性としての自分がいるからで、「陰惨」は、野蛮が悪い形で、統御のきかない状態で噴出した末の事態だったと言えるのではないか。
 しかし、それは野蛮が悪いということを意味するわけでは必ずしもなくて、むしろアウトプット経口の絞込みによっては、先に「本能」として提示した「とても良いこと」になり得る気がしている。それで思うのは、もしかすると僕(ら)に出来ること(やっていること・やったら面白いこと)のひとつには、その経口作りの作業があるのではないか、ということなのだが、その為には多分、まず何が自分の中の野蛮であるのかを常に探っていなければならないだろうし、同時にその際には、自分が常に自分の人生においては主役であり、他人や共有の空間においてはそうではないという事を意識し続けていなければならないだろう。

 といった事を、革命の註釈で書くかもしれない。

*1:第1回のレポート(イベント書き起こしを元に大谷さんがリライトして下さったもの)はすでに公開中。よろしければどうぞ→http://www.geocities.jp/television2nd/index-home2.htm