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きのう、一昨日と書いていた、紀伊国屋イベントに関する日記に対する、いくつかあるご反応を見ると、「話は面白かった」とか「関係者の方々には感謝しているし共感もしている」とか書いた部分はあまり印象に残っていないのかもしれないな、と思った。
僕の本意というか、言いたいことなんてそのまま伝わるはずないし伝わらない前提だけど、伝えようと思って書いているのも前提で、かといって伝わらなくて残念、ということでもなく、それこそ「全部は憶えられない」と菊地さんがそのイベントで言ったように、「全部は伝わらない」と思っていて、「でも」が続くから書いている。でも、「全部」に近づけることはできるだろう、みたいな。
僕は僕の言いたいことをわかってくれ、とは思っていなくて、でもわかってくれる人もいるだろうと思っている。読んでくれた全員がわかってくれるはずがないし、そんなことがあったら気味が悪い。というか危ない。ということはしかし、あり得ないから安心してる。全部わかってくれ、なんて傲慢というか、そういうのをコントロール欲求と僕は呼んでいる。コントロール欲求が悪い、ということではなくて、それを自覚することで解決に向かう何かはあるだろう、と思っている。
逃れがたく、というか普通は、人は受け取りたいように目の前のそれを受け取るし、受け取りたいように、という自覚がなくても、受け取れるようにしか受け取れないのではないか。その限界の中で、枠の中で、というかな、しようもなく定められたある範囲の中での風景を人はたぶん見ていて(もちろん僕も含めて)、そのことを自覚できたときに、見える範囲が広がったり変容したりするんじゃないか、と構造的な抽象的な話に終始するけど、思う。
このように書くこともまた、僕のコントロール欲求のあらわれである。こういうことを思ったのだ、と、わかってほしいな、という気持があって書いてもいる。が、それが主な目的というよりは、このように感じたことを記しておこう、残しておこう、という言い方のほうが近い。
誤解や誤読を避けることは無理というか不可能で、何しろ自分が言いたいことを自分でわかっていない場合が多く、また、原理的にですね、言葉というのがいろんな可能性を持ちすぎて、それを十全に扱うことなどできるわけがない。ただ、誤解や誤読が避けがたいのだとしても、それがどんな誤解であるのか、どんな誤読なのか、という精査はできなくもない、というかそれが、ようするにそれだろう、と思う。それで、ぐだぐだとこのようなことを書いている。一つの言葉が一つだけの内容をつねに指しているはずがない。そんなにも、言うことをきかないものと共にいつも思ったり感じたりしているのだ。すこし前に石川實さんのことを書いたが、あれは石川さんのことだけではない何かについて書いたのだった。ほとんど遺書と言ってもよい。