103

 忘れてた。今日からできるときにエントリーします。候補の条件は、古本でもいいので「持っている本」から。図書館で借りて再読できないものは外しましょう。では候補作1番から。
1) 映画的最前線1988-1993 佐々木敦著(水声社
2) 現代口語演劇のために 平田オリザ
3) DJ選曲術 沖野修也リットー・ミュージック)
4) NEW TEXT 後藤繁雄他(リトル・モア
5) ヘーゲル・大人のなりかた 西研NHKブックス
6) 100回泣くこと 中村航小学館
 と今日はこのぐらいでしょうか。1)は古本屋で購入。ソリッド。2)は勿論岡田利規さん経由で知ったもの。すごい豊かな感情あふれる文章。3)は自分が話してるのかと思う、という傑作の条件を持った小説のような著作。4)は後藤さんの編集教室へ通うきっかけになった古本。『僕たちは編集しながら生きている』という続編があるが、その100倍魅力的。6)は泣かせの本と思われそうだが20年もすれば本当の価値がわかるだろう。泣かずに読んでも大乗仏教。5)は以下の2点が重要。

 自分の掲げる理性や正義は、ほんとうに人々の生きている実情をくみとっているのか。その点を考慮に入れてはじめて、自分の正義は受け入れられる可能性を広げることができる。自分の考えを人々に受け入れてもらいたいと願うこと、そして、人々に絶望してしまわないで(「あいつらはバカだ」にならないで)、人々に対する信頼を自分のなかにもちたいと願うこと。人々と新たな共同関係を取り結びたいと願うこと。そう願うからこそ、自分の正義が「独善」にならないか、とチェックする必要がある。(略)
 この態度は、社会や集団を批判するときに「やさしいソフトな言い方」をしましょう、ということではない。とても厳しい批判であってもいい。しかし、外側から嘲笑う(あざわらう)ように批判することはよくない、とぼくは思う。
 ぼくの考えでは、批判の行為はほんらい、新たに共同関係を取り結ぼうとする行為であるはずだ。しかし、大衆からの距離をとるためだけの批判、自分の優越性を保つだけの批判、そういうものが眼につくことも多い。そのたびに、正直いってぼくはガッカリする。思想がそんなものになってしまったら、ほんとうにつまらない。
 しかしいまなお、「共同体」や「大衆」を悪口にしたてあげて、そこから距離をとろうとする言説が力をもっている。それはなぜなのだろう。書き手の事情とは別に、それを読んで共感する人たちには、それなりの事情があるはずだ。
 ぼくは予備校生の小論文やレポートを眼にする機会があるけれど、ときどきそこから「イジメの傷」のようなものを感じて、慄然(りつぜん)とすることがある。直接にイジメにあったかどうかは別にして、集団性や共同性に対する根深い恐怖が伝わってくるのだ。<変なふうに目立つと、いるイジメられる側にまわるかもしれない>
 そういう人が多数なのかどうかは、わからない。けれども、集団性や共同性というものがつねにある制約や要求を課してくる場であり、そしてなによりも、そういう「場の空気」をつねに配慮しなくてはならない、と感じられること。これはおそらく、若い人たちにとって(ひょっとすると「大人」にとっても)かなり一般的な感覚なのではないか、とぼくは思っている。
 率直に意見をいいあって、集団をもっと楽しく気持よい場所にしていく。自分たちで集団をつくりあげていく悦び(自由で共同的な感覚)を感じとる。そういうことができないだけでなく、想像すらできない。こうなると、集団はひたすら「疲れる」場所になってしまう。集団から離れて一人になったときにはじめて自己を回復する、または、ごく親しい何人かのあいだでだけホッと息をつく、ということになる。もしそうだとすると、これはすごく不幸なことだ。
 私たちは学校や職場などの「集団」をどのように経験しているのか。暗々裏のルールも含めて、集団はどのようにつくられているのか。そこでは、何が得られて、何が苦痛になるのか。そういうことを考えてみる必要がある。僕にはその能力がないけれど、この作業には大切な意味があるはずだ(社会学の人たちがそういう仕事を本気でやってくれないだろうか)。
(P235-237)

 文学や音楽は、ときに、「ああ、ここにも人が生きている」という感覚を与えてくれることがある。生き方が大きくちがっていても、深い共感が生まれることがある。思想の営みも、そういう働きをすることができるかもしれない。いや、そういうものでなくてはならない、とぼくは思うのだ。
 それはしかし、無理やり共通の夢を捏造すること、とはちがう。私たちの個々の実存的な問題をともに考え合うような営み。私たちの社会的な課題をともに考え合うような営み。そういう営みが、「人間はそれぞれに生きる努力を続けているんだ」という人間に対する信頼の感覚、また、「それぞれちがった仕方で、しかしともに生きているんだ」という感覚をつくりだせるかどうか。そのことが問われている、とぼくは思う。そしてぼく自身が、この感覚を切実に必要としている。
 「私と私の不幸」のなかで生きている。だれにもそれは理解されることがない。―こういう感覚は、とくに知的な優越性に自信を持っている人の場合、用意に「大衆嫌悪」に転化してしまう。しかしそのときの大衆という言葉には、もう、一人一人がそれぞれの場所で生きているという実感が失われている。たんなるマスとしての大衆しか、そこには想定されていないのだ。しかしこれは他人事ではない。そういう在り方をどう超えていけるのかということ、これはぼく自身の個人的な課題でもあるし、私たちの時代の課題でもあるのだ。(P239-240)

 祈りのような文体が、本全体に溢れてる。