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平成マシンガンズ

 もうあちこちでひと月ほど前から言われていますが、今日発売の文芸誌『文藝』では、15歳の受賞者*1がいるということで(でも受賞はその人だけではない*2)、小説家の藤谷治さんや、選考委員でもある高橋源一郎さんもWeb連載(後述)で採り上げているのですが、15歳にそういう賞をあげてしまうということ(と、それを眺めていること)への複雑なナニガシカというのは誰しもあるようで、例えば藤谷さんなんかは

選考委員の4名中3名が「年齢で選んだのではありません」と言っているが、年齢なんかどうだっていいのなら、知らんぷりすればいいのではないか

 ということを言っていて(大意です)、でもそれにしたっておかしな話で、何がおかしいかといえば、気にしない方が不自然というか、「年齢で選んだのではありません」というのは普通の反応というか常識的な物言いで、今回のケースで年齢について触れない選評というのはかえって意識し過ぎているようではないか、というかただ思ったとおりに書かれてそうなった選評なんじゃないか読んでないけど、と思ったりしたのでした。気にするよ、15歳なんだから。でも「才能がうらやましい。」とかはっきり書いちゃうのが藤谷さんの魅力的なところで、貴方もすごいです、たなだ君とかQとかチーズとかどれも。ちなみに高橋さんの連載の方には、受賞の言葉もあったりするので読むと面白いかもですよ。
藤谷治さんの日記(件のエントリーは10月7日(金)付)→http://www.ficciones.jp/nk2005.html
高橋源一郎さんのWeb連載(2005-10-08号/#55/15歳の決意)→http://www.mammo.tv/column/TakahashiG/
 でもそんなように揺れる由無しごとを見るにつけ思うのは、人と人を有機的に結び付けるのは、目に見えないコミュニケーション願望では必ずしもなくて、どうやら「作品」だな。ということで、職人としてであれ作家としてであれ、誰かが作った「なにがしか」(作品)が媒体となって他の誰かと繋がって、その際には年齢にしても一つの要素に過ぎない。三並夏さんについて何か語りたければ、作品そのものや、それを取り巻くエトセトラに触れればそこから「言える」何かが始まるわけで、そんなことは彼女がその作品を書かないことには生じなかった、という。それにしても『平成マシンガンズ』とはすごいタイトルだな・・・。この女子にしてもナオコーラさんにしても、文藝賞受賞作にはタイトルで軽く上がるものが多いですね。多いかわかんないけど。というか、センス的に80〜90年代のトンガリ・キッズ経由岡崎京子行き的なサブカル波動を感じるのは僕だけでしょうか。