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1211日記

12月5日(月)からの一週間は結構忙しくて、火曜には菊地さん、水曜には小田和正のライブを観に行って、結局当たり前のように体調が悪い。それでも明日はペン大今年最後の授業とその前に打ち合せ事項があったりするので、且つその打ち合せというのも細かくは書かないけど「ありがたい系」のお話なので頑張って出向きたい。
いろんな本を読んで音楽を聴いて考え事もあったしパッと嬉しい話もあるのだが書く余裕が僕にないのだ。明日以降持ち直せるだろうか。とか言いながら今聴いてる音楽を書いてみると、マイルスの50年代プレスティッジ時代の音源を集めたその名も『THE BEST』という廉価盤かどうかもよくわからないけど解説は岩浪先生のアルバムを聴いていて、初めは「ちょっと試しに」というぐらいだったのが、あんまり良くて変えられない。リチャード・ロジャースやビクター・ヤングの伝記があったら読んでみたいと思った。そしてペソ大では「スタンダード講座」を是非やりたいと思った。
とか書いてたら元気が出てきたのでもう少し書こう。やっぱり文章を書くというのは、音楽を聴くのとよく似ている。打楽器だ。と言ってもキーを叩く音ではない。全然ない。文章を読んでいる時に頭の中で流れている音、それが音楽だと思う。桐野夏生さんのエッセイ集『白蛇教異端審問』が図書館に出ていたので借りる。2000年に小説すばるで連載されていたタイトル・チューンはとくに気合が入ってて凄い。文体の気合ではない。姿勢の気合だ。作家が、自作への批評に対して反論するというのはどういうわけだが支持されづらいという事があって、昔テレ東の深夜にやっていた『モグラネグラ』という番組で鈴木慶一がそういう事をやったら一緒に出演していた音楽評論家さんに「そういう事はアーティストはやるべきじゃないと思う」と、やっぱり言われていた。でも、やってもいいのだ。アーティストの仕事は、作ることだけでも良いが、作ることだけでなければならないわけではない、全く。
村上春樹の『象の消滅』を借りる。黄色い本だ。前書きが非常に面白い。岡田さんの小説の載っている先月号の『新潮』も借りる。楽しみだ。パラッとみた感じでは、偽日記さんが言うような小説という枠に縛られたような感じは全くしなくて、むしろそうした枠を意識的に壊そうとした印象があった。というかそれがつまり「枠」を意識するということで、それは使う言葉が違うだけで同じことを言っているのかもしれない。というのは、好き勝手にやるには枠の設定が不可欠であり、その準備段階としての枠設定をこの作品で岡田さんはしていて、それを偽日記さんはもどかしく思っているということなのかもしれないので、別に誤読がどうこうとか(誤読といえば、「誤読は読者に与えられた権利である」といった事を作家の深町秋生さんが言ってたってgotandaさんが言ってた)読み手による意見の相違とか言った話でさえないのだけれど(ちなみに岡田さん自身は、その偽日記の指摘を的確な指摘と仰っていた)。という、その上で言うのだが、僕は偽日記の文章はいつも大リーグ養成ギブス的「文章を書くために書く文章」であるような気がして決して楽しく読む事は出来ないのだが、でも保坂和志さんも岡田さんも好んで読んでおられるようなので多分僕には計り知れない良さがあるのだろう。
ミクシィで友人の日記を読むとみんながみんなして雪だ!って書いておられるのだが、僕は夜中に帰宅してきたけどひとひらも見なかった。
ヴァージニア・ウルフの『病むことについて』というエッセイ集と、ゲド戦記の1巻と、なんか『トルストイの民話』というのを借りてきた。面白そう。