103

ドン&保坂&村上を経由する文学小論

  • もう20日か。

気になるのは、”じゅげむ”さんがいつ復旧するのか、などといったことでは最早ないのです。気になるのは、”じゅげむ”が「閲覧のみ」できるようになってしまった現況において、僕のブログの最初に目に入るページ(7月13日分。2ちゃんねるの社長さんのブログについての感想ページです。)にいきなり『誤字』があるということなのです!
直したい・・・。はずかしい。いつもなら「ははは。」と笑って直すところですが、できない。しょうもないことであるほどに、恥ずかしさは募ります。

終わったところで、(←面白かった。でも感想は・・・まだよくわからない。)きのうは保坂和志さんの「<私>という演算」を読んでいました。“私”という演算
これは小説というのではないけど、かといってエッセイというにはチカラが緻密に加わっているというか・・・うまく言えませんが、でも作家本人がそれをわかっていないと作中で書いているので、わからないと言うのがが正しいのでしょう。(でもストーリーや架空の登場人物がないので、一般的には小説とは言わないでしょう、きっと。)
これは、マジで面白かったです。といっても、万人向けのお薦め本というわけではまったくありません。なぜなら、これを「マジで面白かった!!」と言えるのは、僕がすでに保坂センセの文体にすっかり”中毒”してしまっているからであって、そうでない(というか読んだことのない)人にもこのマジックがはたらくとは、必ずしも言い切れないと思うからです。
保坂さんの文体は独特で、2,3行立ち読みしただけでは分かりずらいかもしれませんが、1ページ頑張って読んだあたりでその感触に「あれ?」と思い始め、もっと頑張って、一方ではそれほど意識しないまま2ページ目を読み終える頃にはその「独特さ」という言い方の意味を理解できるような文体で、というかひと言でいえば「まわりくどい」のです!
言いたいことを言うために、ターゲットを周囲からじわじわ追い詰めるように、でも最短距離をとるように、その文章は進みます。ときどきフッと話題が飛びますが(何度も、飛ぶのです。これが。)それも、必然の過程としての脱線です。
この「迂遠しつつターゲットへ照準を合わせる」感じを僕はほかにも知っていて、それは村上春樹センセです。(ここから脱線します。)
僕の知り合いはかつて、「村上春樹って、まだるっこしいからヤなんだよな。俺は”好き”なら”好き”って、直球で言って欲しいんだよ!」と春樹センセを嫌悪していましたが、それは「文学」の一側面を知らない言い方とも言えて、大風呂敷を広げれば、文学っていうのは、言葉をつかって「何か」を表現するもので、言い換えれば「わかりにくい何か」を、「もしかしたら分かるかもしれない何か」に、移し変える作業です。
というかそもそも言葉ってもの自体がそういうもので、すこし具体的に言えば、モヤモヤとした何か、直接言葉にしたら「ゥゥィアェグ!!」とかにしかならないような或る感情を、「苦しい」とか「暑いなー」とか「ちょっと、遠くない?」とかいう”記号”に”抽象化”したのが言葉で、他人に「ゥゥィアェグ!!」をわかりやすく伝えるために、道具として言葉はあるのだと、とりあえず言っておきます。
で、文学というのは(ここでは小説に限りますが。)さらにそこにフィクションなりの「もうひとひねり」を入れることで、「苦しい」とか「暑いなー」とかいうことよりさらに複雑なモヤモヤを、他人に伝えるための道具としてあるのだと、これまたとりあえず言えると思います。
だので、↑の彼の言うように、「好きなら好きって直球で言う」というのは、複雑なモヤモヤを伝えるというポイントから見れば、むしろ大きな危険を伴った表現というか、むしろそれを伝えるのはほとんど無理で、なぜなら、「『好き』という言葉/表現で伝わることは余りにも限られていて、それでは足りない」というところから小説の文章は延びていくからです。
たとえば或る恋愛小説をひと言で解説しなさいと言われて「これは、彼が彼女を愛する話です。」といえばそれは概ね合っているかもしれませんが、それで済むなら作者はそれを書いたりはしなかったわけで、そのひと言解説から零れ落ちた部分を伝えるために、延々と文章を連ねていくわけです。
たとえば「(例1)朝起きたら〜」という冒頭の情景描写、たとえば「(例2)そのガラス瓶は〜」という何でもない文章が小説に含まれているのは、壮大なマラソン・コースを走り抜けてその先にある「モヤモヤ」へ辿り着くためにそれが必要だからで、その長い道程は、じつは一番の近道であり、「直球」でもあると言うこともできます。
少しだけ話を戻すと、僕は村上春樹を読むことでそういう風に思うようになりました。特に初期作品に頻出した、一見何の意味もない、ただファッション性を増すためにだけあるような数字やカタカナの固有名詞は、実はそれそのものを表すためでなく、その先にある「名もない何か」を読者に伝えるために使われているのかもしれない、と思ってみたりすることによって。

1973年のピンボール
僕はテニス・シューズをはき、トレーナー・シャツを首に巻いてアパートを出ると、ゴルフ場の金網を乗り越えた。なだらかな起伏を越え、十二番ホールを越え、休憩用のあずまやを越え、林を抜け、僕は歩いた。西の端に広がった林のすきまから芝生に夕陽がこぼれていた。十番ホールの近くにある鉄あれいのような形をしたバンカーの砂の上に双子の残していったらしいコーヒー・クリーム・ビスケットの空箱をみつけた。


Copy(c) Haruki Murakami "1973年のピンボール"

で、一気に保坂センセまで話を戻すと、保坂さんの文章の「まわりくどさ」は或る意味で僕に村上センセを思い出させて、なのでその「まわりくどさ」を、難解さというのではなくて、もしかしたら言いたいことを伝えるための最短距離をとった走り方なのかもしれないな、と思って誰かが手にとって一瞬でも読んでみてくれたら面白いかな、と思ったということなのでした。

でもちなみに、僕がとても好きな保坂作品は「<私>という演算」ではなくて、「残響/コーリング」という小説です。