103

 内田樹さんのブログを読んで、ああ、こういうところがホント菊地さんっぽいんだが、どうだろう。と思った箇所があるのだけどそれはこんなところで

そして、このまま大過なくあと四年半いけば、晴れて「隠居」の身である。
隠居になれば、もう天下御免、怖いものなしのやりたい放題いいたい放題である。
ウチダさんはこれでもまだなにかいいたりないことがあるんですか?と驚かれる方もあるやもしれぬが、なにをおっしゃいますやらである。
私がこのブログに書き連ねていることは、毒気が三分の一程度に希釈され、市民的温顔をつくろった苦心の修辞的構築物である。
ほとんど一行書くたびに、「おっと、私にも立場というものもあるから自制しなきゃ・・・」と文言を訂正しているのである。
晴れて大学を辞めたあとに、諸君はどれほどの心理的規制に私が耐えていたのかを知るであろう。
http://blog.tatsuru.com/archives/001929.php

 この三段目、「ウチダさんはこれでもまだなにかいいたりないことがあるんですか?」と、ふいに彼の中の他者が顔を出してそれに回答し始めるあたりなんかはとくに菊地さんの日記と親和度が高いというか、え、そんなの皆んなやってることじゃない、と思われる方もあるやもしれぬが、またそこで使われる単語なんかは違うかもしれないのだが、結局言ってること、話の展開の仕方、トピックを提示する順番というか、これは小説家の保坂和志さんの言うような意味での「文法」にあたるとも思うが、ともあれそういう部分があてどもなく菊地さんを召還するというか、想起せずにはおれないんだよなあと思っている。そんな菊地さんの日記はこちら。→http://www.kikuchinaruyoshi.com/dernieres.php
 ところで、この内田さんのエントリーはこんなふうにつづきます。

最初の授業はいきなり新規開講の「クリエイティヴ・ライティング」である。
これはキャリア・デザイン・プログラムの「メディア・コミュニケーション」科目群に将来的に組み込まれるべきもので、いずれ「物書き」として働くことを希望している学生諸君とともに「書くとはどういうことか」についてラディカルかつテクニカルに考究しようではないかという野心的プログラムである。

 というこれは、後藤繁雄さんが京都造形大学でたしか始められたばかりの授業の一つに激しく被るんじゃないだろうか。とっても面白そうな授業だけど、さすがに場所が神戸ではモグリも聴講制度を利用して聴くこともままならなさそうだから、自主ゼミ(これ)や自分の家でいろいろ実践しつつ考えてみよう。それでさっそく思うのだが、今スーパースクールの半ば自主企画でやっている「本づくり」というタームがありまして、そこでやってることはかなり汎用性があるような気がしていて、それを自主ゼミや他の場面でも使っていけそうというか、むしろ人々は使っていったほうがいいって気がしてる。つまり誰しも自分の本、というものを作ったらいいということで、自分のバンド、とか自分の音楽、というのをやってる人なんかはつまりそういうことをしている(しようとしている)のだろうと思ってる。
現代思想のパフォーマンス 内田さんの話に戻ると、内田さんにはそのエントリー(http://blog.tatsuru.com/archives/001929.php)の次の段に登場する難波江和英さんとの共著に『現代思想のパフォーマンス』というものがあって、これは現代思想の見取り図みたいなものでこのまえ立ち読みしたらとても面白そうだったのだけど、そういう見取り図というのもそれだけで音楽のよう、というか、とくにこちらに素地がなくても楽しめるからいいなと思う。もちろん素地があればまたそれなりの面白さや楽しみ方ができるのはそうなのだが、しかしある意味無責任な風合いでそういうもの、流れに身を任せるような愉しみというのもかけがえない。よく読書は能動的な行為だと言われてたしかにページをめくったり字を目で追ったりするのは他ならぬ自分の意志によるものなんだが、だからといって読んでいるときに本当に「俺は今読んでるなあ」と自覚できるほど意志的であるのか、またその状態を能動と言うのかっていうとわからなくて、経験的にいったら半分寝てることもあり、そのような状態で読むのにも『現代思想のパフォーマンス』は少し適しているように思ったものだった。