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 ついでなので、ここで一度、もうひとつの結論として岡田さんと大島さんのそれぞれの「即興」の扱い方についても触れてみると、岡田さんにとっての「即興」というのは、いつでもどこでもそれが自発的に暴れ出せる余地を持たせながら、稽古場でも本番でも比較的「自由」を与えたそれだと思う。しかしここでの「自由」というのは「なんでもOK!アリ!」という勝手さやフリーさの類のものではなくて、喩えるに多くの無機的なものに埋め尽くされた部屋に唯一持ち込まれた生き物であるような、「有機的」な「動的」な「可能性」としてのそれであり、翻って大島さんにとっての「即興」とは、かなり限定的に(「静的」とは言わないが)用いられているのではないか。
 どこかで拾い聴いた話なので定かではないのだけれど、simの楽曲には、そうは聴こえなくてもかなり緻密に構成された曲があるという。「そうは聴こえなくても」とは書いたが、これはむしろ、「そうは聴こえないように」ということでもあると僕は思っていて、どういうことかというと「これ、どう考えてもメチャクチャやってるだけでしょ?」と思わせといて実は全部譜面あるよ、というようなことである。勿論、そのような「驚かせたかった」が大島さんの創作の根源にあるとは思えないのだが、基本として(或いは結果として)そのように、事前にかなり作り込む、ということはあるのではないかと思う*1。とすれば、そのような状況においての「即興」とは、演奏しながら「あっ、作曲されている状態よりもこうした方がもっと良くなるかも!」と感じられた際にのみ開く「水門」のように、「許可」の類として生じる「即興」なのではないか、と僕はちょっと思う。というか今考えながら書く(書きながら考える)上で思うのはそのぐらいのことです。

*1:あ、でもこの辺はインタビュー記事とかきちんと読んだらはっきりするのかも