103

 菊地さんのジャズライブを見に行くのは2回目で、前回は青山CAYで観たクインテット・ライブ・ダブだった。もう一年半前じゃないか。会場に着くといきなりペン大の同級生に名前を呼ばれて驚く。彼はどことは言わないけれど遠方で毎日忙しく仕事している人で、昨日のペン大授業にもその多忙さ(と遠さ)により出席できなかったはずなのに、今日目の前にいたので、なんだこれは、CGか?ホログラフィー?と思ったが実物で、しかも今週金曜には地元でライブイベントに出たりとかするのだ。体壊すなよ!じゃなくて、ライブ&DJ頑張って下さい。
 それで既にテュエリー・ミュグレーの「エンジェル」(香水)漂う*1会場に入ってチケット切られて階段を上がる先に、今度は東大講義の際に知り合った方を発見。こちらはペン大生ではないので、ここでちゃんと挨拶しておかないと次いつ顔を合わせられるかわからないしと思って、階段の途中で危なっかしかったがちょっと喋る。で、その後もいろんな知り合いや見た顔を発見したりしなかったりしながら開演を待って開演。
 どうしよう、一曲目から全部思い出しながら書いたりしたら大変だ!なので、詳細はまた何かのきっかけで出てくるかもしれませんってぐらいにしよう。でも間違いなく言えることは、今夜家に帰って『南米のエリザベス・テイラー』を聴いてる人は沢山いるだろうなーってことだ。だって、僕今聴いてますもん!
南米のエリザベス・テーラー(DVD付) というか正直、僕は今まで『デギュ』に比べて『南米』の方は苦手っていうんじゃないけれど、今ひとつこう全体重をかけられる感じではなかったのだけど、今日のを見たらもう助走つけて飛び上がってからフォールできそうなぐらいの渾身な思い入れと共にアルバム総てを聴けてしまいそうで、実際もう3周目で。思うのだけど、CDではライブでは出来ないことを、ライブではCDでは出来ないことをやる、というのは良くある話で実際良く聞きもするのだが、今日のライブでは本当にCDでは簡単には思わないようなことを簡単に思うことが出来てよかった。とりあえずサックスの声は本当に人の声のようだった。サックスの音色が潰れる時は潰れたダミ声を聴くように体に入るし、それは菊地さんの吐く息(吹く息)によって鳴っている音なので、そうした具体的な「物体」として僕ら聴衆は耳からだけでなく口からも、まるで食べ物や飲み物をペロリと味わうように吸い込んでいる。
 例えば僕は、村上春樹の『海辺のカフカ』(そういえばニューヨークの書評で今年の年間ベスト10とかに入ったんだよな、この作品。関係ないけど)や『アフターダーク』といったその折々の新作を読むたび、「これって本当に最高に美味い食事を”好きなだけ食べていいよー!!”と言われてるみたいだよな」と思ったりするのだけど、つまり文学にせよ音楽にせよ、自分の知る世界をガラリと変えたり或いはそれを満たそうとする時には非常に「食べる」感じに近くなる。今日のアートスフィアに集まった人々は、さぞかしその菊地さんの吐き出すフルコースを心ゆくまで胃や肺におさめたのではないだろうか。まあそういう意味ではそれって確かに性的だったり官能的な話なのかもしれないし、そういうのを「堪能」って言葉を使って表すというのもそう考えると腑に落ちる。

*1:「エンジェル」は実は会場どころかその外でも既に香っていて、その時僕は「これってー、菊地さんのファンがつけてきたか、そうでなければ今から少し前に菊地さんがここを歩いたのかな?」とか思っていたのだが、ライブ後の今となっては、もしかして菊地さんが意図的に振り撒いて歩いたのではないかしらとさえ思っている。