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 今回は最後にアンコールがあって、そしてそれはメンバーにも想像外のことだったので、ここで必然的に、「即興」要素入り音楽がひとつ生まれることになる。楽曲は大谷さん監修のコンピレーションにも含まれている『mool』だったが、佳村さんにその場で「歌入れてもらえますか」と大島さんがオファーして「はい」と佳村さんが応えて、それが余りにも速やかな返答だったので大谷さんが「すげー」と言って、やることになった。
 佳村さんの参加した『mool』は『mool』でありながらさらにそこからの「逸脱」と「イン」を繰り返して、単純にもうスリリングだった。スリリングだったのは客席の僕だけではなくステージの4人だって勿論そうだったはずで、それがバシリバシリと伝わってきたのがとても良かった。佳村さんはこの曲の中で多分その日初めて、カエルのような潰れた発声をしたり(汎用性の高い魔女のような声と言って伝わるだろうか。伝わらないだろうか)、曲のある場所を探りながら旋律を当ててみたりしながら、しかし歌いっぱなしというのでもなく正に自ら自分のパートをCOM(位置)POSE(決め)*1しながらパフォームしていたので「うわーこれって即興の醍醐味では」と、言葉になってない意識下レベルで思っていた。
 と、その一方で今思うのが、それは既に作曲された中での即興なので全体的には「半即興」とも言えるものなのかもしれないということで、またその「即興を元から組み込まれた性質として扱う」という状況が、本当は全然違う(と思う)のだけどここでやはりチェルフィッチュと重なってしまって仕方がないということだ。そして、この二者の違いと共通を思う際には、道具として笑福亭鶴瓶の『スジナシ』や『家族に乾杯』といった一連の即興性を重視した番組作りを用いることが有効だ。
 『スジナシ』は、文字通り筋(脚本)の一切ないドラマを即興でやるという企画で、鶴瓶とゲストの役者が、どのように設定されているか知らされていない「ドラマのセット」にポーンと放り込まれるところから動き出す。二人の役柄も、最初の一言も、勿論オチも決められておらず、総てはその場で考えては進行していかなければならない。『家族に乾杯』に関してはここまで極端ではないが、しかしその場その場で出会う人々を題材に筋を展開していかなければならない、その取材現場へ行くまでどのような経過、結末になるのかが見えないという点ではかなり性質が似ている。
 さて、これを採り上げることがどうして「有効」なのかと言うと、これらの番組が僕にとって、とくに『スジナシ』はそうなのだが、実はそのようにして出来上がる「筋(脚本)」がまず非常につまらない。(と言っても、それは必ずしも悪い意味にはならない。なぜならその番組の見所は、必ずしも「面白い筋を作ること」ではなく、そこで右往左往しながらただ「作っていく」過程であるからだ)。そしてそこから僕にわかるのは、即興とは、「つまらなくなる可能性」を大いに孕んだ表現法であるということで、急に話をステージに戻すと、即興性のあるステージにおけるスリルとは、「つまらなくなる可能性」を抱えたままのパフォームであるという点から屹立する、ということになる(楽理的に言えば一種の、というかそのままドミナント効果ということになろうか)。この時の「つまらない」を、ステージ上の演奏者が気にかけているかどうかは僕にはわからないけれど、でも見ている僕からすればそれはあって、それが「あー、駄目かと思ったけど素晴らしいオチに落ち着いたなあ」とか「んん、結構イイと思ったけど最後は退屈だった」とかフラフラしうるのが即興性の面白さのひとつであるような気はする。

*1:岸野さんが前日の革命中に仰ったこと。BBSにも書いてあった