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 ところで本谷さんだったら嫉妬。という時の嫉妬について、最近いろいろ考えるうちの一つとしてグッと考えたのだが、嫉妬自体は決して悪いことではないたぶん。というか、その嫉妬の構造のほうはわかりやすいのだが、最近謎なのは木村カエラさんを目にした時の嫉妬としか言えない(と思えた)あの感情だ。
 河合隼雄先生の言うところでは、嫉妬というのはどうも「自分だってそのぐらい出来たはずなのに」的な、自分の可能性を信じているがゆえに発生する感情ということだが(マイ解釈)、そしてそういう意味では、本谷さんが評価されることに関して僕が嫉妬するのは大いに理解できるのだが、木村さんに対してはそういう経緯からの嫉妬ではどう考えてもないような気がするのだ。だってあのようになりたいだとか、なれるだろう俺なら努力すれば、とかいったことは、思えないのだどうしても。
 それで、河合先生の仰るそれに後から繋がるのかまったく別のことなのかはわからないまま、彼女がテレビで歌っているところを見ながら僕が「これは嫉妬だろう」と直観的に断じつつもなんか別の言い方もあるかもしれないその居心地の悪さについてもう少し考えてみたのだが、それはやっぱりひと言でいって、

俺の存在が、ないことにされてる。

 という感覚であるようだ。何というかな、イケてる世界が世の中にはあって、そこに僕はいないのだが、まるで彼女はそのイケてる場所から発信しているかのような・・・。って、それはもう通り一般の「嫉妬」そのものでは?という気もするし、たしかにそうだよなあとも思うのだが、しかし実際僕はべつにそのようになりたいわけではないので、そういう意味では違うんだよなあ、と自省的に検証しもするのだが、しかしやっぱりどうにも、この感情に名前を付けるとなると、「嫉妬」と言わざるを得ないのだ。
 ちょっと入り組んだところで考えれば、

いや、俺は彼女に嫉妬しているのではなく、彼女のいるその世界においても、ないことにはされない誰か、に対して嫉妬しているのだ。

 という、つまりは便宜的に第三者を立てて、その架空の第三者に対して嫉妬している、ということにしてしまうことも出来るわけだが、そしてそれはそれで何だか筋は通る気もするのだが、唯一、これは実感というか腑に落ちるか否かという点でちょっと弱い気がする。僕の感じるこの居心地の悪い感情は、やはり彼女自体に、あるいは彼女のような誰か、が振りまくものに、向かっているように思えるのだ。ついでに言えば、ものを考えるということは、このように「これではない、それではない、さらにはそれでもない」と、なに「で、ない」のかを判断し続けることでしかないような気がしている。
 話を戻してさらに考えれば、僕はそのようにおそらく、彼女から「ないこと」にされているような印象を勝手に受け取って「嫉妬」とひとまず名付け得られてしまう感情に襲われている(いた)のだが、それはなぜだろうって話で、ああ、わかった。それはつまり、

嘘を、つくなよ。

 という感情ではないだろうか。といっても別に、彼女が意識的に悪意ある嘘をついていて、それが許せないということではなくて、(許せない、という部分はそうなのだが、)やっぱりそんな楽しくないもんだろう人生、という気持が僕にはあって、彼女の歌ったりいろいろやっているところからはどうしてもそういう苦しさみたいなものを「ないこと」にした香りを嗅ぎ取ってしまうのだきっと。
 とはいえそれは、彼女の人生経験が浅いとか表現が甘いとかいうことを言うのではなくて、つまりは僕が彼女のパフォーマンスなどからどうしても「人生を楽しもうよ!つらいこともあるかもしれないけれど!」的な、凡庸で薄味なメッセージを勝手に受け取ってしまい、そこから彼女をそんなツールとして私腹を肥やしている嘘つきな誰か、の存在を勝手にさらに受け取ってしまっている、ということがあるのかもしれない。
 勿論、すでに言ったように彼女は実際にはそんなことは言っていないかもしれないのだがそれはどうでもよくて、僕は最初から、自分がこのような感情を感じている理由はなんだろう、という自分の話だけをしている。また同時に、これは僕が考えていることのすべてでもない。なんてことを、言う必要はあるのだろうか。
 思うに、人生は元々けっこうつらいものだろう、主観的には。他人からは「いいですねえ幸せそうで」なんて言われても(って話をそういえばこの間の後藤ゼミでも話していたのだっけ)、本人にとったら全然違ってたりする。というか違う。そんな世界において、「人生は楽しいよ!」とかもしくは「私にだっていろいろあるけど、楽しもうよ!」的なメッセージを勝手に受信してしまって僕は、それで「オイッ」と許せないような気持になってしまうのかもしれない。いや、それでは論理が破綻しているというか、破綻以前に、たんに筋が通っていない。だってそれじゃ「許せない」理由を僕がちゃんと提示していない。だからその理由を新たに提示しながら言い直すとこうだ。
 つまり彼女はそういう「人生におけるつらいこと」を世界の負の部分として固着させたうえで、それに対置する正義のヒーロー的な役割を「楽しい人生」に与えているように僕には見える。何度も言うが、彼女自身がそんなことを言っているとは僕も思っていなくて、ただ彼女「的」なものはたしかにあるはずでそれに対して「許せない」ような気になっている。人生や世界にはつらいことがあるだろうが、しかしそれを「負」のものとして設定してしまう(名付けてしまう)ことは、ちょっと危険というか問題があるんじゃないかと僕は思う。だってそれ(負=つらいこと)からは、死ぬまで永遠に逃げ切ることはできないのだ。というか第一に、死ぬより「負」なことがあるだろうか(反語:いや、ないだろう)。たったそれだけの意味でも、人生から(あるいは人から)「負=人生におけるつらいこと」を取り除ききることは、そこから逃げきることは、できないのだ。(この際には、他人と比べてどうこうなんてことは全く関係ない。死ぬ段になれば、そんな比較がまるで無意味だったってことがきっとわかる。生きる意味は個人がそれを「何として」生きるかというところにしかない。)・・・そんな人生にあって、その中における「つらいこと」を「負」の名のもとに固着させてしまったら、「つらいこと」が訪れるたびに本当につらいだけになってしまう。どんなに楽しいことが本当に起きたって、それが「つらいこと」とセットになっていたらもうそれだけで心から喜んだり楽しんだりすることは出来なくなってしまうし、大抵の楽しいことはつらいこととセットなのだし(あるいはちょっとズレてやってくる)、さらに言ったら人は本当は「つらいこと」を望んでもいる。だから思うのだが、「つらいこと」は「つらいこと」であって、他の何も意味しない。それはましてや「負」ではない。楽しいことも同様で、また「つらいこともあるけど楽しいこともあるね」は、「つらいことも楽しいこともある」を意味しているだけなのであって、「プラマイゼロ」は意味しない。しかし、木村嬢の振りまくポジティヴィティというのは何だか、楽しいことはつらいことの対極物であって、価値はそうしたポジティヴィティ(=肯定性)という部分的なものだけに抽出される、宿る、ということを示しているようで、それで見ていて僕はちょっと元気がなくなるのかもしれない。それは何というか、世界の狭さだったり、聞き分けのなさだったり、無自覚な暴力だったり、そうしたものを、彼女を通したずっと向こうの別の誰かなり世界なりといったものとして勝手に感じ取って、何度も言うが許せないような気持に僕をさせるのかもしれない・・・。いやしかし、それではまるっきり、最初に書いたように、「それは嫉妬ではない」ことになってしまう。そしてにも拘わらず、僕にとってその心境には、「嫉妬」と名付けられそうな色あいが強いんだよなあ・・・なぜだろうか。
 うーむ、わかった。あれかもしれない。これまで書いたようなことはいわゆる嫉妬とは関係がなくて、僕はきっとただ怒っていたのだ。彼女的なものに対して。で、嫉妬としてあったのはそれとは別に(といっても完全な分断はありえないが)、本当にふつうの、こんなに若いのにチヤホヤされて・・・みたいな経緯のものだったのかもしれず、それが一番腑に落ちる解釈だ。思うにやっぱり嫉妬というのは、自分とそうレベルの変わらない誰かの何かに対して、そんなあなたがそんな華々しい扱いをされるのは面白くない、という感情であるはずだが、しかしながら・・・うーむ、でもやっぱりその場所自体にはやっぱり興味ないしなあ。ってあれか、キーは「他人=第三者」か。第三者であるところの評者が、自分ではなく嫉妬の対象を認めているその磁場に、人は(というか)怒りを感じずにはいられないのだ・・・と考えるとやっぱり、それがある種の「無駄」であることは間違いないが、同時に、自分がやっていることは、自分が生きている間にあっても認められうる種類のものだ、という期待があるからそういう反応が出るわけで、そういう意味ではたしかに河合先生の言うように、俺ってまだまだやる気あるのなあという気持を確認するきっかけにはなるのかもしれない。現世において、人に認められる可能性が自分はあると思っているからこそ・・・かあ。うーん、さらに今自分で読み返したらまだ書かれていないことがあったが、それは恐怖が元になったものでもあるなどうやら。つまり、俺はこいつの存在があるせいで(周りがこいつばかりを見ているせいで)、せっかく俺が頑張っても、俺が生きているあいだには周りが俺を認めてくれないどころかその契機となる、俺を見るっていうことさえしなくなってしまうかもしれない、という、孤独と同義の恐怖を感じて、それがいわば嫉妬の本質の一つなのではないか。自分への期待というのはそのウラオモテとして恐怖を抱えている。それがシュワァーと噴き出し始めるのが、他の、自分とさほど変わらないかある種の領域においては下でさえあるようなレベルにあると思われる人間が周りに認められている時で、それはそれによって人が自分へ目を向ける機会が失われてしまうと思い込んでしまうという作用が働いているからこそのことかもしれない。
 間違えることは構わない。でも、わかって間違えなさい。と高橋センセイは言う。わかってますよ、間違ってます。でも、そのまま言っちゃうのはやっぱり、問題ですよねえ。すいません。でもしょうがないね。
 いやいや、でも、んー、わかった。やっぱり「嫉妬」というのはただの言葉だから(なんて言うと、まるでここまで考えたことを「意味なかった!」とひっくり返してしまうオチを求めて言っているようだが全然そうじゃなくて)、その言葉に付加的にくっついた巷間言われるというか、通り一般の意味合いでの「嫉妬」というイメージに僕は絡めとられていて、そのような意味ではたしかに嫉妬だったと言えるのだが、厳密には違った、ということかもしれない。いやいや、全然結論とかではなく素材としてのプロセスなのだが。