103

NOT TODO LIST

年内に終える予定だった業務が若干ながら&残念ながら年明けに持ち越しとなった。

今年(これを書いているのはまだ2017年なので2017年)の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだせいか、今までに比べればおそらく最も順調な進行を実現したが、それでも理想どおりの100点とまではいかなかった。やはりどこかに甘えというか、おごりがあったのだろう。

積み残したタスクは年末年始に行う予定。幸いというか、一人でできる作業は少なくなく、というか一人でできる作業だけを持ち越しフォルダに入れておいたから必然的にそうなる。

年末年始は、だから休みという感じでは全然ない。会社などに勤めていたらまた少し違うのかもしれないが、ぼくの場合はオンとオフがあるのではなくて「赤いオン」か「青いオン」か、みたいなもので、「オン」の種類が違うだけという感じがする。

楽器奏者やスポーツ選手は年末年始にも練習を休まないだろうし、研究者は研究をしていない時間にも研究のことを考えているだろう。
それと同様に、こちらも作業を続けざるをえない。

考えてみると、協業各社が休みに入る12/29から、正月休みのひとまず最終日である1/4まで、ちょうど1週間しかない。
実際には、その後に3連休があるようだけど、とりあえず上記の積み残しタスクは1/5に提出予定なので、その宿題に投入できる期間はやはり1週間ということになる。
(さらに実際には、これを書いている時点ですでにそのうち2日以上が消化済みなわけだが)

その限られた期間に充分な成果を生み出すためには、何か大事なものを諦めなければならないだろう。

以前から、「やらないことリスト(NOT TODO LIST)」というものの意義や必要性を謳う話を目にしてきたが、ぼくにはその意味がよくわからなかった。

「やらないことリスト」というのは、ようは「やらなくてもいいこと」のリストなのだろうから、そんなもの、わざわざリスト化しなくたって、重要なことだけをどんどんやっていけばそれ以外のことは自然に優先度が落ちていくのではないか? と思っていた。

しかし最近になってようやく気づいたのだけど、「やらないことリスト」を提唱している人々が言いたいのは、たぶんそういうことではなかった。
「やらないことリスト」とは、「すごくやりたいけど、やらない(ことによって、より優先的なタスクを終わらせるための)リスト」だったのだ。

ということで、ぼくはその「やらないことリスト」の筆頭にTwitterを入れることにした。

しばらくは投稿も閲覧も、可能なかぎりやめておくことにしたい。

できればFacebookもアクセスせずにおくべきだろうが、そちらは公私に関わる連絡がいろいろ行き交うのでゼロにはできなそうだ。

Twitterはめちゃくちゃ面白いのだけど、やっていると時間がどんどん吸われていくから、時間捻出というただ一点において、やはり休まざるをえないだろう。

といっても、じつはTwitterに関しては、すでに今年(つまり2017年)の半ばから地道に離脱を試みていた。

その一番の理由は、10月に再受験をした基本情報技術者試験、そして夏頃から本格化した「commmons: schola」の最新巻の制作という、絶対に成功させなければならない二つの大きなタスクが重なってしまったことだった。

それで、とりあえず7月の半ば頃からだったか、Twitterへの投稿数をぐっと減らし、8月からは閲覧時間もかなり減らしたのだった。

その後、幸いにして(というべきだろう)基本情報の方には合格して、少し安堵したこともあり、Twitterの閲覧は徐々に解禁し、ただし投稿の方は1日につき多くても3本程度までに留めるようにしていた。

上述の、「今年の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだ」という取り組みの中には、だからその「Twitter断ち」も含まれている。

ちなみに、Twitterの投稿数を減らすのは比較的簡単であったものの、閲覧時間を減らすというのはなかなか容易ではなかった。

投稿を減らすのが簡単というのは、普段から「こんなこと言ったら不快になる人もいるかもしれないな〜」と思ってやめておくとか、あるいは数年前からアルコールを口にしてから寝るまでの間には投稿しないとか、そういう自粛みたいなことを習慣的にやっていたからだと思っている。

逆に閲覧を減らすのが難しいというのは、上記のとおりぼくにとってはTwitterで流れてくるタイムラインというものがあまりにも面白いからで、それは子供が電車の窓から流れていく外の景色をずーーっと見てしまう、あの根源的な面白さに近いかもしれないが、とにかくその次々に起こる「いま初めて発生した現象」から目を離せなくなってしまう。

とはいえ、それをやっていると本当に無限に時間を奪われてしまうから、上記の試験勉強期間などはとくに禁止していたのだけど、時々(というか頻繁に)起こる禁断症状的な、ちょっと落ち着かない、「いま世間の他人はリアルタイムで何を考え、何を発言しているのか」ということが気になって仕方なくなってしまう感覚には閉口した。

で、これを収めるためにどうしていたのかというと、本を読んでいた。

本と言ってもKindleなどの電子書籍を含むそれであり、ジャンルは海外文学からSF、ミステリー、新書やハウツー本など様々に試したが、最終的には結局ハウツー系の新書やエッセイのような軽い内容に落ち着いた。

読書の目的は深い感動を得るとか、新しい知識を増やすとかいうことではなく、とりあえずTwitterその他のSNSから離れておく、そこにアクセスする道を遮断するということだったから、いくら軽い内容でも良かったのだが、それでも最初は「ん〜、読書はメンドイな」とか感じてしまい、なかなか集中できなかった。

Twitterと読書とを比べると、結局一番大きな違いは、前者の方が読みはじめてから「快楽」を受け取るまでの時間が後者に比べてずっと短いということだろう。

Twitterを見ていると、そのつど一瞬で何かフワ〜っとした「報酬」のようなものを受け取れてしまう。
しかし、そうやって一度に得られるその量はきわめて少ないから、かゆみを掻いてかえってかゆみが増してしまうように、一度触れはじめるとなかなかやめられなくなってしまう。

読書はそれに比べると(あくまで相対的にだが)、そうした「報酬」を受け取るまでにかかる時間が長いから、最初はじれったいというか、もどかしいというか、ストレスを感じるのだけど、それに慣れてくると、Twitterに比べてけっこうな量の「面白さ」が返ってくるので、だんだん「これでもいいか」という感じになってくる。

そんなふうにして、この7〜10月頃は徐々に体を慣らしながら、Twitterから(というかSNS全般から)離れるようにしていたのだった。

前置きが長くなったが(前置きのつもりだった)、そのような方法をもって、またこの年末年始(といってもあと4〜5日だが)もそこから離れなければならないな・・と自分に言い聞かせるためにこれを書いている。

その数日間の修行というか、合宿のような期間が終わり、おそらくはそのまま1月の間もしばらく制限を続けて、ほとぼりが冷めた頃にまたゆるやかに解禁できればと思っているが、それがいつになるかはまだわからない。

なお、Twitter宛のメンション(リプライ)は1日1回ぐらいメールで届くように設定してあるので、Twitter経由で何か連絡したい人はこれまでどおりTwitter経由で大丈夫です(たぶん)。

横断歩道にはたらく力

ひと気のない道を歩いていたら、横断歩道の赤信号につかまった。

右を見ても左を見ても、車がやってくる気配はない。

そのようなとき、普段ならサラサラっと渡ってしまうところだが、その日は渡ることができなかった。

体が金縛りにあったように、あるいは横断歩道に斥力がはたらいているかのように、足を踏み出すことができない。

通りの向こうに人が一人、信号が変わるのを待っていたからだ。

その人はこれまでに会ったこともなければ、おそらく今後も二度と会わないであろう人だった。
ようするに、赤の他人。

だから本来、その人がいるからといって渡れない、なんていうのはおかしなことのように思えるのだけど、やはり実際のところ、「その人に見られているから渡れない」。

いや厳密には、その人が見ているのはぼくではなくて、ぼくの頭上にある歩行者用信号であるはずだ。
少なくとも、その人がぼくに「渡るな」と言っているわけではないし、そう思ってもいないだろう。

にもかかわらず、なぜぼくは信号を渡れないのか。

不思議な力がはたらいている、とそのときに感じる。
この横断歩道には、何か目に見えない力がはたらいている。

あるいはそこには、何かが降りている。天使のような、精霊のような何かが……。それがぼくらに対して(もはや対岸のその人をも巻き込んで)、赤信号を渡らせないようにしているのだ。

いやそんな、オカルトチックなことを言うのはやめよう。
そうではなく、もっと現実的な、具体的で、事実にもとづいたことを言いたいのだ。

なぜ渡れないのか? ともう一度考えたい。

もしもぼくが赤信号を無視して渡ったら、対岸のその人は、ぼくに対して悪感情を抱き、場合によっては暴力を振るってくるかもしれない、という妄想をぼくはうっすら持っている。

もちろん実際には、そんなことをする人はいないだろう。
しかし、そういうことが起きてもおかしくない、と想像してしまう。

その想像を誘発するものは何か?

そのヒントは、以前にこのブログで書いた以下の記事にあるように思える。

note103.hatenablog.com

人はなぜ怒りを感じるのか? という疑問に対し、アンガーマネジメントの専門家はこのように言っている。

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

おそらくぼくが想像してしまうのは、このような理由によって、「信号を無視するやつに怒りを感じる」ような人なのだ。

しかし果たして、「信号を守るべき」(車が来ないとわかりきっていても尚)という価値観を深く信じる人というのは本当にいるのだろうか?

まあ、いるだろう。

では、なぜいるのだろうか? あるいはなぜ、いると思えるのだろうか?

それは、そう教えられるからだ。少なくともぼくが子供の頃にはそう教わったし、今も多くの子供がそう教わっているだろう。

実際、子供は近づいてくる車の速度と、自分が横断歩道を渡りきるまでの時間とを正しく比較することができないだろう。(これは高齢者も同様かもしれないが)

そうであるなら、子供はやはり一律に信号を守るべきだ。

しかし同時に、その後の成長していく間に「まあ、あれは子供のときの話だ。大人になるにつれて、その辺のことは自分で判断するようにすればいいんだ」なんて、わざわざ教えてくれる人がいるとはかぎらない。
子供の頃に教えられたことを、ずっと信じて疑わない人もいるかもしれない。

その人はきっと、「信号を守るべき」という自分の価値観を目の前で否定されたら、怒りを感じるだろう。そう思わずにいられない。

さらに言えば、現実はもっと複雑でもある。

たとえばぼくは、信号をつねに守るべきだとは思っていない。ケースバイケースだと思っている。
しかし、対岸の人は、狂信的な「赤信号待機主義者」かもしれない。となれば、待っているのが得策である。

一方、じつは対岸の人も同じことを考えている可能性がある。その人もべつに信号をつねに守るべきだとは思っていない。ケースバイケースだと思っている。
しかし、その人はぼくのことをまったく知らないし、たぶん今後も二度と会わないぐらい無縁の人だから、ぼくのことを「狂信的な赤信号待機主義者かもしれない」と思っているかもしれない。

もしそうだったら、ぼくらはどちらもその信号を守るべきだとは思っていないのに、お互いの気持ちを忖度することで貴重な時間をつぶしてしまっていることになる。

不幸だ。

ちなみに、対岸にいるのがもし子供だったら、ぼくは進んで待つだろう。子供に示してやるのだ、「赤信号ではけっして横断歩道を渡ってはいけない」と。

そうしてその子もまた、狂信的な赤信号待機主義者になっていくのだ。

客観的な視点を共有する

A地区に住む人々は地区の外へ一歩でも出たら体が溶けてしまう。

あるとき、A地区の住民とB地区の住民が一緒にハイキングをすることになり、目的地であるA地区の丘まで皆で歩いていたら、A地区の住民であるXが急に腹を押さえて、トイレに行きたいと言い出した。

幸い、そこから数十メートル離れたところにコンビニがあり、それを見つけたB地区民のYが「コンビニがあるから、あそこに行こう」とXの手を引いて連れていこうとしたら、A地区民のZがそれを止めて、「行ってはいけないんだ。あそこはC地区だから」と言った。

Zはそこから数百メートル離れたA地区内の公園にトイレがあることを知っていたから、そこへ行けばいいとXを送り出した。

YはA地区民の体の問題を知らないはずはなかったが、自分の提案が目の前で却下されたことに加え、以前に「A地区とC地区の住民は対立している」という噂を聞いたことがあったから、頭に血が上って「そんなくだらないことにこだわってる場合か!」と憤りを覚えた。

Zとしてはもちろん、トイレに行きたいぐらいのことでXの体が溶けたら困るからそれを阻止したわけだが、Yはそのことに思い至らないまま、Zを愚かな人間だと思っている。

これは極端な例だが、現実の世界にはこれのもっと微妙なバリエーションというのが無限に近く存在している。

そのような場合に必要なのは、客観的な視点を共有することだろう。

ZはYよりも客観的な視点を持っていたから、仲間の体が溶けることを止められたけど、Yに見えていたのは苦しそうなXと、目の前のコンビニだけだった。

Zが(あるいは状況を理解している他の誰かが)Yに助言してあげられればいいのかもしれないが、「全体を見る」とか「客観的な視点を得る」みたいなことを他人から教えてもらう、なんていうことがどれだけ可能なのかはわからない。

ある種の行為を完遂するためには、客観性を捨て、地べたを這い回るように集中的にそれをしなければならないこともあるが、それだけの集中力と労力をかけてやったことが無駄にならないかどうか、言い換えれば「正しい方向に向けて行われているかどうか」を知るには、やはり客観的な視点が必要になる。

それは高い場所にのぼって、町全体を見下ろしながら、町のどこに何があるのかを把握することに近い。
そのようなときに、仲間も同じ高さまで来てくれれば話をしやすくなる。

  • 一番近いトイレはあのコンビニにある。
  • でもあれは地区外だ。
  • じゃあ公園に行くのがいい。

みたいなことを、その見晴らしのよい場所から指をさしながら確認していけると効率がいい。

2017年11月の音楽

ここ数ヶ月、よく聴いた音楽を記録しておく。

まずはアウスゲイルのLeyndarmál。なんと読むのかはわからないが・・。

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最初に知ってからしばらく経つけど、時々むしょうに聴きたくなる。見事な曲。

それからChet Fakerの1998。

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ふざけた名前だけど曲はすごい。何度も聴いた。

なつかしい感じ。大学のとき、こういうのが好きだった。
途中から入ってくるBanksという女性ボーカルも良い感じ。

同じChet Fakerのこれもいい。ブラックストリートのNo diggity のカバー。

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それから何と言っても、Homeshake。
この夏から秋にかけて、一番の衝撃を受けた。

曲はどれもいいんだけど、最初にビデオクリップを見てひっくり返ったのがこれ。

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で、「へえ・・」と思ってそのままいろいろ見たらこれも良かった。

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これも大学生っぽい。よくよく考えると、ぼくの好きな音楽っていうのはだいたい大学のときの趣味で止まってる。

同じくHomeshakeのGive it to me。
とくに9〜10月頃はずっと彼らのアルバム及びその関連アーティストをひたすらSpotifyで聴いていた。

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それから、たしかその関連アーティストという流れで知ったと思うのだけど、現在一番リピートしてるアーティストと言ったらこれかも。SALES。

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Spotifyでこれが入ってるアルバムをずっと聴いてる。すごい。超すごい。何これ。

ライブセッションもある。けっこう長い。

youtu.be

上のChet Fakerでひとつ紹介し忘れていた。このビデオクリップも面白い。

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最後に、NAO という人のDYWMという曲。

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これもSpotifyで知ったのかな。引き込まれる。

いずれも個人的には「今」の音楽という感じ。単に演者が若いだけかもしれないけれど。
しかしまあ、それでいいのか、という気もする。新しい様式である必要はない。
新しい人が音楽を作ればそれは今の音楽になり、そのうちのいくつかが結果的に新しい音楽になる、というだけのことかもしれない。

Fresh Air

Fresh Air

  • アーティスト:Homeshake
  • Captured Tracks Rec.
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In the Shower

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  • アーティスト:Homeshake
  • Omnian Music Group
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1998

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  • Future Classic
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FOR ALL WE KNOW

FOR ALL WE KNOW

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In the Silence

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  • アーティスト:Asgeir
  • Hostess Entertainmen
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話はどうしてズレるのか

前回の記事には、思いのほか反響があった。

note103.hatenablog.com

ここで言う「反響」とは、主にはてなブックマーク数とはてなスター数のことである。

これまでの記事でも、はてブが多くついたことは何度かあったが、今回のそれがいつもと少し違ったのは、第一にブックマークコメントに否定的・批判的なものが多かったことで、第二にはてなスターが普段よりずっと多かったということだ。
ようは、賛否両論ということか。

中でも印象深かったのは、どうも否定的な意見には、話の論点というか、前提というか、元々こちらが言おうとしていることに対して、じつはあまり関心がなさそうというか、簡単に言えば「ズレている」と思えるものが少なくないことだった。

別の言い方をすると、そこで起きている現象というのは、一見同じ対象について話しているようで、実際には別の何かを念頭に置きながら話している、といった状況である。

別々のことについて話しているのであれば、別々の意見が出てくるのはもっともなことである。

たとえばはてなブックマークというのは、特定の誰かが書いた記事を追いかけながらコメントするというより、ネットサーフィンのようにあちこち見回る中で自分の関心に近いものをブックマークし、興が乗ればコメントもする、みたいに使う人が多いだろう。

この際、元の記事を書いている側からすれば、自分の記事の方がメインというか、起点として存在していて、それに付いたコメントは派生的な、記事に従属する(記事がなければそもそも存在しない)ものだと考えるのが自然だろうが、コメントする側としては、まず自分の考え方や、自分なりの意見の示し方(スタイル)といったものの方が起点としてあって、その自分が取り上げるブログ記事などは、案外従属的な、交換可能な存在なのかもしれない。

仮にその「自分なりの考え方」の方が起点にあったとしても、読んだ記事に応じて、そこにある他者の視点というものを想像できるのであれば何も問題はないのだが、元々の自分の考えというものが揺るぎない(不変の)ものとしてあった場合、初めに「この記事はこんな内容だろう」と予感した内容と、実際に読み始めたときの印象との間に多少のズレを感じても、とくに気にせず読み続け、そのまま読み終え、さらにはその先入観とともにコメントを付ける、といったこともあるかもしれない。

それは喩えてみるなら、バナナジュースを好きな人が、黄色く着色されたリンゴジュースを見て、「お、バナナジュースだ」と思って飲み干した後、「なんか思ってた味と違うな」とは思っても、それがバナナジュースであること自体は疑わないようなものである。

冒頭で述べた、ぼくが「ズレてるな」と思ったコメントというのは、その「当初の先入観に変更を加えないまま読み終える人」によって付されたものではないか、と考えている。

とは言っても、これはそういう読み方をする人が悪いという話ではない。
はてブでコメントするなんていう行為は、誰も仕事としてやっているわけではなく、ようは趣味というか、遊びというか、暇つぶしに過ぎないのだから、他人を傷つける目的さえなければ、それはそれで良いと思う。

ただ、その読み方だと、筆者の意図を読み取ったり、記事の目的を共有したりすることは難しいかもしれないな、ということ。
それをするためには、読み手が記事の内容によって変化するかもしれないという、読者の可変性が求められると思う。

さてしかし、話のズレる経緯がそういうものだったとしても、そこから生じる問題というのはもう少し複雑で、たとえばちょっと困るのは、「お互いにズレていることに気づかない」場合である。

じつは前回の記事でも、ブログの方にひとつコメントがあって、それは微妙に(しかし確実に)本題からズレた関心に基づいた内容だったのだけど、その内容自体は興味を誘うものだったから、もしそのときにぼくがボーッとしていたら、あたかも「最初からその話をしていたかのように」返答していたかもしれないな、と思っている。

そういうことはよくあって、後から「あの話、最初の話とズレてたじゃん。なんでその時に気づかなかったんだろう」と思ったりするが、なぜそういうことが起きるのかと考えると、上記の例で言ったら、ぼくからすれば当然、ぼくの頭の中にある内容が「本題」なのだけど、コメントする人からすれば、その人の頭の中にある内容こそが「本題」というか、よもや自分が対象をズレて捉えているなどとは思ってもいない、ということが根本的な要因になっていると思える。

どちらも自分が正しく「本題(議論の対象)」を捉えていると思っているから、そこには必然的に「思い込み」同士の会話が生じるわけだけど、思い込む力が強い人の言いぶりを見ていると、「まあ、そうなのかな」という感じでつい引っ張られてしまう。

「筆者の意図からズレているのに筆者すらそっちに引っ張られてしまう」という状況は、それだけを聞くとまったく理に適っていないように思えるが、よくよく考えてみると、これはこれで避けがたいことのようにも思えてくる。

なぜなら、ぼくらは普段の生活において、いつも「他人」が「本当のこと」を言っているという前提で過ごしているからで、もちろんニュースなどを見れば、常に誰かが誰かを欺いているし、そこまで極端ではなくても、服屋では似合わない服を「似合う」と言って売りつけたりする日常もあるかもしれないが、それでも通常の対人関係においては、「相手は本当のことを言っている」という前提にしておいたほうがスムーズに過ごせる社会を生きている。

だからおそらく、「この人は自分を騙しているわけではない」と考えるクセが多くの人には身についていて、そこに真剣な面持ちでいろいろ意見を言われると、実際にはちょっとズレていたとしても、それ以上に真実味というか、信憑性というか、現実味のようなものが存在感を増してきて、元々の「本題」を、後から来たその「ちょっとズレた本題」の方が覆って上書きしてしまう、という感じになるのではないかと想像する。

まあ、中には、本心からそう思い込んでいるわけではなく、交渉術というか、現実歪曲空間のようなもので、意図的に話をズレさせてしまう人もいるかもしれないけど、そういう人はやはり例外的で、通常、そのように話がズレていることに気づかないまま議論を進めてしまうのは、

どちらも自分が正しく対象(本題)を捉えていると思っているから

ということになるのではないだろうか。

さて、それとは別に、そもそも「話がズレている」とはどういう状況なのか? という問題(というか個人的な関心)があるので、それについても書いておく。

ぼく自身はこれまで、「話がズレている」という状況は、たとえば論理演算を示す以下のベン図*1のように、お互いの話している対象が上下左右にズレて、重なったり重ならなかったりしているイメージを思い描いていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Relation1011.svg

しかしながら、前回の記事へのブックマークを見ながら頭に思い浮かべたのは、そういった「対象自体がズレている」状況ではなく、「対象は同一だが、焦点(ピント)がズレている」という状況だった。

ここでまたひとつ、その違いを示す喩え話を考えてみると、たとえばAさんがテレビで二階堂ふみを見て、「この人、宮崎あおいに似てるね」と言ったのに対して、Bさんが「いや、耳の形が全然違う」と言うような状況が近いかもしれない。

このとき、AさんもBさんも確かに二階堂ふみ宮崎あおいを見比べているのだが、フォーカスの当たっている部分というか、焦点の合っている場所というか、ズームの倍率がぜんぜん違う。

Aさんは顔の表情とか、骨格とか、見た目の第一印象とかについて論じているのだけど、Bさんが見ているのはそこではなくて、自分が関心を持っているディテールに集中して意見を述べている。

このときに重要なのは、Bさんの方もべつに誤ったことを言っているわけではない、ということである。
Aさんと同様にその二人の見た目について話しているし、述べられている情報にも間違いはないが(たぶん)、「そもそも何の話をしたいのか?」という目的や、「似ている」とはどういう意味か? といった定義や前提が異なっている。

これはあるいは、定規で引かれた直線をどんどん拡大していくと、線が力の加減で微妙に細くなったり太くなったりしているような場合に、それを遠目に見た人は「直線だ」と主張し、顕微鏡で見た人は「曲線だ」と主張するような違いにも近いかもしれない。

そのどちらも間違ったことは言っていないし、主張の対象も一致しているが、「だいたいどのあたりに焦点を絞って、どのぐらいの正確性にもとづいて話すのか」という精度の基準が異なっている。

このような行き違いが、上述の「自分こそが本題を扱っている」という主観とともに生じた場合、そのスレ違いはなかなか解消しづらいものになるのではないか、という気がしている。

さて、ここまでの話を踏まえて、ではどうすれば、そういったズレを避けながら話し合えるのかと考えてみると、結局のところ、それは「目的を共有する」ということに尽きるだろう。

逆に言えば、目的が共有されてさえいれば、意見が一致する必要すらないとも言える。
あなたの目的を達成するには、その方法は適していませんよ、その知識は間違っていますよ、こっちの方を知るべきですよ、みたいなリアクションは、意見の内容は異なっていても、意図や前提はズレておらず、同じ目的を達成するための考え合いになっている。

はてブでもTwitterでも、限られた文字数で言い切られた話(意見、エピソード、喩え話など)に対して、ほとんど喧嘩と言ってもいいような言い合いが行われていたりするけれど、どう見ても目的が一致していない、と思えることが少なくない。

一種のエクササイズとして、自らの気分を昂揚させるためにあえてやっているならそれも良いかもしれないが(いや良くないか)、そうでないなら、そもそも自分はどういう目的でそれをしているのか、と意識してみることが役に立つかもしれない、という気がする。