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午後3時。おそらくここ数年でもっとも気分的に苦痛だった事象がひと段落。まだ終わっていないが、それにしてもこの達成感のなさは異常。
ああしかし、ああしかし、こうして書いているうちに、そうか、まあ良かったじゃないかと思えてはくる。それもブログのよいところ。これってブログなんだっけか。
大体、自分が発している言葉や考えている事象なんていうのはかたちも色も匂いもないので、何かに書き付けることではじめて「おまえかよ」と気づくようなところがある。それはもちろん、間違いとしての「おまえ」なのだが、それにしても近似していないとはいいきれない。カニカマを食べてカニを思うように、というとちょっと違うんだけど(カニカマはカニの擬態としてではなく、カニカマそれ自身として受容されているはずだから)、ともあれ便宜的にカニカマとする。これ、この便宜的なのがまさにそれ。メタ手法で表現できた。

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ネットを見たり見なかったりしていると、良いものもあればそうでもないものもある。そうでもないものを例えばここからリンクして「これひでー」みたいことを、僕は意識しているかぎりでは、やっていない。それはじつを言うとマイ禁止事項である。もうひとつ、自覚している禁止事項があるが、それは関係ないうえに言っても良いことはないので言わない。というより、「それをしない」と言うことにより、それをすることのヴァリエーションをおこなっている、ということはやはり言えるのである。(もし読者に、それをおこなっている誰かの姿を想起させたとしたら、その想像上の誰かがおこなった事を「現実ではない」と言えるだろうか)
僕はそれを(話戻ってます)、ネガティブ・リンクとよぶ。ネガティブ・リンクをしない、が、窓ガラスにも貼ってある座右の銘である。「〜をしない」という禁止・否定事項が座右の銘というのも寂しいだろうか。そんなことはない。人の欲望は時として、「〜したい」よりも「〜したくない」といったかたちをとってこそ現れうるのである(知らないけど)
いやなものを見て、それに触れない、というのは、そのように言葉上で(キャッチフレーズ的に)決めたわけではなくて、現実的に、触れてる時間がもったいないと思うからだ。意味がないのではない。意味はあるが、他のことに比べてそれが薄い、少ない、つかキライ。みたいなことだ。それをやってるぐらいなら、こっちにするわ的なアレである。
結局のところ、おい、オレこれ嫌いだぜ、なんて言っているあいだずっと、僕はそれを左手にしっかと握っていなければならない。その手を離せよ、てなもんである。その手を離せば、僕らがくっついているために必要な力は、相手のみが維持しなければならなくなり、それは少なくとも互いにつかみ合っているよりは、向こうにとって負担となり(単純にいって倍化する)、やがて向こうも手を離すだろう。ネガティブ・リンクをした途端、彼との結びつきはより強固になってしまうのではないだろうか。それが好きならそうしたら良いわけだが、僕はイヤだなと思ったら手を離すように、なるべくしている。もちろん、そうできないこともある。そのときは、やっぱりそういうのが、好きなんだな、と認識して、諦めて、そこからまた考え始める。考えることを止める困る人は今のところ近くにいないし、いてもどこかには隙間があるはずだ。