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0828日記

1) 昨夜は4時ごろ寝たのが6時に起きてしまって、そしたらやけに目が冴えてそのまま眠れなくなってしまったので、いいや、もう起きちゃえと思って、ソファで瀬尾まいこさんの『幸福な食卓』と、文學界のバックナンバー(というか先月8月号)に掲載されている蓮實重彦先生の『喜歌劇とクーデタ』をようやく読む(前者は読む機会をようやく得たという意味で、後者はようやく最後まで行ったという意味で)。

2) 蓮實先生の今回の論文は”フランス革命”と重なるところが多くって、それでめくるたびにいつも楽しく読むのだけれど、どうしても後半になってくると頭が重く気持よく、ようするに眠くなってしまっていて(そして寝ていた)、でも今朝に限っては寝たくても寝られないほど冴えていたので対症療法的にというか、もう今しかないでしょう的に最後まで充実しつつ読める。あー面白かった。でも十全に把握したとは勿論言えないので(とは言ってもおそらく蓮實メイニアックから見たら、今回のは講演録を下地にしていることもあってかなり読みやすい方なのかもしれないのだけど)、出来ればチャートとか作りながら何度でも味わいたい。返すまであと9日ぐらいあるし(期間延長しました)。

3) 瀬尾さんの話題作にして代表作の『幸福な〜』は、福田和也氏も賛辞を惜しまない評判の作品だったのでかなーり楽しみにしていたのだが、僕にはホントに駄目だった。というのは「もう、全部が全部、合わなかった」というのではなくて、むしろほとんど好きなところだったりしたのに駄目だったという感じだ。
 瀬尾さんに関しては我ながらかなり早い段階から追っかけて、まだ『卵の緒』しか出てない頃のそのまた刊行されて間もないぐらいに日記で「天才だ」って書いたぐらい「えへへ、昔から知ってるよ」って感じなのだが、今まで実は薄々と感じながらも気付かないふりをしていたに近い或るポイントが、今回は目の逸らしようもなく露呈してしまったようだった、僕にとって。
 坊っちゃん文学賞をかっさらった『卵の緒』以来、彼女の一番の魅力は、ありそうでなかった超リアルな口語でありながらどこかしら品の良い会話文と、その効果を引き立たせる過不足ない地の文章で、とにかく何が凄いってそんな文章が他の追随を許さないほど独自だったことだ(会話文の妙といったら長嶋有とか絲山秋子を思い出すが、とりわけ長嶋有の会話文とは温度が近い気もしてます)。主題は家族だったり学校生活だったり、そうでなくてもまあ「普通」の「市井」の人々に一貫しているのだけど、構成にはいつも特異な仕掛けが凝らされている。デビュー作の『卵の緒』でそれに出くわした時の正直な印象は、「そんな展開にしなくていいのに」だったけど、でも新人賞への応募作でもあることだし、実際それでデビューしたのだからそれはそれで良しとすればよいのかとか偉そうに思ったりしたものの、その後も結構絶えずそんなことをやっていて、「そんなこと」と言っていることからもわかるように、そして最初にそう思ったと言ってるように、僕はそういう仕掛けはちょっと好きではない。
 というのは、そういう仕掛けそのものが嫌、というのではなくて、少なくとも瀬尾さんの作品にとってのそれというのは、魅力を減じさせこそすれ、引き立たせる効用は果していないと僕には思える。そういうので喜ぶ人はたくさんいるだろうしそれが悪いことかと言ったら悪いことなんてどこにもあるはずはないのだが、逆に言えばそれで喜ぶ人しか喜ばないという事態はそれで喜ばない僕にとっては歓迎できるものではない。というもって回った言い方をするのは何と、この作品に感動したとか号泣したとか一気に読みましたとか言う人が後を絶たないからで、そんなつもりは毛頭ないのにいつしか僕はそういう感動した人を貶めるような言い方をしそうになっている。
 誰が何に対して感動しようとそれはそれで良いに決まっているのだが、でもちょっと、イージー過ぎやしないか。この作品は本当はもっと開かれた地平へ向かっていたはずなのに(と、少なくとも僕は読みながらワクワクしながらそう思っていた)、後半で急に袋の口を縛ってしまったのではないか。こちらとしては、めくるめく新世界を期待していたのに、最後に提示されたのはドラマ化必至のデジャヴ世界。これでいいのか?と思わずにいられなかったのは、果たして僕だけなのだろうか。
 どんな本があったって良いし、繰り返すがそのどこに感動したって良いはずなのだが、それにしてもこの消化不良感は何なのか。以前これとよく似た尻すぼみ感を味わった作品があったよなと思ってすぐに思い出したのは、恩田陸さんの『ねじの回転』で、「うっわーー、何だこれ!超面白い!!」と思いながら読み進めていたら後半一気に減速してあああと思ううちにしっぽり終わってしまった。綺麗にまとめて凄い・偉いとも言えるが、その取り残され感と言ったらなかった。
 後に恩田さんは本屋大賞という大きな(たぶん)賞をもらったけど、そうして考えてみると『幸福な食卓』も実に本屋大賞に選ばれそうな(選ばれなくても)内容だ。ユーザーが被るというか。本屋さんがおすすめポップとか書きそうだよな悪い意味で、とか思う。でも、何がいけないのだろう。何度も自制するように、それ自体は悪いことであるはずではないのだが・・・やっぱりその思考停止感が嫌なのかなあ。何と言うか、こういうデジャヴ感満載の筋立てのものを、文句の言えない雰囲気を作りながら本気で正しいと思って提起&称揚するような世界というのは、息苦しくて元気がなくなってしまう。
 文章はどれをとっても独特に素晴らしいし、それまでどこにもなかったようなアプローチや粘りも随所に見られる。誰かが感動した部分というのはそういう粘りの賜物でもあろうと思う。でもそれは(これってミクシィのレビューにも書いたのだけど)、本当に更新されなければならない骨子に比べたら枝葉の部分に過ぎないと思う。枝葉ばかり磨いても、それは小説じゃないものでも十分対応できる世界のものにしかならなくて、お金になる筋立てやアイディアとして高級だというだけだ。
 瀬尾さんは僕とほとんど同い年で、これからもガンガン作品を生み出していかれるのだろうと思う。こんな調子で行けば、芥川賞直木賞も普通に獲れるのかもしれない。でも、出来たらあと200年くらいしても残ってるような作品を作って欲しいなあと思うし、そういう期待をかけられる人ってそうはいない。たとえ200年残らなくても、今楽しめる作品であればいいじゃないかという意見もあるかもしれないが、200年後にも楽しめる作品を今楽しめる機会というのは、今楽しめるだけの作品を味わう機会に比べたらあまりにも少ない。そんな機会を目前にしての事態なので、つい感想にも焦りが出る。言うまでもないけれど、次作も楽しみにしつつ。