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 今日は昼から浅草へ。吾妻橋ダンスクロッシングというのがあって、行ってきました。
 http://azumabashi-dx.net/
 というのは吾妻橋のサイトを作ったのがいつもここに登場するyamatoさんのオフィスで、その繋がりでお誘い頂いたのでした。岡田さんの繋がりもあってこのシリーズ自体は知っていたし、というか僕は高校生の時からいとうせいこうさんが尊敬の貴方だったので桜井圭介さんと書いた本も持っていてそれ経由でグルーチョマルクスを知ったぐらいだからそういう流れでもこのイベント、随分期待、せずにはいられなかったが超残念な印象だった。
 人は、良いのだ。やってる人(スタッフを含め)に僕は文句はない。問題は、作品だ。あれらを、良いと言う人だっていて、それを悪いとも思わないのだが、やっぱりあれでリリースされている状況というのは、もう、通じる人にだけ通じてくれっていう宗教、ということなのだろうか。僕はもう、そこからは関係ないのだろうか。シベ少でさえ、初めて見て「おお、そうかこうなるんだ」と思って感動のたぐいを覚えたが全然足りない。時間が、じゃない。もうそれ、以外にはありえない何か問題がたしかにあったということだ。
 うーむ、だめだ、うまく言えない。批評とは、と思う。感想ではないのだそれは。感想なら好きなように、えーかげんにせい!と言ったら済む。人を悪く言って僕がすっきりしても(つもりだけだが)仕方がなくて、やってる本人に納得させる覚悟でそれを言えるかどうかが分かれ目なのだ。まあ恣意的なさ。康本さん(というのか)は凄い!が、つまらなかった。素晴らしい人なのだということはよく伝わって、パフォーマンスもたぶん、ディテイルを見れる人なら人ほど「おおお」と思うだろうし、見れない人である僕にも、ああこれは凄いんだろうな、って思わせるシンプルなキレイさとカッコよさがあって、よくできている。とひと言放ったらしかし終わってしまう。康本さんを悪く言うのじゃない。作品が、つまらなかったのだ。みんなもそう思っているはずさと言っているのでもない。でも一人は覚悟を持ってそう思って言っている。
 鉄割はひどかった。どこが?と本人に聞かれても、謝りながら説明しよう。古い。古くても良い、でも、もう、客を見ていない。何がしかの責任を感じてでもいるのだろうか。今より無名になりたくないのだろうか。固いというか抜けが悪いというか窮屈な感じがすごくした。何度も言うがやってる人が悪いのではない。作品が悪いのだ。ドラえものは笑ったが脇をくすぐられて笑うのに近い。体が反射しているだけの笑いで、それでもいいというならやったらいい。ジャラジャラはウケていたがこれがハマるような人に向けての作品、ということなのだろうか。僕が正しいというのではない。僕のようなのが一人いたというだけだ。ネギは悪夢のようにうんざりした。悪夢は比喩ではない。救いのない人を見て、そういう人もいるな、僕にできるのは、ああならないことだけだな、と思うのに近いつらさを感じた。ビニールを段取るスタッフは素晴らしい。皮肉じゃない勿論。
 最初にデュオで踊っていた若者は美大でパフォーマンスしているのを見ているようだった。時々、ジャンプして滞空している姿勢がカッコイイ!と思ったりしたが、彼らも、もう僕のことなんか見ていない。いいよいいよ!という友達か、頑張ってる私を見ている自分の声しか聞こえていないように見える、というかもっと多くの人の声を聞くべきなんじゃないか(あるいは全く聞かないでいるべきなんじゃないか)、というのがけっこう今日のイベント参加者全般に対する印象だったりもする。当然、僕にはあんな風には動けない。すごいと思う。もっと行くんだろう、と思う。岩渕貞太さんの話。でも今日のは本当、友達の習作を見せられているようだった。
 ボクデスさんは、これも何だ、もう、自分のファンに対してプレゼンしてるのか或いは、他に競争相手がいないということなのか、或いはこんなものなのかこの業界、といった感じだ。すごい人だと思う(また)。僕には出来ない(しつこくてスイマセン)。でも(でも)そういうすごさは多分やってる人だって思われたいそれではないだろう。面白い、ところもある。他の部分は、面白いところの引き立て役なのかといえばそういうんでもない。べつにそういうんでもない、でもいいのか。でも何だ、あれなのか。あれでいいのか。あれで笑うのか。笑うのを待っているのか。これで3000円とか取るのか。取る人が悪いんじゃない。でもあの作品(ボクデスに限らず)でそれはちょっと、ないんじゃないか。どうですか。
 バーテンをやった砂連尾理さんは、他のところでちゃんとやっているのを見たらまた全然印象が違うのかもしれないと思った。「他のところでちゃんとやっているのを見たらまた全然印象が違うのかもしれないと思った。」というフレーズは何だか、僕が書いたとは自分でも思えないぐらい匿名的な響きがする気がするが、そういう感想を引き出すに値する何でもない印象だった。最後に水を吐き出したのは「器官に入った」説を聞いたがそれが一番、お、カッコイイと思ったのはどうなんだ。
 シベ少は前記砂連さんと似てなんだか、CMに来たのかぐらいの縮小版感があった。初めて見たからということもあって素直に新鮮というか感動しもしたが、それはユリイカの小劇場特集で随分彼らの評判をテキスト経由の受け取りをしていたからかもしれないとも思った。頭で何となくあった印象にリアルのそれが重なってようやく、おお、という感じだ。すごい表現力だ、あの女子、と思った、あのヴィブラート・・・あんな女優を抱えるとは計り知れない集団だーと、もしかしたら今日唯一、想像を絶する世界の垣間見(カイマミ)をしたのかもしれないその瞬間。ファイターズをネタにしていたから、すごいな!時事ネタでしかもこの速さ!!と思った時点で「想像を絶する世界の垣間見(カイマミ)」をしかけたがどうやらペナントで勝った時点でのネタであったと分からせてもらって、安心したのは残念だったがそれは良いことなのか悪いことなのか。でも少なくとも、元気になったとは言えない。
 女の子5人のダンスは、岩渕さんの印象に近い。ああ、そうすか、と、美大の文化祭で行われているファッションショーとかダンスパフォーマンスを見ている気分だった。彼女たちは、既存の何かに近づこうというのではない風で、自分たちでゴリゴリと掘削しているようでそれは美大の文化祭とは違うのだが僕にとっては、でも、じゃあそれで今何マイル?となるといやまだ、美大の構内です。って感じだった。作品の話をしている。
 安部聡子さんは見るからに凄みのある人で、さっき今日の感想をあちこち見たら(といっても5件ぐらいだが)やっぱりそれなりの、知る人ぞ知る人のようでしかも彼女にしても、やはり「地点」という本社からの出向なのだった。それ、自体は構わないじゃないかと思う、勿論構わないのだ、しかし、僕は作品について語ろうとしていて今から語る。それは、あの場所で上演されること自体に意味づいてしまっている。積み重ねられた前提とともに味わうたぐいの一品だ。色合いで味わうはずの一色を単体で見せられたような、うまく言えないな、すごく残念なのだ。あの作品、あの女優さんを、あれだけの人数の前で上演した、ということについて気持良くなるために仕掛けられた公演、というだけ、という印象でそれ以外はないに近い。あれを面白い!と思った人は、いるだろうと思う。どうして思ったのかを説明できる人のような気もするが。僕はもう、ただただ聞いていたよ、でもやっぱり、えーかげんにせいと思った。場所が違うのか?客が僕であるべきじゃなかったのか?このイベント全体に言えることだ。ノイズとかいう問題じゃない。完成度だ。気配りだ。えーかげんにせい、なめるなよー、と思う。誰に向かってやってる催しなんだろう。僕じゃない?だったら失礼。でもそんなはずはない。やってる人に言う文句ではない。この事象に対して言っている。ちょっとひどかった。でも何が、ひどかったのだろう。内輪ウケ、けっこう。それ自体には意義あると思う。でもだったら、外部からはお金取らないでくれよ。
 最後に、今日見た、そのイベントに対する他の人の感想を一部ご紹介します。
 http://jouissance.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_7311.html
 http://bokumaku.exblog.jp/4500590
 http://d.hatena.ne.jp/sbtg/20061014/p1


 追記。中西理さんのはてなで同日の催しがレポートされていたのでトラックバックしました。
 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061014/p1