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いや・・・つかれた。。帰宅後、息切れ。そしてさっきまで激しく足ツリ。ウケるほどツッた。体力がないのはわかる。知ってる。でもそんなに。。午後イチで渋谷。すがすがしい、とかではない、蒸暑くすらある風がなんか、地元で子どものときとかに嗅いだ空気に似ていてなごんだ。Tokyo。HMVに行って、本当に本屋がなくなっていて(ABC)ビビった。ボーッとしていて、というかあんまり寝てなかったので、気付かずHMVが終わってもさらにエスカレーターで上へ上へ。あ、しまった、と思ってもエスカレーターは上がっていくので、行っちゃいけないところにエスカレーターは動かないだろう、だから大丈夫だろう、と思って運ばれるままどんどん上がると、なんかマンガ喫茶みたいなところだった。そういう「漂着」しちゃう人はけっこういるみたいで、マニュアルチックにエレベーターで降りるよう案内される。
何も考えずに、自動的に体が動いている、ということがやはりある。そしてそれが、やはり言語のイチ形態、ということもあるのだろうとじつはさっき帰宅途中に思ってた。言語とは、発話のことだけでは全然なくて、体がどう動くか、とかも含めてのものだろう。考えたばかりのことって普段弱いのを知っていて書かないのだが(その弱さが重要に思え、というのもあり)、なんか段々状況も変わってきたので書いとく。ネイティブというのはきっとそういうことで、その場所を歩いていて、ふと計画外の何か、たとえば「おなか空いたなー」とか思ったときに、「こっち行けばそーなってあーなってゴハン食べられるだろう」とかいう判断が、判断以前のところで体を動かしていくというか、学校や勤め先への道、電車のなかでの来し方にもきっと顕われる、そういうのが発話側ではない、また比喩や拡大解釈でもない言語、ということなんじゃったのじゃないか、と思っている。
とはいえこの説明の際の「発話」という言い当てにしてもまた、便宜的な媒体に過ぎないという自覚はある必要はあるのだけれど。
本題というか、最初に書こうと思ったことをまったく書いていなかったけど、今日は昼2時からpm13の打合せをして3時から仏革の打合せに参加して5時過ぎから仏革デザイン事務所まで徒歩。その間もその後も雨には降られず、涼しい。ボーッとしながら歩く。本当に本当に何も考えない。で、作業リスタート。すでにだいぶつかれててなんか目も頭も進まない。同じ所をなんども読んだりチェックしたり判断あぐねていたりして、これをペンキ屋さんでバイトしている時には「踊ってる」と形容し合ったものだった。ということも帰途に思い出していた。
帰宅後、息切れ。そしてDVDのレンタル安い日に借りた『ゆれる』を観る。昨日と一昨日で半分まで観ていたので、残りを。

ゆれる [DVD]

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