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2004.10.31 Sunday @JGM-18th

  • 講義録をつくる時の話を、主に


0. これは
 本当は昨日の深夜3時に書いた日記なのだけど、JUGEMがアクセス過多のため繋がらず、それで今アップしてます。その前に菊地さんの日記を閲覧してきたのだけど、今日はちょっと感動してしまいました。
 昨日のスパンクス・ライヴを乗り切って、それで書かれたもはや(時々そうなるように、また)”作品”です。インターナショナル・クライン・ブルー
 →→ click!! ...04/10/31(sun)11:42:12
 
 高橋源一郎はエッセイで、「初めて”作家”を目にしたときのことを忘れない」とその特別な感慨を言っていたけど、僕はすでに”作家”に出逢っていたみたいです。そうですか。
 ということで、ここから下は昨日書いた日記です。


1. エアコンの
 暖房機能をこのところ何日か使っていたのだけど、何か匂うなーと思ってはいたのを面倒さに負けて構わずにいたら、その匂いが今日になってものすごい「有害」な感じにレベルを上げてきたので、慌ててフィルターを掃除した。

 ・・・すごいホコリだった。
 元々ウチはすごいホコリなのだけど、それがフィルターの容貌に集約されている。異臭は多分、フィルターを超えて中に入ってしまったホコリが中で焼けてしまったのだろう、と思った。
 その証拠に、時間をかけてきれいにしたフィルターを装填後はしばらく無臭だった。
 しばらくというのは、それから少ししてからまた匂うようになったからで、これはさっきまでの分がまだ燻ってるということなのか、もう何なのかよくわからない。
 今度からはちゃんと掃除するから許してくれ、と思う。


2. 東大の
 講義録の第1稿が昨日深夜に仕上がって、結局3時半ぐらいとかにアップしたら、そっくりもぐらさんのとこもほとんど同じぐらいにアップされていて笑った。
 お疲れさまー!!と思った。

 でも一日たって魔法が解けて、僕の方のは段々問題が見えてくる。
 娯楽としては弱い。いや、内容に入り込めればそんなことはなくて、その深遠なまでに豊かな喜びの発散される様は、他に類を見ないほどの彩りがあるとは思うのだけど、どうにも緊張感が弱い。
 まだまだやな。

 っていうか、冒頭から飯野先生を2回登場させてしまっていることにしばらく気付かなかった。気付いた方はどれだけいただろう?プロ野球の珍プレーみたいな、VTRが”テキーラ”に合わせて行ったり来たりするやつを思い出した。
 もう、最初でずっこけると痛いなあ。

 でも、書いてるときっていうのは、直しも含めて、かなり忘我というか没頭というか、イタコのように(比喩だけど)憑依した状態になってるから、そういう辻褄の合わないところも素で読み飛ばしながら文中のセリフを頭で聴きながら、ただそこに立ち上がる風景を味わっているから気が付かないことが多い。
 僕は元々かなり注意が散漫なところがあるけど、これはちょっとそれだけのこととは違って、やっぱりそのイタコ性(と言おう)に拠る部分があるような気もする。
 だからこそ、その後の分野での努力と集中力がより必要とされるはずなのだけれど。


3. 講義録の後記を
 もう少し書いてしまうけど、今回は(今回も、かな)若干なめていたようなところがあった。
 というのも、今回は大谷さんが欠席していたので、授業に普段のような「無限循環的な掛け合い」がなくて、つまりはどこまでも逸脱したり、或いはそこから遥かな帰途を戻ったりということがなくて、「ああ、これはもう、単純に発せられた言葉の数が少なかったな」と講義終了直後は思ったし、その前の回の文字数が間違いなくそれまでで最多だったので、ある意味自信がついていて、もうオラにはどんな講義でも起こせる、みたいな妙な自負もあった。
 でも実際にはまったくそんなことはなくて、いくら書いてもテキストの中では授業が終わらないし、いくらカヴァーしてもエピソードはエディタの穴から零れて落ちた。終わらない。ブルースの授業を起こすのがブルースってことか。


4. もう何度も
 今回は駄目かも。と思ったり、いや、内容は面白いんだから、これは「外」へ発信されなければある種の「損失」でさえあるから。とか思ったりしながらの、それは文字通りのなだめすかしながらの作業で、保坂和志が『カンバセイション・ピース』を書くときに ”坂道を自転車を漕いで上るように少しずつ書き進めた”みたいなことを言っていたけど、その100分の1ぐらいはそれを味わったんじゃないかと思う。
 初めは何とかマラソンの体を保つ程度には走ってみてはいるのだけれど、次第に歩幅は狭まり、スピードは落ち、もう競歩の選手よりは遅くなり、やがて普通に歩く人ともさほど変わらず、自分も歩き始め、休む回数が増え・・・みたいになっていくのがわかる。
 それでも何とか持ちこたえてリタイアを避けることが出来るのは、それが一人で味わって満ち足りる類の喜びではないからで、これはすべての回を通して言えることだけど、このゼミの内容というのが、不特定多数の誰かっていう人達と分かち合って初めて、やっと味わえる喜びだ(と思う)からだ。


5. といっても
 別に僕は人のためにそうやっているわけでは全くなくて、つまり僕が喜ぶために、それを人に伝える必要があるからやっている。

 でも無理に話の規模を広げるわけじゃないけど、あまねく(・・・)表現行為っていうのは、そんな風に立っているんじゃないだろうか。人の為じゃないけど人の為、自分の為だけど自分だけの為じゃない、みたいな。
 まあ講義録の制作を、表現行為だと仮定しての話だけれど。


6. さて、話し変わって
 先月号の『群像』の加藤典洋藤野千夜による村上春樹をテーマにした対談を読んだら、藤野さんに全く対象への愛がなくて驚いた。
 村上春樹を知らないのは、いいと思う。知らないまま語るのも、構わないと思う。その際の発言権やその重みは、同じであって良いとも思う。嫌いであってさえ構わないし、「生理的に気に食わない」的な”思考停止(放棄)”状態でも、まあ仕方ないと思う。少なくとも、対象を相手にしてはいるからだ。
 でも、「関心がない」のに語るのはなぜだろう?藤野さん本人も、なんで自分が呼ばれているのかわからないと言ってるけど、だったらなぜそれをやるのだろう?それが一体、何になるっていうんだろう。わからない。
 この人たちは一体、何をやっているんだろう?何を求めているんだろう。売名か?ギャラの為か?
 加藤さんはまだいいと思う。この人は評論家だから、しようもないことを言えばそれは自分に返ってくる。でも藤野さんは違う。小説家だ。だから、そこで何を言っても「本分じゃないですから」と言って逃げられる。
 これはちょっとひどい。まったく信用できないな。と思う。
 でも、そういう低劣さも呑み込んでいるのが『群像』の特長でもあるから、『女性自身』的エンターテイメント雑誌としてはそれもアリ。という事なのかもしれない。皮肉ではなくて。
幻想の未来


7. 図書館の
 リサイクル・ブック・コーナーで、岸田秀の『幻想の未来』があったのでもらってくる。これはたしか、菊地さんが『CV』で薦めていた本だ。
 タダって。

note103 日記 12:12