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simライブ感想20051120

 昨日のsim&佳村萠ワンマン・ライブ。吉祥寺マンダラ2って初めて行きましたが良いところでした。大島さんは怒涛の新曲群をこの日のために作曲してきていて、どれも(って言うと聴いてないみたいだが)カッコよかった。
 一番の印象としては、佳村さんの声(昨日のアナウンスでは「ボーカル」と表記したが、楽器ないし要素としての声、と言った方が聴いてない人には想像しやすいかもしれない)が入ることによって、大島さんの(simの)見ている方向というか「これなんだよなあ」と思ってるであろうことが、より際立ってこちらに出てきたような気がした。
 「作品」というのは面白いもので、それ自体が名刺がわりというか自己紹介がわりになるので、その「作品」を見たら、作者がどんな人でどんなことを考えているかといったことが手にとるようにわかるものなのだけど、同時にそれは作者が「僕は僕をこう思うんです」という自己認識とは決してピッタリとは重なり合わないという意味で「自己紹介がわり」から「自己紹介そのもの」になることはない。
 何を言っているのかというと、僕はsimのライブを昨日初めて観たのだが、それによってこれまでアルバムでしか聴いてなかったが故にあったsim像、とも言えるものがまたガラリと変わったということで、それはまた、アルバムのみを通して僕が持っていた、大島さんの思うsim像とは違うという意味での「誤解としてのアルバムsim像by note103」から、「別の誤解としてのsim像by note103」へとsim像が変容したということだ。そしてその経過で現れた、大島さんの中にあるものも含めたいくつものsim像についてはどれが正しいということはおそらくなくて、しかしそのどれもが、「ひとつの作品」を巡りながら発生しているということが面白いと思う。
 というのは実は話の本題の土台で、その上で僕が思うのは、ひとつの作品からそれだけ多くの像が生まれてそのどれもが正しいのだとしても尚、もっとも美しい形、もっとも豊かな内容を含んだ形、というものはパラレルに存在しているだろうと僕は考えていて、大島さんに限らず先日の大谷仏革にもいらした岡田利規さん(チェルフィッチュ)の舞台や稽古などを見てもそれは言える。
 という、そこでようやく前半部にリンクするのだが、つまり僕の知っていた「アルバムsim像by note103」には含まれていなかった佳村さんの声が入ることによって、昨日見たsim像と以前のそれとの間に立ち上がる共通項というのがかえって鮮やかに見えてきて、それが発見として豊かであり楽しかった、ということを言いたい。喩えるならば、これまで僕の中に48という像があってこのたび39という像を得たのだとして(数の大小は比喩の意図と関係ない)、なるほど、大島さんは「3」を公約数に含む表現をしたかったのか、と納得したような気になったのが今回である。69と46の表現を見て23という公約数的要素を見つけた、でもいい。もしそれで「3を公約数に含むって法則で48、69って来たなら、次はどんな3の倍数だろう、123かな?」とか思っていたにも関わらず「71」とかいう素数が出てきたりしたら「え、素数かよ」ってそれはそれでまた新たな発見となって面白いに違いない。
 まあ次が素数になるかはともかく、佳村さんが融合することでsim像がより豊かに提示されたことには違いない。また、これで余計にsim単体の、或いは大島さんの今後の表現がどんな風に展開されていくのか非常に楽しみになったというのがひとつ結論。