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 逗子へ。
 一泊二日で、海辺に住むペン大同級生のもとへ数人で小旅行。海を見るって、いったいどれぐらいぶりだ俺。投げやりになりそうなほど昔って気がする。
 初めて降りる逗子駅からバスにのって海岸まで。そこからは、いまジャコメッティ矢内原伊作展を開催中(→詳細)の神奈川県立美術館葉山分館も近いので、帰りに寄ろうとバス停の場所を確認しておく。ちなみにこの展覧会情報は、保坂和志さんの掲示板で仕入れました。

 海岸。砂浜。歩きづらい。久しぶりだ。曇り。蒸してる。しょっぱい匂いがする。


 海だ。


 家に到着して、荷物を下ろして少し喋る。古い、大きな、大きな家だ。この近辺には夢のように趣味の悪い新築のマンション(別荘用だろう)が次々建ち、地面もどこかのテーマパークのような風合いで成形されている場所と、昔のままの家や道とが混沌と並び合っていて、否応なしに「シュール」という言葉が浮かんでは消えるが、この家は後者の空間を保持している。初めて来たのに以前から知っていて、久しぶりに帰ってきたような家だ。庭に面した窓から強い白光が畳に差して、真っ黒な屋内の陰の部分との対比が絵のように頭に映る。庭沿いの廊下(というものが、あるのだ)をてくてく歩くと、それだけで素晴らしく気持がいい。なんのためにそこを歩くのかというと、庭を眺めるためとかどこかへ向かう途中とかではなく、その廊下を歩いてみたくて歩いている。そしてそれだけでウッとするほど充実する。
 外のほうが涼しいからと、陽が暮れるまで散歩に出る。男(妙齢)たちが列をなして、ポツ・・・ポツ・・・と時々言葉を交わしながら歩いている。ビーチサンダルを摺る音がする。道路を渡って海岸へ入り、浜辺を行く。歩き慣れている家主と、疲れ気味の僕との距離が次第に離れる。疲れているから僕は急いで追いつく気にもならなくて、我々のあいだを繋ぐ線が伸びていく。砂浜に、互いを結ぶ紐が曳かれている。それは水平線と平行だ。翌日の、ちょうどほぼ同時刻に目にしたジャコメッティが作ったブロンズのように、僕らは広大な砂浜に小さく立って移動している。

 若い人がやっている海の家をハシゴして、2軒目ではちょうどサンセット・ライブをやっていた。ボサノヴァと何かを混ぜたような、オリジナリティはないが場にぴったりの心地良い音楽だ。曇りなので日没は見えないが、空が大きい。海から空まで、視界をさえぎるものが一つもないのだ。波打ち際で足を踏ん張る子どもと、真上にあるちぎれた雲が、同じ重さで並んでいる。クラクラする。

 陽が沈んで、モノトーンの陰影だけで世界を判別する時間帯がやってくる。道路に上がって、山道を越えて帰ろうということになる。海のすぐ隣は山で、その中腹に神社がある。山道の入口がそのあたりにあったはずだが、仄暗くて見つからないので、近くで煙草を吸っていたおじさんに「山道はどこですか」と聞く。
 おじさんは「その裏から入れば行けるけど、この時間だと(腕時計を見る)、もうマムシが出るからやめたほうがいいよ」という。「やめます」と言う。
 「昼ならそんなに出ないけどね。この時間はやめたほうがいいよ。」


 スーパーに寄って、晩ごはんの買出し。ビールとスナックと、肉。UNOも買う。UNO・・・いつ以来か。家に着く頃にはもう真っ暗になっていて、小道では足元がよく見えない。何度もよろけて、地味に怖い。

 テレビはあるが、ラジオを点ける。地元のコミュニティFMは家主の推薦で、「会話を邪魔しない」。たしかにほどほど趣味がよく、知らない(知ろうとも思わない)佳曲が流れている。ビールとコーラを開けて、それからいつまでも喋る。

 蒸し暑さと顔の汗で目が覚める。ものすごく怖い夢を見た。夢であってくれと思ったらそうで良かったが、いずれそうではなくなる。それを待ってもいる。布団をたたんで、着替えて、一人でまた散歩に行く。それが当たり前であるように。

 10時を過ぎていて、いくつかの海の家はすでに開いている。子どもたちが(昨日とは別の、だろうが違いはわからない)また遊んでいる。岩に座って、波とその向こうの空をいっしょに、ボーッと眺める。波の音が結構うるさい。ビールの酔いが残っていて、首と背中がぺったり重い。目の回りがこわばっていて、世界を限定的にしか捉えられない雰囲気だ。
 しばらく経ってからお腹が空いていることに気づいて、スーパーに行く。さんざ悩んで、お茶だけ買って休んでいると、携帯メール。

おはよう。今、どこにいる?

昨日のスーパーです。

じゃあウチらも散歩に行くから、朝メシの買出ししようか。

OK。入口でだらだら待ってます。

 友人の辣腕で、ベーコン・エッグをはじめとした豊かな食卓。帰りに思わず買った「肉屋のコロッケ」をバンズに挟んで食べもする。バンズを指してひとりが聞く。
「これ、なんて名前で売ってるの?」
「皮パンです」
「俺の世代でかわぱんと言えば、革パンしか浮ばないのだが」
「それで合ってるかもしれないですよ」
「革だ、これ」
「でも自分のほうから皮って宣言してるのもすごいね。実ではなく、皮だって。一応れっきとした食べ物だけどね、脇役であってメインじゃないって自覚がある」

 最後まで寝ていた家主が起きてくる。お先に頂いてまーす、とか、キッチン使わせてもらいましたーとか、バラバラに言う。それから皆で、昨日のつづきの話をとりとめもなくする。

 午後になって、早めに出立する。保坂さんの掲示板にあった、ジャコメッティの展覧会を見るためだ。バスを5分ぐらい待って、乗ってから5分くらいすると、立派な体の美術館に到着する。ジャコメッティの作品の、とくに絵画を見ながら、この人の気持がすごく良くわかるような気がすると思った。美大に入るために予備校で油絵を描いていたときの、純化された制作への姿勢を思い出したし、もっと思い出してもいいんだよな、と再確認した。あの頃の感じっていうのは、誰が何と言っても、もの凄く大事なものだ。そこにはひじょうに有効な鉱脈がたくさんあるし、予備校時代に考えていたことを、本人をはじめもっと多くの人が重要視するべきだと思った。
 地下の図書室に行って、静かなその場所で、時々窓の外の濃くて大きな緑を眺めながら矢内原さんの著作を読む。快楽としか言えない眠気がやってくる。そういえば、あんまり寝ていなかった。ふと、このところ考えていたロック音楽の定義について思い返した。僕がやっているのはどうやら、ただ考えることだけだ。ロックは人間の本質そのものだと思う。だから盛り上がる。ロックが終わってるなんてあたり前のことで、我々はロックの「死性」に魅力を感じているから、常にそれを殺す努力に励んでいる。でもその話はまた別項で。

 帰りの電車では、ずっと自分でつくったオリジナルMDを聴いている。フライングキッズの3枚目だったか、『お別れのあいさつ』という曲がとても好きだ。このアルバムは基本的にどれも良い。4曲ぐらい気に入ってるのがある。さびしい、でもやさしい歌を聴きたいような気持に最近よくなる。UAの『リズム』も入ってる。このようなテープを作ることは意味がある。自分が何を好きなのか、普段は忘れているし、それが続けばいずれひとつも思い出せなくなって、退屈がすべてを覆うからだ。

 やっぱり蒸し暑い中、傘をさして延々歩く。大汗をシャワーで流して、ピチカートの『きみみたいにきれいな女の子』を聴く。・・・ベースが黄金進行のようだがどうか。