103

 フロム実家。友人の結婚式当日。でも特にどうというのでもない。もっと何というか、「フェス」みたいな感じになるかと思っていたのだけれど。あと少ししたら、電車に乗って会場のデカいホテルに行って、言われたとおりに右往左往する予定。
テオレマ [DVD] 昨日も書いたが実家では時間の流れ方がもの凄くゆっくりしている。いつも読まない本を読む。昨夜から今日の午前中にかけて、魯迅の『阿Q正伝』を読んだ。これがもの凄い面白い。いつだかパゾリーニの『カンタベリー物語』を観たときの感触に近いというか、ああ、こんな世界・・・知らなかった、というか知ってたけど忘れてた。といった感覚。吉田隆一さんの『tea-pool』(超素晴らしい)を聴きながら読んでたら、ただでさえ実家の「いつもと違う」世界に漂っていたのが、さらに遠くの奥の方へ流されてしまったような世界旅行気分。中国文学はたぶん、日本文学とはかなり遠い場所にある(魯迅の顔は日本人にしか見えないが)。『新潮』の先月号(嶽本野ばらの『シシリエンヌ』後編の載ってるやつ)ではソクーロフのインタビューがあってそこで監督は「日本の文化はアジアよりヨーロッパのそれに近い」と言っていた気がするけど、そういう意味で。
 それにしても思うのは、既知の感動の追体験というのは退廃的な快楽を誘いはするけれど、こうした新鮮な感覚(一枚の壁を隔てて向こうに置き去りにしてしまった忘却を含め)の面白さと比べると見劣りしてしまう。どちらが良い悪いではなく、使用できるケースも各々違うわけだけど、今のところはそういう「新鮮」とか「あらたな可能性」とかの方が個人的には元気が出る。とはいえそれもパラメーションで、決して極端な二分法には落ち着かない。徒然に流れて書けば、『リバーズ・エッジ』の山田君の無臭感、無彩色性、”中性”性というものも、この現実世界においては絶対的なものとしてあるわけではなく、程度の問題に収斂される。兎角に人の世はパラメーション・・・というのはこれまたありきたりな「安心カテゴライズ」のパターンで恐縮だが、でもそうやってピチカートの『女性上位時代』を聴きながら『リバーズ・エッジ』を読んで超然とした虚無世界をドロドロの自室から眺めて味わうといったライフ・スタイルを、「パラメーション」を武器に打ち壊せるならそれが何よりもまず僕が僕の為に成すべきことなのだ・・・といったことを最近考えているので、魯迅を起点にしつつも多少ありきたりな事を言ったとしても目を瞑って欲しいところだ(それにしても『阿Q正伝』、読むたび非常に眠たくなるのだけど、それってやはり傑作の証だろうか)。
AMEBIC というこの辺の感想文(感想文で思い出したが、上記『新潮』では金原ひとみ斎藤環がインタビューするというありきたりのようで凄く面白いトピックがあったのだけど、そこにある作文を”錯文”としてしかも作品に捻じ伏せ練り込むというのはどう考えても凄いことで、それで本当にアミービック読んでみたくなりました。というか菊地さんが、金原さんと対談するために事前に無理して読んで臨んだって言ってたなあ、どうだったのだろう、本も対談も。)は、本当はもっとじっくり説明できると後で自分が読み返すときに良いと思うのだけど、今すごく眠いので書けない・・・。大谷仏革の註釈とかで使えるだろうか、られないだろうか。